あっ、曲の紹介か。今からやります。まずは聴いてみてほしい。 open.spotify.com
PAS TASTAのメンバーとしても活動するyuigotの手腕が遺憾なく発揮されたポップソングである時点でかなりポイントは高いのだが、俺がこの曲を評価するのは2番に仕込まれた派手なギミック*26にキャラクターソングの妙を見出すことができるからだ。参照するために該当部分(1:23〜1:45あたり)の歌詞を貼り付けておく。えいっ。
www.youtube.com 「の、野島健児がdeadmanを〜〜〜〜!?」以外の感想が出てこない。
「近未来×戦国×V系楽曲」とかいう本当にありえないコンセプトを携えたメディアミックスプロジェクト『マガツノート』*42。わけわからんことしてるから当然こいつも鬼籍に入ってしまった*43。お前らもっと早く教えてくれよ。
さて、ここに挙げたdeadman"蟻塚"カバーは、『マガツノート』が生涯をかけて取り組んだV系楽曲カバーのひとつだ。レコーディングには村井研次郎(cali≠gari)、shuji(ex. Janne Da Arc)とかいうやたら豪華なメンバーが参加しており、カバー対象のバンドは上記deadmanのほか、有名どころではLUNA SEA、Plastic Tree、girugamesh、アンティック-珈琲店-などなど……なかなかツボを押さえた、言い換えればガチ若年層は完全に捨てたラインナップである*44。まぁそれはコンセプトの時点でという感じはあるし、俺もV系は人より好きだし*45、声優音楽×V系ってまだやれることある気がしないでもないからこういう企画嬉しいし……終わった後に知った身で言うのもなんだが、もっと続いてほしかったですね。合掌。
*21:すいません、注20の続きさせてもらっていいですか? 続きっつーか、『18TRIP』のストーリーにおけるメインテーマの話を脇に置いたのが自分で我慢ならなかったので、しますね。まぁ、キャラ解釈と伏線にご執心の方々以外にとっては、読めばわかるようなことではあるのだけど……でもでも、最近はキャラ解釈っちたちの読みから学ぶことも多い。自分が小説的な機微を読むのにそこまで長けていないのもあるが、キャラクター個人の心情は、物語のコンセプチュアルな部分を構成する重要な部分であるからだ。たとえば、VTuberの夏芽川アキ氏(夏芽川アキ / Natsumegawa Aki - YouTube)はキャラ読みを全部口に出してくれるので、ときたま参考にしています(※1)。あと元気あるのがいいわ。 さて、まぁまぁな前置きを挟んだが、本題に入ろう。この注は本文2なので段落頭にスペース入れます。(すくなくともこれまでの)『18TRIP』の根底に横たわるテーマは、「完全に逃げきることは不可能な自己の文脈とどう付き合うか」だ。ここでいう「文脈」とは、自身の属する環境、所有する性質などなど、自分の外にあるものの総称であり、作中のキャラクターたちはそれらに囲まれ、ときに衝突し抑圧される一方、そこから恩恵を受けることもあるし、彼ら自身が他の誰かに対する文脈にもなりうる(かなり後追記:本文冒頭で引用した『18TRIP』のイントロダクションでは、俺の言う「文脈」は「荷物」と表現されている。旅に寄せすぎ。)。さて、上述の極めて俗世間的、俺の語法で言えば人生的な主題を抱えているからこそ『18TRIP』は今の俺に刺さったわけだが、ひょっとするとそれはたまたまのことであるかもしれない。というのも、そのような主題の描出は物語の中で結果的になされてしまうことも往々にしてあるだろうから。しかし、そのような認識はおそらく誤りだというのが、つまり、『18TRIP』はそもそも深部にそのようなテーマを持つものとして規定されているというのが、自分の主張だ。その傍証になるものとして挙げられるのが、旅というモチーフ、および、カセットテープに代表されるレトロな(過去を志向する)アイテム群だろう。旅はまさにそれを構成する移動という過程によって、レトロなアイテムはそれを通じた過去への、ときには憧憬を含む視線によって、人を自らが属する空間的・時間的文脈から切り離し、異なる思考へ連れ出す(※2)からだ。"Travel is more than the seeing of sights; it is a change that goes on, deep and permanent, in the ideas of living."というわけである。他にもバリエーションありこのような性質は先述した主題と呼応するものであり、自分の主張へ説得力を与える材料になると思われる。まぁ、『18TRIP』が捉える旅の一面性(自発的かつ緩やかな解放、俗っぽく言えば自分の見つめ直しになるようなものとしての旅の成立は、歴史的にはごくごく最近のことだろう)や、また作中で表現される過去への視線が(作中の時間軸は2055年だから)現在への視線でもあるという事態につきまとうやましさなど、若干安易で怪しいところがないわけでもないのだが……とはいえ、『18TRIP』はたんにそれらを用いてキャラクターを軛から解放しておしまい、という構造にはなっていない。旅は帰路によっても構成されるのであって、カセットテープは過去を志向するための踏み台であるだけでなく、今そこに吹き込まれる悲喜交々な人生の比喩なのだから。つまり、いったんその外からの視線を獲得したとしても、自分が背負う文脈にはまた戻ってこなければならないのだ。それでもやはり、彼らは自らの軛をいくらか緩める術を知ったのであって(※3)、それを梃子にできるならば、自己を変化させること、そして、文脈を受容し、また逆に作り替えることが可能になる。そのようにして、彼らはよりよい生を志向する……これが『18TRIP』の基本的な構造だ。いや〜、俺もよりよい生目指してぇ〜〜〜!! こんな話してたら全部自分の言葉で整理したくなってきた。機微読み・キャラ読みにも挑戦したいしね。ということで、プロローグとエピローグは飛ばしてキーストーリー全部に「そもそもどういう話なん?」に関係する簡単なコメントつけますね。みんなわかるくらいのことだから「ワイは読めてるで!」の人はイライラしながら読んでほしい。未読にわかるレベルの詳しさで書く労力は割いてないけど、一応ネタバレ注意。あと是々非々、いや是々々非くらいでやるので是々々々じゃないとダメな人も注意。一発書きだからめっちゃ読みにくいし、書き手のテンションを上げるためにちょくちょく気取った文体のアクセルをベタ踏みしていてムカつく可能性があるのも注意。注に私見を書いてるときがかなりあるのでそこも注意(なぜ本文に入れられないんですか?)。挑発的な言動もちょくちょくするので注意。でも嫌いなキャラはいないからヨロ。あと人の感想などを参考にしたときはちゃんと典拠貼ります。そうじゃない場合は既出でも(まぁだいたい既出だろう)俺が勝手に考えたことなのでそこも注意。予防線貼るだけ貼ったし、やるぞ!
Chapter 1 Sun will R1ze! 冒頭の就任式のスカッとジャパンっぷり、それに次ぐアホみたいな世界観開示に耐え抜くことができた(※4)なら、『18TRIP』のストーリーを楽しむ適性アリ。西園先生の偉大さは本文で説明したので、ここでは物語全体をざっくり。プレイヤーが最初に読むストーリーなこともあり、大筋は非常につかみやすいのではないかなと思う。HAMAツアーズでの活動を通じて、「西園練牙」という他者のコンテクストに接ぎ木された存在である西園先生が、ちょっとずつ肩肘張らない自分と向き合えるようになっていき、彼に照らされた朝班もまた徐々に変化していく……このような物語を介して描かれるのは、ツアーコンセプトにも表れているような「人は文脈における機能によって定義されるのではない」という人間観、だからこそ自分の本性と適切に向きあわなければならないという教訓、そして、それを経ることで夜は明け、明日がやってくるという希望だ。そのストーリーテリングの中心にいるのは徹頭徹尾西園先生なのだから、俺のような弟子は彼の足跡を簡単に振り返っておかねばならないだろう。これ即興で出せるやつがCの次Eって言うわけなさすぎる 西園先生が抱えていた問題とは、有り体に言ってしまえば次のようなものだろう。ストリートチルドレン(※5)のレンが「ふたりでひとつ」の存在であるキバと出会い、優秀な彼と入れ替わってしまったこと。もちろん、それ自体は悪いことではない。そこで創出された新たな文脈によって、彼は生い立ちに由来する文脈からしばし離れることが可能になったのだから(※6)。しかし西園先生を悩ませているのは、彼にとって地上のすべてを照らし尽くす太陽であったキバとのギャップだった。植え替え先の「西園練牙」を全うしようとするあまり、西園先生は素直な自分を表に出すことができずに空回りしてしまい、そのために周囲との関係が破綻し、もっとうまくいかなくなる。だからこそ、彼は西園家の外、つまりHAMAツアーズに身を置く必要があったのだ。KOBE(※7)への研修旅行において西園先生は、主任との会話、続く真実の開示によって、情けなさも織り込まれた本当の自分を他人に見せることができるようになる。それが可能になったのは、主任や亡き祖母に、本当の自分を受け入れてもらえたからだ(※8)。撒かれただけの種に真摯に水をやることで、それはいつか見るものを照らすきんいろのバラ(※9)になる。この変化を機に、西園先生はもう後悔しないように、かりそめにこだわりすぎずに前を向く。その陽光が、各々の文脈に囚われているがゆえに共通の目標に向かって団結しきれなかったR1zeのメンバーをときほぐす、これがSideBでなされたことだろう(※10)。 すべてを注に回した結果えげついダイジェストになったが、基本構造を適用する(抽出元に適用するという変なことをやっている)シンプルな文章にしたという意味ではいいかもしれない。マジで普通に書いてるとこんなんなっちゃうんだよな。これ、示唆か? 西園先生〜(つД`)ノ いやほんとに西園先生はすごいですよ。もちろん人のいいところを見つける能力が高すぎる主任が彼の素直なところを認めてくれたからこそというのはあるけどさ、そもそもその素直さが眩しくて眩しくて……く〜〜〜〜〜〜っっっ!!!!
Escape from S まずなんでマフィアが地上波出ていいことになってるんだよ。礼光おねーちゃんも「大黒が言ってるならええか……」で納得しないで! 法定速度守ってる場合じゃないよ!……みたいなツッコミが無限にできてしまうのでストーリーのお話をしますか。執着とかしねンだわスタンスの叢雲先生が基本執着マシマシの朝班に囲まれ、ラノベ主人公モードで孤軍奮闘するも最後は一瞬だけやってやるか(ラノベ主人公モードは継続)になる話なんだが、カプ厨ストすぎてキャラ読みしかできねーようになってるのが最大の特徴。みんな大好きらしいあのシーンもすぐ抽象の軍門に下らせたくなってしまう人間にとってはグルーヴを掴むのに一苦労なのだが、まぁやりたいことはなんとなくわかる。最重要のセリフはたぶん礼光おねーちゃんの「他人とは、己を写す鑑」で、これを西園先生と叢雲先生に適用するのが素直な楽しみかたなんでしょうね(※44)。叢雲先生は西園先生にズカズカ踏み込まれてまぁまぁキレちゃうのだが、それはやっぱり執着を持たぬよう飼い慣らされた自分のありように対して諦念と同時に不満も抱えているから、というのがちょっとある(よね?)。そして塔の上で西園先生がキバに「西園練牙」を明け渡すことになんの執着もないと知ると、叢雲先生としてはそこに虚飾まみれの空虚な被支配者でしかない自分を見出さずにはいられないわけですわな。とはいえ、西園先生は完全に空っぽなわけでもない。鴉のテリトリーである屋上で問いかけられた「なんなら、一生いる?」をー首肯しかけたもののー仲間の意思に配慮するような善性によって拒否した彼が(空虚という点で)自分であるならば、そこには別様の、あるいは本当の自分という可能性も同時に見出されざるをえない(※45)。檻に囚われた西園先生を助け出す際に発された「もっと欲深く生きましょうよ」という助言は、西園先生への言葉でもあり、現実化される見込みのない可能性として存在する叢雲先生自身への言葉でもあったっつーことよね(っつーことよね?)。西園先生がへにゃってるのではなくて檻に天井がある感じだった場合、怖いですよね実際現実化される見込みがないかはわからんけど、まぁこのときの叢雲先生的にはそういう認識だったんだと思います。執着とか積み重ねの表象であるところのポイントカード返してるし(託していると言ってもいいかもしれないね)(※46)。もう自分は重たいものを持てる人間ではありえないからそっちの自分に頑張ってもらおう、という感じだったんでしょう(※47)。これ投げやりすぎ読解か? うーん、どう友の人って魏呉蜀のどっかではあるだろうし、怒られそうで怖いなぁ。まぁこんなネットの端っこの文章見つけられるわけないけども。
※44:書いたしばらくあとに改めてロゴを見返したら「E」と「S」が不完全なシンメトリーになっているのに気がついた(遅っ!)。 ※45:これは西園先生の側から眺めるとキバ以外と鏡あわせの関係が成立したということで、キバが用意した「西園練牙」のコンテクストが多少ときほぐされたことを意味する。西園先生が認知しているかどうかという違いはあるものの、モデル・タレント業と同じクラスに投げ込まれるものではある。 ※46:メモと間違えてポイントカードを渡してしまう西園先生という構図はもちろん、彼が虚飾のパッチワークである叢雲先生に勘違いで純粋な好意を向ける事態とパラレルなのだが……のだが? という状態になってしまっています(機微読み弱者)。機微を離れた点にかんしては「Glow in the Dirty Rain」も参照のこと。 ※47:それに、そんなに執着したいわけでもないっぽいですよね。執着しないでいろんなもの(ときに自分も)をぞんざいに扱うのがもう癖になってて、そのようにふるまうのを自分の性向として積極的に受け入れてる(そうせざるをえない)ってところも叢雲先生にはある。タバコは空っぽの肺に注ぎ込まれる瞬間的な快楽兼害毒なわけだけど、ずーっと吸いたがってるし。
※74:このストーリーを経たからこそなのは理解できるけど、最近音声2がフツーに出土しててワロタ。よかったね。あとこの世界に皇族いたんや……(King of the light mikado! What you get is all I need-power now! ウォーォーォー!(テーレレッテーテーレレレーレーテーレレッテーテレレレレレレレ…🚗💨)(なけなしの漫画要素投入、てか"King of the light"って「日光=いろは坂の王」=(日出処=ジャパニーズ)エンペラーって意味で、だからMIKADOなのか……なんやそれ!)。 ※75:「リセット≠アストロノーツ」という傑作にひとつケチをつけろと命令されたら、こういうタームの選択と使いかたがめっちゃキショい、と言いたくなる。相対性理論を下敷きにした説明を聞かされて「……アインシュタインか。」と反応するのは、本当に頭のおかしくなってしまった科学史家ですらありえない。大将! エイトリ、衒学(未満)抜きで。👴<アイヨッ❗️ ※76:つまりは彼にとっての弓道と同様の存在。世界と繋がれなかったがためにアイテムとの間に結んだ関係をのちに他者とのそれに敷衍するのは(主に)昼班メソッドである。つか弓道要素を真善美の1本(3本?)だけで賄っており、ある意味泣ける。 ※77:言うまでもないが、ここにDay2的世界像の反復を見てとらなければならない。刹那と自己特権化の拒否によってすべての人とすべての時間の価値を均したうえで、「だからこそすべてが特別で価値あるもの(あるいはその逆)で、そのうち子供であるいまの自分にとって重要なのは、(蓄積を踏まえた)いまと自分なのだ」とする価値の再配分、sageてからageる戦略は、2章において五十竹先生が遂行したことの一部だった。このことは、実際には世界は映画でないという認識が一枚かまされているからこそ、「誰もが」主人公になれる事実に示されている。ついでに言わせてもらうと、2章との関連で俺がとりわけ好みなのは、うーちゃんの「今日はいつかの『あの日』かもしれない」というセリフ。ここでは「何度でも、勇気をくれる夏になる。」とのあいだに堆積的(Day2的)な世界認識が共有されながら、しかし事実に対して異なる価値付与がなされ、それでもなおこの2つから2章とまったく同じ結論が引き出されるという、どんでん返し返しとでも言うべき驚異的な構成が展開されている。こういう価値づけの自由自在さを見せられると俺は「いまエイトリ読んでる〜っ!(人生キタ〜〜ッ!)」と最高に気持ちよくなれるのら。 ※78:注20と※18も参照。さて、この物語は2章のストーリーラインに沿った子供っぽさの確保を描いているともいえるが、俺の言葉で表現すれば、いままで試みられてきた「大人による子供の綺麗事」の次元に加え、「大人による大人の綺麗事」という次元をも切り拓く二輪構成の物語だ。なにせ、老年期にさしかかろうかという八景から見ても、すでにむーちゃんは「成熟した寓意」の使い手なのだから。しかしまた、「リセット≠アストロノーツ」には「子供による大人の綺麗事」も登場する。日記帳を燃やして全部なかったことにするなんてできない、という指摘を受け入れながら、なお父のいない世界で思い出を上書きすることに固執するむーちゃんの態度は、酸っぱい葡萄のお話にも似た子供っぽい拗ねだった。拗ねる子供の無理な背伸びをやめさせるには、こちらも子供の土俵に立つのが一番だ。だからうーちゃんは指相撲勝負をけしかけ、ずるい子供の常套手段で勝利を収めたわけである。そしてこの儀式は同時に、2人の大切な家族が揃っていた上書き以前のあの過去をーそれも手を繋ぐことによってー上書き後のいま再現することで、2つの世界を、ひいては、「による」など存在しないたんなる幼年期と(どのような観点によるものであれ)綺麗事を創り出さざるをえなくなったいつからかを接続する試みだったといえる。だから、「子供による大人の綺麗事」は拒否されるけども、そこに現れる「子供」が持つ真性の子供性は保存され、はるか昔に措定される観測不可能な(その観点には二度と立つことができない!)、しかし彼らを構成するあたたかな過去として仮構された、のだ。さて、そうなったときに思い返すべきなのは、メインストーリー2章における高校生たちの抵抗先はまさに「子供による大人の綺麗事」だったことだろう。ということは、久楽間先生が斜木先生の斜に構えた態度を否定したときも、無理に背伸びをするに至らせた彼の子供っぽさは、それを反省的に捉えてしまえばそのことによって失われてしまう当のものとして、つまりは究極のベタ=純粋さとして、潜在的に捉えられていたのではないか。ここには新たな喪失の哀しみと、喪失を経なければ得られない未来への希みがあり、そう考えると昼班の物語は俺にとって格別の美的なよさを帯びてくるのだが、まぁこれもあまり同意はされない(おそらく部分的に誤った)読みかただとは思う。てかそもそも俺の言語能力がお粗末すぎて何も伝わってないよね。ごめん。
Glow in the Dirty Rain 福岡キターーーーー♪───O(≧∇≦)O────♪ 福岡っつーか博多だけど、こちらも漫トロの人と旅行しました。なのでその思い出語りを少々。きっかけはたしか俺が「屋台でおでんを食べるというベタを経験したい!」と言い出したこと。ただ注意しないといけないのは、博多の屋台ってほぼ全部観光客向けの浅いスポットだということで、そのなかで少しでも感じを出したいならどこに行くかが大事なんですよね。とりあえず中洲はダメ(蛎崎さんなにやってんすか! と思ったが、逆に、のやつっすよね、たぶん)。俺がとった戦略は、事前によさそうなところをいくつかピックアップしておいて当日実際に観察してみるというもの(天神周辺で探しました)。リサーチの甲斐あってか本番は常連と観光客が半々くらいの理想的なお店に入れたぜ。さっき屋台は観光客向けと書いたけど、裏を返せば博多住民はほとんど行かないということで、さらに裏を返せばその状況で屋台に通ってる逆張り住民はアクが強いということなんですよね。実際常連の人はみんな初対面でわかるくらいには個性的で、そういう人たちと一夜かぎりのおしゃべりをするのはめちゃくちゃ楽しかった。九州にしか生息できない毎秒ハラスメントおじさんとレスバしたのは最高の体験でしたね。おじさん含め、生意気なガキをほどほどに受け入れてくれるあたたかい人たちだったのでマジ感謝っす。博多旅行では他にも土地所有権濫用大量違法建築公園で遊ぶとか、牡蠣小屋で意図せず口数多い人と少ない人でハッキリ卓分かれちゃって無限不必要おしゃべり人間としての申し訳なさを感じたりとか、日本各地にある万葉の湯になぜか行ってスーパー銭湯のすごさを実感するとか、いろいろやったけど全部楽しくて、大学時代の旅でいちばん思い出に残ってるなぁ。ちなみに激浅博多旅行者である俺のイチオシスポットは圧倒的にサンセルコ。「昭和レトロ」のラベルを貼ることはできるけど、それにとどまらない鵺的カオスがあって超よかった。願わくは賑やかだった時代を見てみたかったね。サンセルコ内の雑貨屋にて¥800+¥60=¥500で買ったサイモンとガーファンクルとジェンマ安全性にかかわるなにかに抵触している気がする公園。奥に見える回転しそうなやつ速度無制限で本当にありえなかったです。 思い出終わり。叢雲先生の話をしよう。「Glow in the Dirty Rain」はそれ以前に樋口美沙緒が叢雲先生の「気分」と呼んだものを詳述する回だが、とはいえ話すのは結構難しいストーリーではある。叢雲先生は読み手にかけるキャラ読み強要圧がかなり高い(※79)し、本筋の「お前傾いでるよ」は礼光おねーちゃんが大体言ってくれてくれてっからさ。じゃあどうしようかな、ということなのだが、ここでは叢雲先生と礼光おねーちゃんの対比、それも背骨の有無から少しズラした(しかし関係の深い)対比に着目してみることにしよう。 さて、その対比とはなにかといえば、他人とそれらで構成された社会とを2人がそれぞれどのように捉えているか、という目線における対比だ。そして俺らはすでに、ポイントを掴むために非常に便利な道具を公式様からいただいていた。2人が一夜のかりそめを演じる舞台、イマーシブシアターである。観る者をも劇中に取り込むことによって観客/演者という区分を曖昧にした、比較的新しい演劇形態。それは、そのまま今回の主役2人の心象世界だ。一方では、劇場の中にいる人々は全員、なにかを演じている=本当を隠しているのだが、他方では、劇場の中にいる人々は全員、なにかを演じている=意味ある役割を担っている。これがちょうど、前者のように社会を捉える叢雲先生と、後者のように社会を捉える礼光おねーちゃんの対比に相当する、というわけである。社会と自分と他人を一括りに劇場空間に放り込んでしまう見かたはそれはそれで2人の持つ極端さの表れではあるのだが、とにもかくにも「Glow in the Dirty Rain」ではこの2つの世界観の交錯が描かれている。したがって、その世界観とはいかなるものなのか、次はそこに向かわなければならない。 叢雲先生とは、生育環境ゆえに弱肉強食の世界観を内面化せざるをえず、また自らが虚像のつぎはぎであるがゆえに他人が持つ虚実のありようを一目で見抜けてしまう生き物だ。だから彼は、人間なんか自分含めて嘘だらけで、一皮剥けば醜悪な中身が詰まっていると、そしてまた、社会とは弱いやつから死んでゴミになる無意味な茶番だと、そう考えずにはいられない(※80)。嘘のヴェールを取り去ったあとに残った偏在する無意味を叢雲先生が受け入れるのとは対照的に、世界にヴェールを被せることで偏在する有意味を標榜するのが礼光おねーちゃん。輪廻転生というあまりにもデカすぎる設定を背負った彼(※81)は、生き続ける者の責務として、意味なく失われる命を許容しない、そしてそのような命には意味が吹き込まれなければならないという確固たる信条(背骨)を抱えている。そしてストーリーが展開するなかで、意味なく使い潰されるモノ=自分であるところの花瓶(ニャンピエちゃんも同様)が壊れるのを防ごうとした叢雲先生は肋骨を痛めてしまうが、本当のことを見抜くのにも長けた礼光おねーちゃん(そろそろ6文字も追加するの飽きてきました)が肋を的確に打撃することで両者の交渉が始まった(※82)。 そこで礼光さん(飽きたので変えます)が言及するのが叢雲先生の「傾ぎ」、つまりはたまたま気が向いたのでやってみる、という気分。それが束ねられることで叢雲先生は不条理を追認するだけではない、なにかを意味する主体になれるかもしれない、と示唆される。のだが、それが完遂されるのは未来のことだ。「Glow in the Dirty Rain」はまずその一歩を踏み出すお話(※83)なのだから、とりあえずはその歩幅を測ってみよう。ここで同時に言われるのが、叢雲先生からすればそのときの自分のために気分でやったことも、相手からすれば親切に見えたりすることもある、ということ。ダイレクトに「エスエス」に適用できる当の発言は、しかしここでは彼のシアター的世界観へ差し込む光明としても解さなければならない。つまり、無意味から有意味への引き寄せとして。 ただもう一度目線を変えて、叢雲先生のパーソナリティがどのようなものであるかを考慮に入れたうえでこのくだりを読み直してみるのもよいだろう。上述したように、叢雲先生とは虚像のパッチワークだった。もちろん彼にも「これが本当かもしれない」と思えるような自分ー「彼女」に話しかけるときの自分ーは存在し、それはひとつの核だといえる。とはいえ、それで十分なのは、叢雲先生が自分の生のフィールドがそこだけだと心の底から思えているときに限られる。そして実際にはそうでないからこそ、(あってしかるべき)裏がないということにおいて自身の世界像からの逸脱者である西園先生や主任に、叢雲先生はーときに羨望まじりのー苛立ちを覚えるのだ(※84)。しかしながら、西園先生や主任との関わりは、もはや自分でも自己認識がおぼつかないほどに虚ろな彼が世界との紐帯を獲得するためのヒントになった。この点はこれまでの『18TRIP』のストーリー構造と比較してもなかなか面白いので、すこしだけ詳述モードになろう。 叢雲先生が生のフィールドを適切に拡大するにあたっての最大の課題とはなんだろうか。それは、(私的な空間に隔離されたかすかな本当の自分以外には)彼が虚像しか持っていないために、そもそも世界とつながるための自己が用意されていない、という点に集約される。これは紐帯以前の問題だ。だから、叢雲先生はそもそも適当な自己像を作りあげるところから始めなくてはならない。しかしどうやって? かすかに残った本当の自分をダイレクトに使用することは禁じられている。彼は(まだ?)そこまで自己開示ができる状態にはないから。そこで叢雲先生は、外部に近づく、あるいはそのための自分を用意する……はずはない。彼が行ったのはむしろ、今持っている虚像の自分ーそれも残酷な「真実」と表裏一体のーを普遍化することで、外部を「嘘」/「真実」という歪曲された二分法に従った世界像に収め、そうして築いた世界と虚像の自分を同型とみなすことだった。これで先述したシアター的世界像の出来上がり。砕けたメガネ、花瓶、ロボット、西園先生などなど、叢雲先生は常に自分以外のものと自分を重ねようとするが、それはこのようなルートで構築された世界像の内部にあるアイテムに付与された(※85)意味を確かめることで、逆に自己の輪郭をなぞる営みだったわけである。しかし、これはどこからどう見ても一人相撲だ。だから、叢雲先生はこのやりかただけでは誰ともつながることはできない。 さて、自分は冷徹に現実を見つめていると考える叢雲先生に不足しているのは、他人がこの世界を眺めている視線についての知識だろう(※86)。いまこそ、礼光さんの発言を思い返すときだ。「お前は気まぐれと言うが、受け取る側はそれを親切と感じる場合もあるだろう」……虚像しか持っていない叢雲先生は、自分以外から自己像を、世界における意味を、備給してもらうほかない。なら、それを逆手にとってしまえばいい。つまり、最初に本当の自分を外部に提示する必要などなかったのだ。気分によって演じられた虚像(※87)を他者が親切とみなすー西園先生や主任が「勘違い」するーことによって、叢雲添という人間像が創造される。そして驚くべきことに、外部からの意味補給を欲する叢雲先生が確かめることで、それは本当に自己像になってしまう(※88)のであり、そのとき、叢雲先生と他者とが共有する意味の空間が出現する……実行されたのがまったく新たな論理であることは明白だろう。これまでのストーリーでは基本的に、世界とつながるべき自己、自己とつながるべき世界はともにはじめから存在していた。しかし「Glow in the Dirty Rain」においては、演じることによって両者が遂行的に創出されてしまうのだ(※89)。イマーシブシアターという道具の真の含意はここに存する。なぜなら、劇場と演者は演技によってはじめて成立するのだから。 なんか叢雲先生に向きあったら結構いい感じになったわ。ストーリーの本筋にあんまり触れていないという難点はあるんですけど……じゃあ失敗なんじゃないですか? ニョワ〜〜〜〜〜(※90) そういえば最近叢雲先生関連で感心したことがあって、企画部トークすごくないっすか? 経営配置めっちゃテキトーだからついこないだ見れたんすけど、クズキャラにこのセリフ言わせることで会社の飲み会嫌いな人の溜飲下げるの、ノーリスクローリターン(ローなのはこれで得られるリターンの最大値なんぞたかが知れてるから)でかなりテクい。でも僕は飲み会行きたいです。酒弱いけど。
*36:"白昼夢"だけでなく、『18TRIP』にはいいキャラソンが多い、と思う。俺が曲として好きなのは"ガラスワールド"、"Falling Into Eternity"、"夢煩い"、"パーチータイム"、"雨が止んだら"、"永遠のねがいごと"あたり。楽曲提供者の権威に反応してんのか! と思う人も多いだろう。いやまぁ実際そういう面も間違いなくあるんだろうけど、多分ちゃんといい曲だって! あと、主題歌の"グッドラック"もスルメ曲でよい(スルメ曲だと思ってる人はあんまりいないと思うけど……)。
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しかしなんというか、いろんな人が楽曲提供してますよね。職業作曲家という感じでもない、自分も舞台に立っているアーティストに楽曲制作を依頼すること自体は地味にキャラソン界で行われ続けてきたのだが……(この記事と近すぎる例を挙げると、『18TRIP』の制作会社であるリベル・エンタテインメントの代表作『A3!』には、大石昌良、sasakure.uk、北川勝利、沖井礼二(←マジ? と思ったが結構そういう仕事してるんですね)などが楽曲を提供している。全然職業作曲家だけどPowerlessとかもちょっと意外だったわ。Dynamixの"Catastrophe"が初見だったからそのイメージ強くて、というレアケース。で、以下に貼るのは普通に好きな曲。。
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近年そういうコンテンツの一部が「楽曲派」として自らをパッケージングすることが容易になったのは、「ヒプノシスマイク」の成功をロールモデルにできるから、というのがまぁまぁデカい気がする(『A3!』は「ヒプマイ」以前だし、そもそもそういう売り方ではないのにLantis(どう考えてもポニーキャニオンである。どういうミスですかこれ?)のおかげでいい曲多いだけなのだけれども。じゃあなんで引き合いに出したん?)。曲も面白いし、ちゃんと偉大なコンテンツである。まぁHipHopの人から見たときに云々というのはあるんだろうけど、そこはチェチェケチェケチュワ〜ということで。むしろキャラソンくんとしては、アニメ/ゲーム文脈と、HipHopを含むがそれより広い音楽カルチャーとの結び目を作ろうという試みのひとつとして理解したい。TDDのみなさんはEVIL LINEの仲間たちとのコラボアルバム出したうえでライブやってたし、歌モノお祭りアルバムの”The Block Party”ではHipHop/ラップの領域にとどまらないビッグネームがクレジットされてたわけで。「要はここジャンルのスクランブル」らしいよ。
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ずっと思ってるんだけど、"DON'T TEST DA MASTER"の練習してるときに一番できないのってGOCCIのバースじゃないですか? とはいえ、元ネタゲームみたいなのってしょーもねぇよなぁとなるときは結構ある。サンプリング文化ってどうなってるんすかね?(構造への純粋な興味)
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*53:これが一番好きなのは間違いないのだが、今回のアドカは選曲にかこつけて漫トロとかその他の話題に繋げられるという観点で選んでおり、単純に気持ちよすぎてワロタみたいなやつは入ってないんすよね。なので、今年聴いた数少ない新譜の中から印象に残ったものをとりあえず羅列だけしておきます(そこ、意味なくね?とか言わないの)。旧譜は名盤ばっかに触れてるのもあって多すぎになっちゃうからね。アーティスト名のみ、名前順、今年複数枚リリースしてた場合は何枚目かを(n)で指定します。 明日の叙景/梅井美咲/君島大空/想像力の血/蓮沼執太/星野源/山口美央子/ワールドスタンダード/BABYMETAL/cali≠gari/Coroner/Deftones/Disiniblud/downy/Dream Theater/Duval Timothy/Erika de Casier/Evilgloom/Fabiano do Nascimento/Guiba/Home Counties/Honningbarna/keiyaA/Mckinley Dixon/Mizore/Mom/motoki tanaka/Nazar/Pot-pourri/Pulgas/Sault/Surgeon(1)/Thornhill/Todos Mis Amigos Están Tristes/YHWH Nailgun……なんか素人くせーっつーか、こいつTwitterしか見てなくねーか⁉️ ちなみにこの中から1枚挙げろと言われたら明日の叙景です。"心"に"響く"んや……open.spotify.com
*60:クラシックジャズはもっと知らないのがミソ。流石にデイヴィスとかコルトレーンとかエリントンとか(知らなすぎてこの名前の出しかたでセオリー感が出せているのかもわからない)をちょーっと齧ってみたことはあるが、ちょーっとじゃ全然ノリかたわかんないんだよなぁ。"The Black Saint and the Sinner Lady"とかは露骨に聴いたことない感じで面白かったけど、これを楽しめるからといってジャズの舌を持っていることにはならないわけで、むしろこれだけ楽しめるのは馬鹿舌の証拠っぽいわけで。
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やっぱちゃんと理論を勉強してたりすると、どういうジャンルに対しても、ある程度普遍的な面白さ(主に技巧的なそれ)を見出して、そこからそのジャンルの舌を作っていく、みたいなのがやれていいのかもね(想像)。ボキも勉強すべきですね……。