mantrog

京大漫トロピーのブログです

【12/11】何者でもない私を受け入れていく

担当→146B(4回生)
2023年アドカのテーマ→「誕生」
11日目
今日の漫画→

はじめに

2023年のクリスマスイブは休日

私は図書館でバイトをしています。カウンターで貸出をするときに、いつまでが貸出期限なのかを利用者の方に伝えるのが業務の一貫となっていて、常に2週間先の日付を意識しています。実はこのブログを書いている前日にもバイトがありました。そこで貸出作業をしながら、もう2週間先にはクリスマス・イブかぁ……としみじみと思ったことです。そういうわけで今年の残りの日数を数えたりもして、感傷的になったり、今年も何者にもなれなかったなどと絶望的な気持ちになるものです。

この章では漫画の話がありません

卒業と進学をさせてほしいです(涙)

「何者かである」とは一体どのような事態でしょうか
うっせーっ! 知るかっ! って蹴っ飛ばせればそれでいいのですが、この問いは一度頭をかすめてしまうと、亡霊のように繰り返し頭の中に出現します。

そして私はたびたびこの問いに頭を悩まされています。

そもそもなぜこのようなアイデンティティ・クライシスとも称せそうな状況に陥っているのか。
私は大学4年目ではあるのですが、留年をしているため3年生です。4年目だろうが3年生であろうが、いずれにせよ大学で専門的な内容についてある程度の学識を得て、ゼミや研究室への配属をすでに済ませている/これから所属する予定であるという状況なわけです。
が、私にはここでひとつの乖離が起きています。所属している学部は理学部なのですが、興味がありそれなりに勉強した分野が哲学の方というちょっとした分裂です。この裂け目は私個人の内側だけでありません。先日も人と会話しているときに、私が文学部に所属している人間であると勘違いされて話が噛み合わないことがありました。

いや実のところ、私のやり方が間違えているんですよ。
そもそも理学部の学生らしいことを普段から話さずにずっと思想についてどうたらこうたら話す、そういうことを発話し表明しつづけてたのだから、思想を専門にしている学生であると周囲に意味しつづけていることとなんら変わりはないのです。なので私を文学部の人と思っていた人がむしろ自然なほどです。

だから私が本当は理学部生なんですよと訴えることには、何ものの効力もないどころか私という人間を知るのにノイズでしかないのです。つまり、私という人間がどういう人かを知るのに、その所属している学部は、もはや有効ではないのです。

では何者かであることとは、私の上のような乖離がない人間、つまり、肩書と実際の振る舞いが一致している人を指すのでしょうか。
例えば、その名前と中身が一致していたとしても、その意味が「何者でもない」ことを含意しているのなら、それは「何者でもない人」になるのでしょう。

こういう風に考えてみると「何者かである」という考え自体がどこか胡散臭いものであるように思えてきます。

漫画の話:積極的に何者でもない私を受け入れていく

さみしぃね

『今日はまだフツーになれない』もそんな話だと思うんですよね。
漫画家になったもののすぐに打ち切られた山下も、かわいいものが好きで就職も進学も拒んでメイド喫茶で働いたあとに非正規雇用で働いたりしている高橋も、どちらも何者でもない存在として描かれています。それぞれのフツーを生きていて、それなりに独特の生き方をしているけど、それは社会的には何者でもないことになってしまう。
「あたしだけ」の生き方であるが私にとってはフツーだから、それ以外は選んでこなかったし、いやむしろ「何者かである」必要すらないんです。
何者でもなかったとしても、それに気付いてしまったとしても、そのことを私なりのフツーだと思って、慣れないながらにもやっていくしかないですね。

自分自身の核とは何かがわからなくなり、そのことに危機を感じたときに、その人のフツーが誕生します。

オチが付いたのでこの辺りで本日の記事は終わりにしようと思います。
読んでくださった方、ありがとうございます。