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京大漫トロピーのブログです

〈C107東ソ51b〉京大漫トロピーは12月31日水曜日コミックマーケット107に出展します

コミックマーケット106の2日目、12月31日(水)に京大漫トロピーは会誌頒布を行います。場所は東5ホール"ソ"ブロック51bです。



頒布する会誌について

〈新刊〉
2025年のNFにて頒布した「京大漫トロピーvol.34」を新刊として頒布いたします。

タイトル: 京大漫トロピーvol.34
価格:1000円
内容:2025年漫画ランキング/総合座談会/クソ座談会/クロスレビュー

〈旧刊〉

タイトル: 京大漫トロピーvol.32
価格:500円
内容:2024年漫画ランキング/総合座談会/クソ座談会/クロスレビュー

ご来場お待ちしております。

【EX: 12/26】「甦る」!! イナズマ伝説!!

 アドベントカレンダーも12/25で綺麗に終わった……と思っていたのか? どうも! 精神的に向上心のないものは馬鹿だ。かりふらです。本来であれば12/25で完結の予定だったのですが、「どうしてももう一回お前のアドカが見たいんだよ!」という先輩たちの熱い想いを受け取り、不死鳥の如く復活した次第です。
 「さて、何を題材に書こうかしら?」と考えていたのですが、せっかくだから自分の漫画人生について振り返ろうと思いまして。そんで初めて自分の意志で買った漫画を思い出したわけです。そう! それこそがやぶのてんや先生のイナズマイレブンだったのだ!!!!

オレたちも強くなってもう一度この漫画批評サークルを…『京大漫トロピー』として復活させるんだ!!


※ここからがっつりネタバレなので悪しからず。


・目次

大前提!

 そもそも『イナズマイレブン』ってなんやねんと思う方もいるかもしれないので、超絶ざっくりあらすじを書くとこんな感じである。
 サッカーは進化を遂げ、選手の中には人知を超えた「必殺技」を放つ者が現れるようになり、まさに「超次元サッカー」となった時代。そんな中、かつて全国を揺るがした伝説のサッカーチーム、「イナズマイレブン」を輩出した雷門中サッカー部は今や見る影もない弱小サッカー部となっていた。しかし、キャプテン兼GK(ゴールキーパー)である円堂守の下に再び新たなイナズマ伝説が幕を開けようとしていた……!

イナズマイレブン』と言えば、ゲームとかアニメじゃないの?

 ここである疑問が思い浮かぶ人がいるかもしれない。「あれ? イナイレ*1ってゲームかアニメの方じゃないの?」と。確かに、『イナズマイレブン』はゲームが全ての始まりであるし、アニメも大ヒットしているため、それらをイメージする人も多いだろう。しかし、私は敢えて漫画版『イナズマイレブンを推していきたい!!!! なぜなら思入れたっぷりだからだ!
 まぁ、それだけでは漫画版を勧めるにあたっての説得力が低い、というか皆無なので、ここからはいかに漫画版『イナズマイレブン』が素晴らしいかを私の魂尽きるまで書き連ねたいと思う。

漫画版『イナズマイレブン』の特徴

 そうは言ったものの、アニメ版だけ見て漫画版を読破していない方も少なからずいると思う。ここで一度、アニメ版と漫画版の大まかな違いをざっと解説しておく。

展開の違い

 基本的に『イナズマイレブン』は、
①「フットボールフロンティア」編
②「脅威の侵略者」編
③「世界への挑戦!!」編

の大きく3つに分けられる。*2 しかし、漫画版はなんと②の「脅威の侵略者」編が丸々存在しないのだ! これは、漫画版が『月刊コロコロコミック』で連載されていたことから、進度の問題でゲームやアニメに追いつくには「脅威の侵略者」編をカットせざるを得なかったのではないかと思われる。*3
 この、「脅威の侵略者」編が丸々存在しない影響として、「世界への挑戦!!」編にあたる話では日本代表の候補選手に謎の強豪高校・エイリア学園の生徒が急に登場する。アニメやゲーム版におけるエイリア学園は謎の宇宙人集団(という設定のドーピング集団)*4として「脅威の侵略者」編に登場するのだが、漫画版読者には「なんかヘンな名前の学校やね~」という印象にしかならないのだ……。また、「脅威の侵略者」編の中で仲間になる選手が急に日本代表候補として現れたりするので、アニメやゲームから漫画版を読んだ方はさぞや驚かれることだろう。
 また、漫画版には漫画版にしかないオリジナル展開が盛りだくさんである! いくつかピックアップして例を挙げると、雷門中の名DF(ディフェンダー)である壁山のまさかオウンゴールやラストバトルの最終局面などがある! 詳しく解説したいところだが、俺にはもう時間がないので割愛する! 許してちょ♡


表現の違い

 ここまで展開の大きな違いについて述べてきたが、キャラクターたちの使う「必殺技」においても漫画版では大きな特徴がある。有名どころで言うと、
主人公・円堂守を象徴する必殺技「ゴッドハンド」であろう。
 漫画版では円堂の背後に雷神のような存在が顕現し、その雷神がシュートを止めるような構図になるのだが、アニメ版やゲーム版ではデカいエネルギー体の手を形成して止めるような演出になっている。漫画版の雷神の演出は、アニメ版の視聴者なら既視感を覚えるだろう。なぜならこれはアニメ版でいうところの「フットボールフロンティア」編、最終局面で円堂が見せた必殺技「マジン・ザ・ハンド」にそっくりだからだ! 噂によるとゲーム『イナズマイレブン』の制作会社である「LEVEL5」の日野晃博氏は漫画班の「ゴッドハンド」の表現に感銘を受けて、「マジン・ザ・ハンド」を実装したとか……。真偽のほどは定かではないが、それだけ読者に強く印象付けた名表現であることは間違いないだろう!
 また、雷門中のエース・ストライカーである豪炎寺が使う必殺技である「ファイアトルネード」もドラゴンのエフェクトが追加されていたり、ストライカー3人で放つ「グランドファイア」という技には技の掛け声として「点火(イグニッション)!」*5 というフレーズが追加されていたりするのだ!

 必殺技以外にも表現の違いが表れていると言えるポイントが存在する。それはずばり……感情表現だ!!!! 月刊という都合上、アニメに比べて展開を早めなければならないという考察を先程述べたが、これによって一話一話の密度が高まり、キャラの描写がより濃厚になっているのだ! 例えば、円堂はアニメ以上に熱血かつサッカー馬鹿になっているし、豪炎寺はより熱い男になっている。勿論、アニメやゲームでもこれらのキャラクターは魅力的なのだが、濃密な描写によってすぐに好きになれるようになっているのだ! また、一話一話の密度が高まったことで展開にも勢いがつき、非常に没入しやすくなっている!


おわりに

 ぶっちゃけて言うと、漫画版『イナズマイレブン』の魅力の5%も伝えられていないので、更なる加筆をすべきではあるのだが……どうしても今日! 投稿しなければならない理由があるのだ……。なぜならば! 本日12月26日こそが! 『イナズマイレブン 完全版 上巻』の発売日であるからだ!!!!

これに間に合わせたくて完成を急いでしまったことに関しては謝罪させてほしい。ただ! 今こそが漫画版『イナズマイレブン』を手に取る最大のチャンスであることは間違いない!!!! これを機に少しでも読みたいと思ってくだされば幸いである。

みんな、マンガよもうぜ!!!!

*1:イナズマイレブン』の略として恐らく最もポピュラーな略し方。

*2:表記はアニメ版に準拠。ゲームの方はそれぞれ別のソフトで販売していた。

*3:実際、吹雪士郎の特別エピソードが単行本に掲載されており、これから雷門中のメンバーとの邂逅が示唆されていた。これはアニメ版の「脅威の侵略者」編中のエピソードに繋がると考えられる。

*4:ドーピング抜きでも高度なサッカー技術をもつため、アニメやゲームでも同様に日本代表候補に何人か選ばれている。

*5:どうやらゲーム版でも言ってたらしい……。

【12/25】東に向かってレビューしろ!

こんにちは、くさつです。
メリークリスマス!*1
メリークリスマス!
メリークリスマス!

皆さんいかがお過ごしでしょうか?本来自分はアドカを20日に提出せねばならなかったのですが、水面下でいろんなことをしたりしなかったりしていたために結果的に5日間ほど消息を絶つ状態になってしまいました。本当に申し訳ございません。このアドカでようやく漫トロ民として「復活」できそうです。さて、いよいよ今年も終わりが見えてきましたが、自分は学生生活も終わりが近づいているため(あと約3ヶ月で終わるってマジ???)、心残りのないよう、今しかできなそうなイベントなり旅行なりをいろいろと計画・実行しています。
さぁ、今回のアドカのテーマは「復活」でしたね。このワードで連想したのが「東」という方角。太陽が毎日昇る方位ということと、日が沈む西と対比されるかたちで、復活を意味することもあるそう。

じゃあとりあえず東にひたすら向かうか、と思い立ってやったのがこれ







京都ー静岡サイクリングの旅

片道2日半かかるバカすぎる距離

下宿先のある京都府から知り合いの住む静岡県までを、快活クラブに泊まりながら自転車*2で走破する計画。僕のアドカ提出が遅れてしまった主な原因です。20日の直前までこんなことやってるんだから提出なんて間に合うはずありませんね!何故こんなことを計画したのかといえば、こういう変なことは時間的、体力的に余裕のある学生時代にしかできないから。だってもう3ヶ月しかないんだもん。何故快活クラブなのかというと、①漫画が読める②期間限定の学割で安い*3、という2つの理由からですね。
旅行するついでに漫画も読めてアドカでレビューも書けてしまう、まさに一石二鳥! か、完璧な計画だぁ……

そんな訳で、1日目早朝、旅に必要な最低限の装備を持ち、思いついた時の勢いのままに家を飛び出していきました。

県境を超え、

夜明け前で暗い上に雨が降っていて寒かった

琵琶湖の上を走り、

近江大橋

トンネルをくぐり、

これを超えると三重

夜の9時頃、三重県四日市に無事に到着。したはいいものの……



疲れて全く漫画が読めない
これは全く当然のことで、普段特別なトレーニングをしていないトーシロが合計12時間くらいで100km以上の道のりを走ったら極度の疲労状態になるのである。なぜこんなことも想定できていなかったのか?今思い返すと不思議でならない。この時の身体の状態はかなりひどく、強い眠気と同時に右膝に今まで感じたことのない痛みが襲いかかってきていて本当に怖かったし、身体がこんな調子なので、右膝が壊れるかもしれない恐怖と旅行を続行できるか分からない不安で精神もかなり弱っていた。
しかし、それでも漫画を読まないといけない。タフにならなければいけない……ん、タフ?


高校鉄拳伝タフ

あらすじ

ケンカ大好きお調子者高校生、キー坊こと宮沢熹一は、実戦的な殺人古武術「灘神影流」15代目継承者として生まれ、父のもとで厳しい鍛錬を積んでいる。「強いヤツと戦って勝ちたい」そんな純粋な思いのもと、同年代の格闘家たちや、空手、柔道、ボクシング、プロレス、ムエタイ、相撲、柔術の使い手、果ては裏の武術家たちと死闘を繰り広げていく。

猿渡哲也氏による格闘漫画。この『高校鉄拳伝タフ』以外にも続編として『TOUGHータフー』、『TOUGH 龍を継ぐ男』などがあり、現在は週刊プレイボーイにて『TOUGH 第2章』が連載されている大人気の長編シリーズである。また、これらの作品や猿渡作品に登場するセリフは、「タフ語録」と呼ばれるネットミームになっていることでも有名。
自分は「タフ語録」の存在を知っているのみで本編自体は未読。ちょうどいい機会なので、この旅行中に快活クラブを渡りながら「高校鉄拳伝」だけでも読破しようと決意した。以下は本作のレビュー&旅の経過。勢いで読んだため作品の細かいところに言及できていないところもありますが、ご容赦ください。

本作の魅力
結論からいうと、所々変なところはありつつもかなり読みやすく面白かった。序盤は街のチンピラを成敗するヤンキー漫画の趣が少しあったものの*4、徐々に格闘漫画としての本領を発揮していく。
この漫画の読みやすさは、シンプルなインフレ格闘漫画であることに起因する。まず主人公・キー坊がとにかく喧嘩好きであり、強いヤツと戦いたいという一途な動機があるため、強いヤツと闘って勝利し、そしてもっと強いヤツと勝負していく……という至極単純なストーリーラインになっていくのは当然だろう。

また、青春バトル漫画の鉄板である、闘いながらの相手とのコミュニケーションや、対戦相手の過去のトラウマや心の闇を取り除いての和解の要素もキッチリ押さえているため、血生臭い闘いの後でもわりと爽やかな読後感を残してくれる。

インフレ漫画のというジャンルのシンプルさと、敵との邂逅→戦闘→劣勢からの逆転→和解の一定のストーリーのリズムのおかげで、全編通してサクサク読めるのは疲労困憊な状態の自分にとっては本当に有難かった。まぁ、弊害として強敵でだったはずの相手がさらに強いヤツのかませ犬として倒されるという描写も多々あって*5そこは萎えるのですが……。


2日目。前日のサイクリングの疲労が尾を引いたせいか、出発予定時刻を大幅に過ぎての出発となった。

絶望的すぎる距離


くさつ「案外人少ないっすね!」
係員「今日平日なんで競馬やってないですよ」

豊橋に入る前に日が暮れる

岡崎あたりで日が暮れてしまったために、豊橋までは暗い峠道の中を行動するしかなくなった。夜は寒いし、新月が近いために月明かりもなく暗いので本当に怖い。太陽のありがたみを齢23歳にて知る。

実際は画像の数倍は暗い

暗い・怖い・心細いの3Kを乗り越えて、夜の10時頃になんとか豊橋の快活CLUBに到着した。この日は雨に濡れることもなかったし、体が旅に慣れてきたおかげもあって、前日ほどの疲労はない。


親子・師弟愛
「高校鉄拳伝」が典型的なインフレバトル漫画であることは前述の通りであるが、この漫画特有というか、他のバトル漫画にはあんまり見られない要素として、主人公とその父親の親子/師弟関係がある。キー坊とその父(以下おとん)は親子であると同時に、灘神影流という流派においては弟子と師匠の関係にある。男手一つでキー坊を育てながら、キー坊が強敵にぶつかったときには、灘神影流の師匠として、時に厳格に、時に不器用ながらも、彼に喝を入れたりアドバイスを授けるなど、その役割を全うしていく。

父親が主人公の最終目標として立っている漫画は数あれど、子どもを放任するでもなく、おとんのようにきちんと保護者の立場に立って主人公を支える良い父親は、バトル漫画ではわりと稀有なのではなかろうか?

親バカ

キー坊の方も、おとんの指導方針に反発することはあれど、彼の強さはしっかりと認めているため、根っこの部分ではきちんと信頼しているのが本当に良い。また、キー坊の場合、反発するにしてもただ拗ねるようなことはなく、バトル漫画の主人公らしく強くなるために自発的に行動し、創意工夫をしていくので、圧倒的な実力を持つ父親によるパターナリスティックな関係に陥ることもない。なんとも理想的な親子関係が築けている。この1年間ずっと「父親」というテーマについて考えていた自分*6にとって、この漫画の親子関係は非常に眩しく映った。
注に熱を入れすぎてしまった。気を取り直して静岡へ向かうぞ。

確かな信頼を感じる

3日目 さぁ、往路はいよいよ大詰め!東へ東へぐんぐん進むぞ!

朝日が眩しい

前日にシャワーを浴びていなかったため、静岡県磐田市にある「しおさいの湯」に入浴。ここでラジウム温泉というものに初めて入った。ここのすぐ近くにある「竜洋海洋公園オートキャンプ場」が「ゆるキャン△」の聖地らしく、館内には関連展示やら商品やらが陳列されていた。

萌えパネル


友人の住む焼津市に到着。本当は京都市とほぼ同緯度に位置する静岡市まで行きたかったが、夜遅くに自転車で行動することを心配され、友人宅に泊まることになった。厚意に感謝ッッッ!

4日目。午前中は焼津市の海辺を散策した。ぶらりと立ち寄った「ディスカバリーパーク焼津天文科学館」にて漫画の痕跡を発見。

ディスカバリーパーク屋上にて

100円で1分間くらい使える望遠鏡があり、それで富士山を見ようとしたが、その姿を捉えることができずに時間切れとなった

さて、旅も折り返し地点。友人に感謝と別れを告げ、正午過ぎに出発。京都に向かう。
来た道へと戻っていくだけでなので旅の写真などはない!
出発したのが午後ということもあって、静岡を出ないうちにもう日が暮れてしまった。浜松あたりで最寄りの快活に泊まろうかとも思ったが、「高校鉄拳伝」が置いていなかったため、仕方なく行きと同じの豊橋の快活に泊まることにした。着いたころには深夜3時。この状態で漫画なんて読めないよ~と弱音を吐いていたが、そうもいってられない展開がやってきた。

親子/師弟愛(TDK編以降)
物語後半、インフレもいよいよ極まってくる段階になってきたところで「地上最強のホモ・サピエンス」を決めるトーナメント「TDK」が開催されることとなる。(格闘漫画こういうのやりがちよね。)裏世界の古武術の使い手であるキー坊とおとんの元にその大会の招待状が贈られるも、おとんは自身の信念に則り参加を辞退。参加を熱望するキー坊に対してはその命を案じて参加を阻止。しかしながら、キー坊は強いヤツと闘うために生まれたバトル漫画の主人公である。父親の制止を振り切り、このトーナメントへと挑んでいくこととなる。結局、子ども思いのおとんは、キー坊のサポート役としてTDKに潜入することとなる。
TDK編以降の大きな特徴として、キー坊中心の少年漫画的な作劇から、灘神影流を受け継ぐ、宮沢親子の宿命や試練が話の中心に据えられていくことが挙げられる。振り返ることなく少年が成長していく物語の中に、父親と息子の関係性が今までよりもずっと強調されるかたちで入っていく。注6みたいなことをずっと考えていた自分である、この大きな転換に姿勢を正すほかなかった。親子の関係性について言えば、TDK参加者のほとんども断ち切りがたい親子の因縁や因果を抱えてこの大会に参加している。息子のため、生きるために闘うゴードン・クランシー、父・アイアン木場の影に苦しむ木場真一、殺戮マシーンとして育てられながらも、名前の分からない父親の愛情に飢えるエドワード・C・ガルシアなどなど……、TDK編は「地上最強のホモ・サピエンス」だけなく、「地上最強の親子関係」を決める大会でもある。物語前半で親と師匠の両面においてキー坊を導いてきたおとんであるが、この大会以降、おとんは、息子に生きてほしいと願う親の面と、闘いの中の死を是とする武闘家の師匠の面との間で揺れ動いていくこととなる。

父親として、師匠として子どもに何ができるのか、そして何を残せるのか。この普遍的な問いに対して、「高校鉄拳伝タフ」が出した結論を是非この文章を読んだあなたの目で見届けてほしい。

『高校鉄拳伝タフ』も武道家親子の物語ですが、私自身、一人娘を持つ父親でありまして、どうしても、主人公・熹一よりも静虎に対する思い入れが強くなり、静虎を描きながら、自分を投影し、自問している時があります。
"俺は娘にとっていい父親なんだろうか?”と。
”親として何をしてあげられるんだろうか?”と。
無理していい父親を演じてるつもりはないのだけれど、娘が成長するまではどっぷり依存して欲しいと思います。父親って子供のためなら頑張れちゃうんですよね。自分の限界を超えて力を発揮したりするんですから。

『高校鉄拳伝タフ』42巻 著者あとがきより抜粋

おわりに
サイクリングついでに漫画を読むという企画であったが、一つの漫画を旅を通して読むよりかは、その日毎に別々の漫画を、アドカのテーマに合わせてレビューしていった方が良かったかもしれない。あと、勢いで物事を進めてしまったので、細かいところの詰めがだいぶ甘くなってしまったのも悔やまれる。でも、今年のこのタイミングで「高校鉄拳伝」を読めたのは非常に良かったと思うし、旅を続行するモチベーションにはなっていた気はする。あと、余力があれば国道沿いのラブホテルとかにも泊まってみたかったな。そこにもし面白そうな漫画が置いてあったらそれをレビューするとかもできるかもしれないし。まぁ、なにがともあれまずは往復600kmを走破した自分を褒めたい。このアドカの出来がどうあれ、その事実は決して揺らぐことはないから―――。

メリークリスマス!みなさん良い年末をお過ごし下さい!

*1:ハッピーホリデーという言い方が最近は主流らしいっすよ先輩

*2:ママチャリとスポーツバイクの中間みたいなヤツ

*3:12/8~19まで、平日は席料が半額、土日祝は20%引きのキャンペーンをやっていた

*4:とはいえ、キー坊と体格差があったり、刃物を持った相手との対決なので、格闘技のカタルシスは得られる。

*5:序盤こそそういう描写が目立つが、後半になるとかませになってしまったキャラが復活して再戦を果たす熱い展開もある

*6:今年の自分にとって、父親というのは非常に重要なテーマだった。今までの自分にとって、父親というのは一種の生活の規範であり、子どもの自分にまがりなりにもいろんな経験や教訓を授けてくれた人生の先輩でもある。そんな父親のもとから離れるということで、今までの人生を振り返って、自分が息子として約20年間父親とどういう関係性を築けてきたんだろうか、とか自分は果たして父親にとってどういう子どもだったのか、とか、扶養から外れることでこれからの親子の関係ってどうなっていくんだろうか、とか果ては父親が亡くなったとき自分はどう振る舞えばいいんだろうか、といったような疑問が頭の中で際限なく広がっていった。また、今年は父親と子どもにまつわる作品を結構観てきた(単に自分がそれを意識して観ていただけかもしれないけど)ので、その影響もあると思う。『父を怒らせたい』、「小林さんちのメイドラゴン さみしがりやの竜」、「ADOLESCENCE」、「BLACK SHEEP TOWN」「ワン・バトル・アフター・アナザー」などなど。中でもNETFLIXの「ADOLESCENCE」は本ッッッ当にヤバかった。殺人の容疑がかかった息子とその父親がメインで出てくるのだが、息子が凶行に及んでしまった遠因かもしれない出来事について、父親が吐露する場面がある。息子を「男らしく」させようとサッカークラブに通わせたはいいものの、試合で大きなミスをしてしまった息子に対して、観戦をしていた父親の自分は目を背けてしまった……。子どもを成長させようと一方的に背中を押して、子どもが助けを求めた場面で自分は手を差し伸べられなかった……。この出来事で親子の信頼関係に小さな亀裂が入ってしまったことが見てるこっちにも伝わってくるし、その結果とんでもない過ちをさせてしまったのではないかと、父親が嗚咽するラストシーンで自分もボロボロ泣いてしまった。自分がもし父親になるようなことがあったら、こういう悲劇を避けられるのかなぁ、とかちゃんと信頼を築くことができるんかなぁと、配偶者すらいないのに考えていた。傍から見たら滑稽かもしれないけど、俺にとっては本当に切実な課題なんですよ!!!!!

【12/24】アニメを観る目が変わった話(というか、ほぼ『響け!ユーフォニアム』の話)

 シチョウです。D1です。D進して以降は、漫トロピーに関する活動は何もしていないに等しい(というかほぼ卒業したようなものな)のですが、辛うじて関わられる場をいただいたので、この1年を振り返る形での近況報告でもしようと思います。一応これで、「復活」ということになるんですかね。(後で確認したらレニと全く同じ回収の仕方をしていた。まあ、これ以外ないよな……。)
 今年は、僕のマインドにとって重要な転機となる1年でした。ようやく、自分の人生に対する当事者意識が芽生えましたね。これまで僕は、あまり深く自分の将来について考えてこなかったのですが、学会をはじめ、いくつかの出来事を経て、自分がアカデミアで生きていく決意が固まりました。そういった決意を一旦抱くと、自分がアカデミアという場で生きていくにあたって変わらなければいけない部分にもたくさん目が行くようになり、至らなさを痛感する日々です。
 そして、自分の人生に対しての当事者意識を持つ前と持った後では、漫画やアニメをはじめとしたコンテンツの見方も変わることを最近は強く実感しています。そういう意味で、最近観返して最も感想が変わった作品が、『響け!ユーフォニアム』です。

 「ユーフォニアム」は、僕が大学に入る前の、深夜アニメをリアタイしていた時期に1・2期が放送されていまして、その時は「スタンダードにいいアニメ」程度の感想を得ていた記憶があります。久美子は当時から好きなキャラでしたね。観返したのは、研究室のアニメ鑑賞会(理系院生はオタクが多いので、意外とこういう会を企画すれば人は来てくれる)で観るアニメとして選ばれたからです(昨年夏から始めました。今のところ、まどマギエヴァ→ユーフォ→リゼロの順番で観てます。次はよりもいの予定)。そこで観た3期がまず素晴らしくて、その後一人で1・2期も観返して、「俺のためのアニメだ」という確信を得た、という流れです。
 まず『響け!ユーフォニアム』というアニメを一行で説明すると、「久美子が吹奏楽部での活動を通じて人格形成をし、成長するアニメ」です。中でも特に1期は久美子の人格形成の物語ですね。「中学最後のコンクールで、ダメ金で泣く麗奈に対し、『本気で全国行けると思ってるの?』というのがポロっと口からでてしまう」ところから1期が始まるのが本当にいい。久美子には「全国に行くために吹奏楽を頑張る」ことに対する当事者意識がなかったし、他者への配慮、というか他者の視点を持とうという意識もなかったんだなあ。

 その後、高校に進学した久美子は吹奏楽部になんとなく入部するわけです。ところが、その北宇治の吹奏楽部が、久美子が1年の代から「本気で全国金を目指す」部活に変貌してしまうわけですね。そこで、「全国金を目指す or not」の多数決で、結果的に手を挙げないのもいい。徹底的に、当事者意識がなくて、俯瞰で見る癖がついてしまっているんだなあ。

 1期ではその後、「完全実力主義」のスローガンの下、北宇治の吹奏楽部におけるルールが整理されていきます。その最たる例が第11話の、トランペットのソロパートの再オーディションですね。

 これまでの北宇治では3年生がソロパートを吹くという慣習だった。なので、明らかに上手かったはずの香織先輩はこれまで冷遇されていた。だからせめて、来年がある麗奈がいかに上手かろうと、今年が最終年度の香織先輩にソロパートを吹かせてあげたい。そうリボン先輩をはじめとした上級生が思うのは当然で、たとえ明らかに実力で劣っていても、投票ならば伯仲してしまう(ちなみに先日のM-1でも似たような光景がありましたね。敗者復活の最後の審査員投票で、圧巻だったミキではなく、ラストイヤーのカナメストーンが僅差で選ばれたのは、情に流された審査員が過半数いたんだなあと思ってしまった。会場ではまた違ったのかもしれませんが)。しかし、滝先生に「あなたがソロを吹きますか?」と問われた香織先輩は、麗奈をソロパートに指名する。

 ここで久美子が率先して麗奈に拍手したのが素晴らしい。単純に麗奈とのほうが親しいからというのもあるでしょうが、それ以上に、北宇治の吹奏楽部の価値観を強く内面化したことの象徴でもあります。

 その次の12話は、上手く吹けないパートを外された久美子が「上手くなりたい」と走って叫ぶことで、当事者意識を持つのがどういうことかを理解する回。「何かを頑張る」のはどういうことかすら恐らく理解できなかった第1話冒頭を踏まえると、12話の久美子の姿は間違いなく「成長」と呼べるのではないのでしょうか。
 そして、13話にて北宇治の吹奏楽部は京都府予選を無事突破し、アニメ1期は完結します。この手の、「ある環境に身を置くことで、キャラクターが変化していく様子を描く」作品って結構ある、というかどんなフィクションも大なり小なりそういう要素を内包すると思うんですが、ユーフォについては久美子が自発的にそういう環境を選んだわけではないのが重要だと考えています。このアニメを批判する際に、滝先生の、教師という立場を利用して生徒を自分の望む方向に導く様がしばしば槍玉に挙げられますが、じゃあ滝先生自身が生徒に対し、「全国金を獲るために他を捨てて吹奏楽に打ち込む」ことを意識的に誘導していたか、というと、必ずしもそうではないんですよね。そもそもどんな環境にも、求められる理想像というのは存在するはずであり、その環境に身を置くことで、理想像に近づいていくのは自然な流れだと言えます。そして、久美子には(難しいとは思うが)一応離脱する自由は与えられていて、その上で、どうするかは結局は久美子次第なわけです。この記事の初めにも述べましたが、このアニメって基本的に久美子の物語なんですよね。基本的に久美子の視点でのみ物語が進み、久美子のモノローグがしばしば挟まれるのに象徴されるように、久美子以外、例えば(特に?)滝先生なんかは舞台装置に過ぎないわけです。『響け!ユーフォニアム』は、「北宇治の吹奏楽部」という場を与えられた久美子がどう成長「できる」かの記録、と言えるでしょう。少なくとも、1期の初めのことを考えると、久美子は明らかに人間的に「成長」しているわけで、これは、人生で初めて「コミュニティ(僕の場合はアカデミア)にコミットしたい」という意識を得た僕にとっての希望なんですよね。久美子にとって、この時期の北宇治の吹奏楽部にいた人生は、吹奏楽部にいなかった人生よりはるかに充実したものであったはず。この環境に身を置くことで、ここまで成長できるポテンシャルがあったのは久美子だけで、例えば川島緑輝の成長が見られたかというと別にそんなことはないと思いますが、少なくとも久美子はここまで自然と変われた、北宇治の吹奏楽部がそういう場だったというのは非常に重要だと思います。「置かれた場所で咲く」とかそういう話ではなくて、どんな肥料や水を与えられようが、大輪を咲かせられるかは結局は自分次第、というわけです。そして、その花は、肥料や水を与えた側の想定を大きく超えうる、というのが2期以降だと考えています。

 あと、麗奈についても触れておきます。久美子が「上手くなりたい」のだとすれば、麗奈は「特別になりたい」。自分の視界にある誰よりも上手くなった先に「特別」が存在しているはず。だから、「特別」である資格を得るためにトランペットを頑張っている。麗奈って幼稚な奴、というより意図して幼稚な奴として描かれている節があると思うんですよね。「滝先生LOVE」というのはその象徴で、恋心と憧れの区別をきちんとつけられていないから出る感情だと言えるでしょう。自分に対する疑いを持たないがゆえに、「この行動/感覚が何を意味するか」を追求しない奴、というのは、8話の、県祭りの日に久美子を巻き込んで大吉山に登ったのに特に象徴されており、これは麗奈自身も「意味不明」というのが分かった上での行動です。そんな麗奈が言う「特別になりたい」は、「自分は他人と違って特別なんだ」という所謂高二病の発露に他ならないとは思いますが、じゃあ、無駄な感覚かと言われると、別にそんなことはないと思います。麗奈は最終的にトランペットで生きていくわけですが、自分の才覚で飯を食っていくためには、上手い以上に「特別である」ということが重要だというのは言うまでもないことでしょう。で、特別であるためには他人とは違うことをする必要があるのは当然で、「特別になりたい」という感情を有していることは、自分の名前で勝負する世界で生きていくにあたって大切な要素だと言えます。ただ、高校生までの段階で「特別」になるのは極めて困難であり、「誰よりも何かが上手い」くらい、あるいは周囲の流れとは逆の行動をとることくらいでしか「特別」であると周囲に認めさせる方法がないのもまた事実。適切に出力する場所がないし、周囲もその感覚を知らないので、出力の仕方が歪になってしまうのは仕方ない部分はあって、だからといって出力を駆動した原的な感覚(麗奈でいう「特別になりたい」)まで捨てるべきではなくて、大事にしておく価値は充分にある、みたいなことを感じますね。というか、僕も、特別にはなりたいな、で、アカデミアの偉い人の多くはこういう感覚を持っているものだなと思った、という話です。

 さて、1期が久美子が「北宇治的価値観」を内面化するまでの、人格形成入門編に相当するのだとすれば、2期や「誓いのフィナーレ」はいわば実践編に相当します。2期は久美子の1年生時代の関西大会進出以降、「誓いのフィナーレ」は2年生時代の部長に就任するまでを描いており、「こういう事件が久美子の目の前に表れました。じゃあ、今の価値観を得た久美子はどう対応しますか?」というのがひたすら繰り返されるわけです。とはいえ、そういった事件を解決できないことが久美子の責任になるわけではまだないのと、久美子自身が事件に巻き込まれることはないので、気楽には見れるものの、僕個人にとってそれほど重要な部分にはなりえないですね。ただ、「久美子の物語」として重要な部分はいくつかありまして、まず2期前半は、希美先輩とみぞれ先輩の話。この、「みぞれ先輩が希美先輩に依存しているせいで云々…」みたいなのは2年生組の中で勝手に解決されてしまい、久美子の出番はない。対して後半は、あすか先輩の話。「久美子が周囲を俯瞰で見る奴」というのは既に散々描写されていますが、その久美子の特性がここでようやく発揮されます。まず、今の北宇治(的価値観)にとってのベストは、あすか先輩がユーフォを全国大会で吹くこと。しかし、あすか先輩は受験のためにフェードアウトしてしまい、そんなあすか先輩を部に戻せる可能性があるとすれば、あすか先輩のことを「特別で正しい」として妄信してきた諸先輩方ではなく、あすか先輩と同じく俯瞰で見る特性を持てていた久美子しかいない。ただ、理ではあすか先輩に敵わない。そこで、「あすか先輩と本番に出たい!」「後悔するって分かってる選択肢を、自分から選ばないでください」と、自分の感情を認識したうえで、相手の感情に直接訴えることができるようになったのは久美子だからこそ成せた成長ですね。同時に、この一連の流れは、単純に、何度見ても名シーンだと思えます。ただ、最終的にあすか先輩が部に戻れたのは模試で30位以内に入ったからで、久美子が第一の功を果たしたものの、「100%久美子のおかげ」とまでは言い切れないことには言及しておきます。いわば、この段階では補助輪付きの実践であって、それでもこの一歩には大きな価値があると言ってよいでしょう。

 続く「誓いのフィナーレ」では(「リズ青」は久美子の物語ではないのでここでは言及しません)、久美子は新一年生の指導係を拝命します。そこで、北宇治的理想のため、久美子は様々に課題を抱える新一年生達をダイジェスト的に導いていくわけです。全体としては、「まあ今の久美子ならこのくらいの事件はお手の物でしょう」という感じでサクサク進んでいくわけですが、その中だと奏ちゃんの一件については特筆すべきなので、一応言及します。奏ちゃんの起こした事件は「オーディションでわざと下手に吹いた」こと。その背景にあるのは、「上級生を差し置いて演奏したコンクールで、必死に努力したのに銀賞だった」という過去。そこから、「みんなが納得できる状況が最も望ましい」と考えるようになります。ただ、「みんなが納得できる状況」が何かというのはあくまで奏ちゃん個人の過去に起因する、奏ちゃん個人の価値観に由来するものでしかないので、久美子は奏ちゃんに、その背景の一般性に触れ、その上でみんな北宇治的価値観に身をやつしていることを説きます。この大枠に関しては僕は納得しているのですが、その中で久美子が見せた「頑張った先に何かがあるって信じてる」という価値観については、それだけでは足りない気がしてならないですね。ここについては2期前半のみぞれ先輩の「オーディションなんて、大っ嫌い」→「たった今、好きになった」も同じで、単純に勝っているからそういう価値観に後天的になっただけでは?と思えてならない。これはコンクールだけじゃなくて、申請書の審査など何でも同じだと思うのですが、審査員が点数をつける系は、当人からすれば理不尽な結果になることがどうしても起きてしまうわけです。そこで、「上手くいかなかった場合に最も納得できる状況を作るべき」という奏ちゃん的価値観が形成されるのは尤もで、それに対して「頑張った先に何かがあるって信じてる」と回答するのは、単に自分に言い聞かせているに過ぎないだけでは?と思ってします。僕も久美子的な思想の持ち主ですし、より明確によい答えを持っているわけではないのですが、もし自分が似たような状況に陥ったとして、今回の久美子的な回答で納得させられる自信はあまりないですね。
 そんなこんなを経て、久美子は今度は部長に就任します。そんな久美子に待ち受ける最初の試練が「アンサンブルコンテスト」になるわけです。この映画のメインは、久美子が部長視点で人間関係パズルを眺める様ですね。あまり他の作品では見たことがない構図で、単純にエンタメとして面白かったです。
 そして、3期ですね。真っ先に話さなければいけないのはなんといっても久美子にとってのラスボスである、真由の存在でしょう。

 あまりにも、強すぎる。まず、同学年なので、北宇治的価値観に染めようにも、「上級生が下級生に説く」という構図に持ち込めない。そしてそもそも演奏が上手いので、葉月ちゃんに対するような接し方もできない。その上で、強豪校からの転校生という立場で、これまで久美子が積み上げてきた北宇治的価値観を否定しに来るのは流石にしんどいよ。確かに、久美子の北宇治的価値観は、北宇治高校の吹奏楽部という狭い世界での論理に過ぎず、外から見れば、新興部活/企業特有の歪んだ姿に見えるのは当然ですし、久美子自身も少なからずそこには自覚的なわけです。それでも、北宇治の吹奏楽部の2年間は久美子の人生そのものなわけで、目を背けて通ってきたのは何も悪いことではない。そしてなんといっても、ユーフォニアム奏者なのがエグい。これまで北宇治的価値観の刃は久美子には一度も向かなかったわけですが、ついに向かってしまった。「真由」という、生半可には絶対に倒せない「敵」(「敵」と呼んでいいでしょう。「みんな」に真由が入るのか、という話も、3期の軸の一つですし)にどう対峙するか、久美子が真に試されるのが3期の見どころになるわけです。

 加えて、部長になったことで責任が生まれたこと、三役制になったことで、部内の人間関係調整という、最も精神を削られる仕事に専念させられるようになったのが3期の重要な点ですね。そして、起きる事件の一つ一つがこれまでの北宇治的価値観に対する疑義を呈するものになるわけです。まず第2~4話はサンフェス及びそれに向けての練習回。この中で最も重要なのは第3話。麗奈のスパルタに耐えられなくなった1年生部員達が離脱しかけます。ここでのサリーの指摘が、本当に正しい。必要なのはコンクールメンバー。初心者まで頑張る必要は確かにない。麗奈は実際に初心者に求めすぎで、頑張った先が楽しいかなんてわかるわけない。これに対し、清濁併せのむ必要のある立場の久美子が「全部、私のところに持ってきて」と返すのが、この先の展開の不吉さを暗示しているようで、最高ですね。この、本質的に重大な事件を久美子部長の人徳だけで乗り切ったのが、悪い成功体験になりそうでたまらない。ということを観ながら考えてました。

 続く第5~7話は、真由が異物であることが久美子にとって露わになっていく話。フィルム趣味なのがズルいですよね。自分が傍観者であることを好む、というのは、自分も一体となって上を目指す北宇治的価値観と本質的に相容れないし、他のキャラが能動的に動くのに任せている点で、キャラ造形としてズルい。そりゃ久美子も県祭りの誘いは断っちゃうし、あすか先輩のこととかも知られたくないよ。その果てに、久美子は真由について「中学時代の私」と解釈してしまうわけですが、これは部長としての立場がさせた解釈に思えてならないですねえ。いうほど似てないと思うよ。真由を理解しようして、自分の知ってる人間パターンに無理やり当てはめた、というほうが適切に思える。ただ、部長という立場上、そういう思考回路を経なければいけないのが辛いね。あと、京都府予選のオーディションで、下級生の滝先生への信頼がさほどでもないのが顕在化し始めるのも重要な点ですね。第6話は同時に、久美子が滝先生を完全には信頼できないことを悟る回でもあります。

 そして、続く第8~10話。まず第8話で、久美子と真由の間で決定的な亀裂があることを両者が自覚。この話の最後で、久美子がソロを外れ、真由が選ばれることとなります。流石に久美子もこれには動揺を隠しきれず、部員の滝先生への疑念も、もはや看過できないレベルにまで達します。幹部間でも亀裂が走り(というかこれは麗奈が一方的にヤバいだけか?)、本当にどうしようもなくなってきた段階で何をすべきかと言われれば、まあ、全て向き合って、受け止めて、その上で、想いの丈を全て言葉にして、演説するしかないんだよなあ。まず部長として、混乱を招いたことに対する部員への謝罪から入り、その上で、それでもみんなで全国金を獲りたいと、震えながらも力強く言われたら、心酔してしまいますよ。久美子は本当に偉い。花田脚本って、溜めに溜めに溜めて「この状況なら」、このタイミングで、これをするしかない!」ということをキャラクターにさせるのをよくやりますけど、そういうの、素直に感動しちゃうんだよなあ。久美子が演説する以外で部がまとまることなんてありえないからね。今の僕には絶対にできないし、「ここまで凄くなれるか!」というので、神回と言っても過言ではないでしょう。

 でも、12話は10話をさらに超える神回になるわけですね。まずお膳立てから完璧。2年前のトランペットのソロの件を踏まえて、久美子か真由、どちらが吹いているか分からないよう、幕で隠して、挙手制の投票でソロを決めるところから素晴らしい。このルールは久美子発案で、完全実力主義を謳う以上、徹底的に公正であるべきなんですが、ここまでやるか!と思わされます。そして、誰が挙手しているかでどちらが久美子かがうっすら分かるのもいい。その上で、ちょうど同数なり、最後の一票が麗奈に委ねられます。正直言って、ここで麗奈が久美子を選んで、全国金獲れなかった、けど麗奈は久美子との最後の思い出を優先した、とかでも十分美しいと思うんですが、麗奈が選んだのは1番(真由)。一瞬、部員たちが動揺を隠せなくなった直後に、久美子が「これが、今の北宇治のベストメンバーです!ここにいる全員で決めた、言い逃れのできない最強メンバーです!」は泣くって。ここまで己の信念にはそうそう殉じれないよ。


 その後、麗奈と二人で大吉山に登ってからもいい。麗奈はもちろんどちらが久美子は分かっていて、その上で真由を選んでしまったことに泣き出してしまう。それを受けて、久美子は初めは冷静に、自分の負けを、音楽という意味では麗奈のいう「特別」ではないことを悟っていたと言いながら、途中で感極まって、ここに至ってようやく「一緒に吹きたかった」という本音を吐露し、悔しくなって泣き出してしまう。
 まず、脚本が完璧ですね。何一つ無駄がない。本当にどうなるか読めなかったし、最後の最後に信念を曲げてもそれはそれで美しいと言っていいと思うんですが、この3年間がそれを許さなかった。ユーフォニアムというアニメの結末は実際にこれ以外にありえないんですが、だとしてもここまでいくか、という感じですね。そして、この一話の一連の流れが本当に美しい。ひたすらに正しくて、だからこそ、最後の泣きが映えるんだなあ。麗奈がここまで久美子とのソロについて明言するのって初めてでは?それを受けて、ようやく久美子が本音をこぼせたのも素晴らしい。何度も言いますが、本当に美しい脚本です。
 そしてなんといっても、久美子が凄すぎる。前回のオーディションでは混乱を招いたことを自分の責任として受け止めたからこそ、一瞬であんな演説ができるわけで。しかも今回はこれまでと違って、感情に訴えるのではなく、北宇治的価値観をそのまま口に出したのも素晴らしい。今回はこっちなんだよな。3年前は何者でもなかった久美子が、ここまで遠くへ達したのは、本当に、感動に値します。その上で、本心を忘れていないのがいい。そりゃ、どれだけ冷静を取り繕おうと、悔しいよ。本当に、キャラも脚本も完璧で、「アニメ史に残る神回」として名前を挙げていいレベルだと思います。
 研究室でユーフォを観始めたのは今年の1月からです。3期を観終えたのは6月なんですが、3期が素晴らしすぎて、その後1・2期を観返すこととなりました。あとはお気に入りのシーンをたまに観返すとかしてます。久美子は3期の最後まで行くポテンシャル自体は最初からあったんですよ。でも、北宇治の吹奏楽部という場がなければ、これほどの大人物にまでは到達しえなかった。やっぱり、ユーフォニアムって僕にとっての希望なんですよね。「このコミュニティで生きていきたい。相応しくありたい。」ということを出発点に、ここまで達することができるというのを教えてくれた久美子には感謝しかない。人生の指針の一つとなりうるアニメだったことを、最近観返して感じた、という話です。

 近況報告+今年見たコンテンツの振り返り、のつもりで書き始めたんですが、ユーフォを観ながら書いていると、ユーフォの話で力尽きてしまいました。どのコンテンツを持ち出して、何の話をするつもりだったかをメモしていたので、それだけ書いて終わります。

俺ガイル:ユーフォと同じく、「立てた命題に対して、ここまで遠くに達することができるんだ」という意味で感動。
とある:世界を股にかけているはずなのに、妙に狭い話なのがいい。アカデミアみたい。
けいおん!:ユーフォの対。「あったかもしれない、オルタナティブな青春」として。
葬送のフリーレン:やまぴが言ってて、気になって。一級魔法試験編が大好き。「魔法は解析可能」という信念が素晴らしい。
ルックバック:後半の演出の意味がわかってきた
国宝/ラブロマ/きみの色:めっちゃよかったけど、この辺は昔見てもすきだったろうなあ
チ。:最終巻が好きになってきた。「この時代に生まれた時点で同じ物語の登場人物」という考え方は、凄く素敵だと思います。
R-1, M-1:新時代に突入した感じ。ここまでニュアンスによった笑いで王者になれるか。
岡田磨里:今年は本当に楽しませてもらった。とらドラ!, true tears, あの花, 花咲くいろは, さよ朝, アリスとテレス。『しすたれじすた』は、「人によって見えるものは違う」という岡田磨里に通底していて、でもそれを派手に見せるに留まっていた部分を、どうパッケージングして社会に出力するか、という点が新しくて、ワクワクして読んでます。今年ランキング出してたら1位にしてた。

以上!

【12/23】インタビュー記事界隈を、救いたい

私がインタビュー記事を書けるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?)

京大漫トロピー9年目、博士3回生のレニと申します。今年度博士論文を書いたり博士論文を書いたりしていたので、サークルに一度も顔を出しませんでした。なので、このアドベントカレンダーが、事実上今年度初めてのサークル活動です。今年のカレンダーのテーマは「復活」ということで、僕もこのサークルに「復活」できたところで、早速本題に入りたいと思います。


最近、色々な学生サークルが、作家の先生にインタビューをし、それをブログや会誌などに記事として載せているのを見るようになりました。もちろんこうしたインタビュー記事は昔から様々な雑誌やメディアでなされてきた事ではありますが、特に近年の大学系創作・批評・漫画etcサークルの隆盛とWebでの発信の多様化に伴い、学生によって書かれた作家へのインタビュー記事が増えているように感じます。かくいう私もその一人で、修士論文の時には90年代の同人作家の先生方にインタビュー調査をしたり、その流れで別のサークルの会誌にインタビュー記事を書いたりしていました。


しかし!その中には、「この記事、もう少しなんとかならんかったんか......?」というものも、しばしば見受けられます。果たして、本当にこれでいいと思っているのか、それともこれではダメだと思っているけど締切に追われてしまったのか、はたまたインタビュー記事の作り方をそもそも知らないのか......。


そこで!今回は、僕が今までインタビュー記事を作るにあたり、どういうことを考えたり、どういうことを行なったりしてきたかを、まとめてみようと思います。もちろん僕のインタビュー記事の出来がめちゃめちゃ良いと言うつもりも、僕のやり方だけが正解であると言うともりもありませんし、人には人それぞれのやり方があると思います。それでも、少なくともインタビュー記事を作っている/作ろうとしている方にとっては、少しでも何らかの参考になるのではないかと思います。あるいは、こんなやり方があるぞ!とか、このやり方はおかしい!ということがあれば、ぜひ指摘してください。高め合ってまいりましょう。

0、まず、悪い例


インタビュー記事の作り方を話す前に、まず、悪いインタビュー記事の例を出したいと思います。このインタビュー記事の衝撃たるや。インタビュー記事を書くとはどういうことかを教えられ、こういう記事は書かないようにしようと心に誓い、今でも机の上に額縁に入れて飾ってある次第です。


それは、『電撃G'sマガジン』2001年5月号の、『シスター・プリンセス』や『ラブライブ!』の原作者である公野櫻子先生のインタビューです。


この記事のヤバさを理解してもらうには、まず実際の文面を見てもらったほうがよいでしょう。最初のやりとりがこちら。

編集部(以下編):さっそくですが、いまだから話せる、『シスター・プリンセス』企画当初のお話をお聞かせください。
公野先生(以下公):もともとは、編集部の企画なんですよ。なんで、妹っていうテーマも「なに企画、なに企画」ってみんなでいろいろ考えていた時に、“妹企画”はどうだろうって……。「じゃあ妹はどう?」って振られた時に、「あ、それじゃあ」ってやり始めたのが現実かなあ。


編:“妹もの”が最初に、「いいな」と思った理由はなんだったのでしょうか?
公:それが……それは……なんだろ……。“家族っぽいもの”……が「やっぱりいいよね」っていうのがもとからあって……。ただのギャルっていうのじゃなくて、家族だったら1つつながりがあるじゃないですか。もう恋人じゃなくても、つながっていなくちゃいけない。何があっても絶対つながっているという、その辺の感じと……あとは、“自分より目下”っていうところが「まあいいよね」ってあって、それってちっちゃい動物を見ててかわいいっていう感じ、……そういうところ……だと思いました。


頭おかしなるで。スリムクラブの漫才か?


異常な数の6点リーダー、ダブルクオテーションと鉤括弧の併用、執拗なまでの言い換え......。一番初めに読んだ時、この最初のやりとりを読んだ時点で、「公野先生ヤバい人じゃん」という印象を持ちました。


一番ヤバいなと思ったのはこのくだり。

編:「シスター・プリンセス」を書くにあたって、公野先生ご自身の視点というか立場はどのように取っていらっしゃるのですか?妹としてなのか、妹の友達としてなのか、それともまったく違うのか……。
公:あんまりそういうのは考えて書いてなくて、計算とかはあんまりしてないんですよ。ただ、もともとから、ゲームってわりとリアルじゃないキャラクターが多い気がして……(笑)。あんまりこうリアリティのない、女の子から見て気持ちの悪い女の子のキャラクターって多いんですよ、やっぱり。だからそういうのがいやだなっていうのは、ずっとずっとあって……。だからって、ゲームなのにすごく手ごわーい女の子を作ろうっていうのは全然なくて、”リアリティがあって、なおかつかわいい”……、そういうのを目指して書いているので……。そう、”女の人が書いているならでは”のリアリティはきっとあるんだと思います。あと、やっぱり、自分のなかにないものはどうしても……。これはノベルを書いてても思ったんですけど、自分のなかにないものは出てこない……、どこを叩いても。やっぱり、男の人が書いたものとは違うところがあると思います。自分の思い出話とかも入ってます。ちっちゃいころの経験談みたいなものは、いっぱい入ってますよ。私も実際、兄が2人いるので。末っ子で……その……妹の気持ちというの、よくわかりますし、きっと、世の中にいろんなお兄ちゃんがいるのも……そう、逆に2人いたことで、―ものすごくタイプが違ったんですよね―いろんなお兄ちゃんがいるっていうのもすごくわかってるので、そういうのはやっぱり生きているとは思います。だからといって、私が"ブラコン”とは思わないでいただきたいですけれど(笑)。


内容が、ないよ〜〜〜。なのに、長いよ〜〜〜〜〜。


強迫的なまでの6点リーダーと婉曲表現(この箇所だけで、6点リーダーが10回、「やっぱり」4回、「あんまり」「すごく」が各3回使われている)。そして全く手を加えられた形跡のない文章(公野先生の2~5文目と、6~12文目が、それぞれ全部同じ話をしている)。ここまで来るともはや、公野先生がコミュニケーションのできないヤバい人であることを編集者が暗に告発しようとしているのかとすら思います。というか、最初に読んだ時はマジでそう思いました。


要するにこの記事、話し言葉がそのまま文字に起こされてるんですよね。もちろん、我々が普段話すときには、間やつなぎ言葉をとって会話のリズムをとったり、婉曲表現を使って言葉をぼかしたりしますし、考えながら話す中で同じことを何回も繰り返したりします。しかし、それがそのまま文字に起こされると、読み物としては非っ常ーーーに読みづらくなります。ノイズでしかないですから。


もちろん、これは公野先生のコミュニケーション能力の問題ではなく、それを編集する者の問題です。2021年の『電撃G'sマガジン30周年感謝号』では、公野先生の新たなインタビュー記事が掲載され、そこで一番最初の質問が再び問いかけられています。その時の回答がこちら。

―1999年3月号より『Sister Princess』(以下、『シスプリ』の連載が始まりますが、どのような経緯で制作されたのでしょうか?
オリジナルコンテンツがないと雑誌が持たない、というところからスタートしました。前身の電撃PCエンジン時代から雑誌の存続が難しいといわれていましたが、その中で『女神天国』などの読者企画は人気があり、それを目当てに雑誌を買ってくれる方がいました。その流れの中で新しく読者参加企画をやろうと。1つ作れば当たるというものではないので、いろいろトライ&エラーでやっていこうという企画の中に『シスプリ』がありました。


別人か......??


「……」「やっぱり」「あんまり」「すごく」などの言葉は全て削られ、一文と一内容が対応しており、各文もおそらく適度な要約の手が加えられていて簡潔にまとまっている。おそらく、いくつかのやりとりを重ねた、あるいは話しながらさまざまに内容が展開していったものを、一つの発話として編集し直しているのでしょう。


この事例から僕は、「インタビュー記事は、インタビューの「結果」ではなく、インタビューという「素材」を、第三者の読み手に対してわかりやすく提示するために手を加え、「記事」として編集し直したものである」ということを、肝に銘じたのでした。


ではこれを踏まえて、僕が実際にどういう形でインタビュー記事を作ってきたのかを、順を追って整理していきます。

1、アポをとる


 まず初めに、インタビューしたい人に連絡をとらなければなりません。連絡先を公開されている方ならばそこに連絡をしたり、コミックマーケットなどのイベントに参加されている方ならば直接挨拶をしたりします。


 ただしその時、相手に対して最大限の敬意と配慮を忘れてはいけません。相手からすれば、マジで知らない人間から突然連絡が来て、自分の話をするために自分の時間を割いて欲しいと言っているわけですから。メールなどで連絡をする場合、ビジネスメールの書き方をしっかり押さえます(調べれば出てきます)。また対面で挨拶をする場合、個人ないしサークルの名刺や、今までの活動概要がわかるもの(会誌など)をお渡しすると、よいかと思います。自分の場合は、コミックマーケットの会場にて挨拶を行い、名刺と論文の抜き刷りをお渡ししていました。


 そしていずれにしても、こちらから連絡をとる段階で、インタビューの概要すなわち、なぜその人に話を聞きたいのか、どのようなインタビューをするのか(内容、形式、ざっくりとした質問項目など)、いつ、どのような形で公開されるのかなどは、相手に伝えておくべきです。またこの時、あるいはその後のやり取りの中で、インタビューは録音と文字起こしと編集を行うこと、記事の公開に際し改めて内容の確認をとること、内容については要望があれば修正や記事自体の取り下げが可能であることについても、相手に伝えるべきです。

2、インタビューをする


 相手へのアポと、依頼の承諾がなされたら、いよいよインタビューを行います。特に作家の方にインタビューを行う時は、事前に、今まで書いてきた雑誌や作品などの最低限の情報を押さえておきます。また過去の同人活動歴について調べておくと話のタネになるかもしれません。が、同人活動は基本的に趣味の活動なので、話されたくない・詮索されたくないという方がいらっしゃることは、念頭に置いておきます。あと、過去にその人がほかの媒体でインタビューを受けていないか、受けていればその時にどのような話をされていたかも、できればチェックしたほうがよいです。


 インタビューを行う時は、録音を行います。録音を行う際も、その時に許可をとります。また、録音するデバイスは1台ではなく、2台以上用意するのが吉です。1台しか用意していなくて、その1台が機材トラブルで録れてなかった〜〜なんてことになったら、目も当てられません。


 インタビューの際、何をどのように聞くか。自分の場合、第一に核となる質問をあらかじめある程度決めつつ、しかし第二にその質問項目にとらわれすぎず、話の流れでさらに深掘りや脱線も厭わない、ようにしていました。専門的に言えば、半構造化インタビューというやつです。もちろん、あらかじめ話の流れを明確に決めたり、逆に何も聞くことを決めず雑談ベースでやるインタビューもあると思いますが、自分は半構造化インタビューがいちばんやりやすいと思っています。


 その都合上、話題は必然的にあちこちに飛んだり行ったり来たりしますが、どうせ後で編集するのでこの段階で気にする必要は全くありません。僕の場合は、自分の持っている質問をベースにするのではなく、相手からなるべく多くの話を聞くことをベースに、ときには適度に相槌を打ったり、あえて何も話さず傾聴の姿勢を見せたりしながら、語りを引き出すことを意識していました。


 と言いつつも、基本的には素直に会話を楽しむことが大事だと思います。しかしインタビューに慣れていないと、とくに会話のいちばん初めにおいて、うまく話せなかったり言葉につまったりして、あまり楽しくない、あるいは必要以上に固い雰囲気になることが多々ありました。なので自分の場合は、慣れないうちはあらかじめ、インタビューの始め方を定型文的に用意していました。つまり、最初の挨拶・自己紹介・インタビュー概要の説明、最初の質問くらいまでを、原稿に書き起こしてしまうのです。話し始めてしまえば、あとは「ええい、ままよ」でなんとかなります。多分。ならない時もあるかも。


 あとは......なんだろう。時間を割いてくださった相手への敬意と配慮と感謝、そして社会人としての常識を忘れないことでしょうか。

3、文字起こしをする


 インタビューが終わったら、文字起こしをします。僕の場合、10分のインタビューを文字起こしするのに30~1時間くらいかかります。一番地味でつまらない、そして泣きたくなる作業です。特に好きな作家の先生にインタビューした時など、早口キモ・オタクと化した自分のキモ・ボイスと向き合い続けることになるので、死にたくなります。サークルなどで手の空いた人がいるならば、分担するのがよいです。


 文字起こしのやり方には色々あります。自分がよくやっていたのは、録音した音声を耳で聞き、同じ言葉を口に出し、それをWordやGoogle翻訳などのディクテーション機能を用いてデバイスに書き起こしてもらう方法です。また最近では、AIで文字起こしをしてくれるサービスも充実しているので、下起こしとしてそれを使うのもいいでしょう。Microsoft365を契約しているなら、Wordに音声を取り込み、トランスクリプト機能で文字起こしさせることもできます https://www.notta.ai/blog/transcription-feature-word-method。しかし一つ言えることは、音声を耳で聞いて文字を打ち込むのが、一番非効率だということです。時間を失い、腱鞘炎になり、サークルのメンバーから締切を守れと詰められるだけなので、お勧めしません。


 文字起こしを行う時に問題となるのが、初稿の際に文章をどこまで整えるか、ということです。これが案外悩ましい。文字起こし段階であまりにも発話に手を入れてしまうと、せっかくのインタビューの「生の会話」感を損ない、講義テキストでも読んでいるかのような固い文章になりかねません。かといって、発話をそのまま文字起こしすると大抵、人間の会話とは思えない文章が出来上がります。漫トロには、僕が入会した時には既にあったくらいに代々伝わる、「悪い文字起こしの例」がOnedriveに保存されています。


 僕の考えでは、文字起こし段階で求められるクオリティは、冒頭で「悪い例」として示したあたりが最低ラインだと思います。つまり、読み物としては明らかに不自然だが、話し言葉として見るならば内容は理解できるという基準です。これくらいのクオリティであれば、次に述べる編集のプロセスを初めて経た後の校正第1稿で、真っ赤だがまだ判読できるくらいの校正原稿が残っているはずです。逆にこれよりも文字起こしが甘く、この項で示した「悪い文字起こしの例」くらいになると、首切られたんかってくらい真紅に染まった校正原稿を前に、これはもう一から文字起こしをし直した方が早いんじゃねの空気になります。


 そして可能ならば、あるいは経験のある人間が担当するならば、文字起こし段階で次に述べる編集プロセス4-Aまで、文字起こし段階で既に行われていること(通称、ゼロ次校正)が望ましいと思います。いずれにせよ文字起こしの段階において行うべきは、ただ文字を起こすことではなく、効率よく、かつ話し言葉の読み物として読みやすいかを意識して手を加えながら文字を起こすことだと思っています。

4、編集をする


 今までの段階で、「話し言葉」としてのインタビューが、「読める話し言葉」の形に文字起こしされました。この後に行うのは、「読める話し言葉」としての文字起こし原稿を加工・成形し、文字として読んで違和感のない「読みもの」へと変えていく作業です。


 漫トロをはじめ少なくないサークルが、初稿として提出された原稿を整えることを「校正」と呼んでいます。しかし、こと座談会やインタビューなどの文字起こし原稿においては、「校正」という言葉は適切ではないと思っています。「校正」という言葉は「誤字脱字を正す」というニュアンスを強く持ちますが、文字起こし原稿を前に我々が実際に行っているのはむしろこうした「編集」の作業であり、「校正」という言葉はこの「編集」の作業を透明化し、存在しないプロセス、ないし熟練の会員による職人芸として後景化してしまいます。なのでここでは、あえて「校正」ではなく「編集」という言葉を使います。


 改めて、編集とは、文字起こし原稿の誤字脱字を正すことではありません。文字起こし原稿を加工・成形することで、「読みもの」としての「インタビュー記事」に変えていく作業のことです。僕はインタビュー記事の編集を、A:個々の発話を整えるミクロレベルの編集と、B:まとまった発話群や、一つの大きな話題、そしてインタビュー記事全体の流れを整えるマクロレベルの編集に分けて考えています。順に説明していきます。

4-A:ミクロレベルの編集

 個々の発話を、話し言葉の文字起こしから、読みものとして自然な、記事の文字にしていきます。漫トロ向けにいうならば、総合座談会や個人座談会でいつもやっていることです。また、詳しくはなめしの引き継ぎないし個人寄稿を読めばわかります。


 なので、僕がここで説明するのは屋上屋上屋を架しに架すことになって恐縮ですが、ざっくり自分が意識していることをまとめると、だいたい以下の通りでしょうか。

話し言葉特有の、リズムをとるための繋ぎ言葉や、婉曲表現をカットする。
②文中や文間で同内容が繰り返されている場合は、適宜要約を行う。
③長い発話は、相槌やつっこみ、新しい質問を加えたりして、区切る


例えば、一番最初の「悪い例」を、これら3点を意識しながら編集してみます。元の文章がこれ。①を行うことを念頭に置き、いったん繋ぎ言葉と婉曲表現だけ、赤字で示してみます。

編:「シスター・プリンセス」を書くにあたって、公野先生ご自身の視点というか立場はどのように取っていらっしゃるのですか?妹としてなのか、妹の友達としてなのか、それともまったく違うのか……
公:あんまりそういうのは考えて書いてなくて、計算とかあんまりしてないんですよ。ただ、もともとから、ゲームってわりとリアルじゃないキャラクターが多い気がして……(笑)。あんまりこうリアリティのない、女の子から見て気持ちの悪い女の子のキャラクターって多いんですよ、やっぱりだからそういうのがいやだなっていうのは、ずっとずっとあって……。だからって、ゲームなのにすごく手ごわーい女の子を作ろうっていうのは全然なくて、”リアリティがあって、なおかつかわいい”……そういうのを目指して書いているので……そう、”女の人が書いているならでは”のリアリティはきっとあるんだと思います。あと、やっぱり、自分のなかにないものはどうしても……。これはノベルを書いてても思ったんですけど、自分のなかにないものは出てこない……、どこを叩いても。やっぱり、男の人が書いたものとは違うところがあると思います。自分の思い出話とかも入ってます。ちっちゃいころの経験談みたいなものは、いっぱい入ってますよ。私も実際、兄が2人いるので。末っ子で……その……妹の気持ちというの、よくわかりますし、きっと、世の中にいろんなお兄ちゃんがいるのも……そう、逆に2人いたことで、ーものすごくタイプが違ったんですよねーいろんなお兄ちゃんがいるっていうのもすごくわかってるので、そういうのやっぱり生きているとは思います。だからといって、私が”ブラコン”とは思わないでいただきたいですけれど(笑)。


まず、①繋ぎ言葉と婉曲表現だけ消してみます。

編:「シスター・プリンセス」を書くにあたって、公野先生ご自身の視点・立場はどのように取っていらっしゃるのですか?妹としてなのか、妹の友達としてなのか、それともまったく違うのか……。
公:そういうのは考えて書いてなくて、計算はしてないんですよ。ただ、もともとから、ゲームってリアルじゃないキャラクターが多い気がして(笑)。リアリティのない、女の子から見て気持ちの悪い女の子のキャラクターって多いんですよ。そういうのがいやだなっていうのは、ずっとずっとあって。だからって、ゲームなのにすごく手ごわーい女の子を作ろうっていうのは全然なくて、”リアリティがあって、なおかつかわいい”のを目指して書いているので。”女の人が書いているならでは”のリアリティはあるんだと思います。あと、自分のなかにないものはどうしても。これはノベルを書いてても思ったんですけど、自分のなかにないものは出てこない、どこを叩いても。男の人が書いたものとは違うところがあると思います。自分の思い出話とかも入ってます。ちっちゃいころの経験談は、いっぱい入ってます。私も実際、兄が2人いるので。末っ子で妹の気持ち、よくわかりますし、世の中にいろんなお兄ちゃんがいるのも、2人いたことでーものすごくタイプが違ったんですよねーいろんなお兄ちゃんがいるのもわかってるのは生きているとは思います。私が”ブラコン”とは思わないでいただきたいですけれど(笑)。


 まだまだ全然読みにくいですね。なので次に、②文中や文間で同内容が繰り返されているところを、適宜要約していきます。この文章の場合、公野先生の2~6文目は全部「ゲームの女の子にはリアリティがないので、自分はリアリティがあるキャラクターを作りたい」みたいな話をしているっぽく、7~13文目は「自分の体験をベースにして物語を描いている」みたいな話をしてるっぽいです。14文目がオチなので活かしたいですね。9文目の「男の人が書いたものとは違う」話は、この流れだとやや浮いている感じがあるので、消すことも念頭に置いておきます。その他の部分も整えつつざっと手を動かすと、こんな感じになりました。

編:公野先生は「シスター・プリンセス」をどのような視点で書いていますか?妹としてなのか、妹の友達としてなのか、それともまったく違うのか。
公:そういうのは考えたり計算したりしてないんです。ただ元々、ゲームってリアリティのない、女の子から見て気持ちの悪い女の子のキャラクターが多い気がして、それがいやだなっていうのは、ずっとありました。なので、リアリティがあって、なおかつ可愛いのを目指してます。それで男の人が書いたものとは違う、女性作家ならではのリアリティはあるんだと思います。あと、自分の思い出とか経験は、いっぱい入ってます。自分の中にないものは、叩いても出てこないので。私も実際、兄が2人いるので、妹の気持ちはよくわかりますし、2人ともタイプが違ったので、世の中にいろんなお兄ちゃんがいるのもわかります。そういうのは生きているとは思いますね。だからといって、私がブラコンとは思わないでいただきたいですけれど(笑)。


 どうでしょうか。ぱっと見、まだ長いですね。なので最後に、③「女性作家の生むリアリティ」の話と、「自分の体験の反映」の話の間に、編集者のいい感じの相槌と質問を挿入してみます。

編:公野先生は「シスター・プリンセス」をどのような視点で書いていますか?妹としてなのか、妹の友達としてなのか、それともまったく違うのか。
公:そういうのは考えたり計算したりしてないんです。ただ元々、ゲームってリアリティのない、女の子から見て気持ちの悪い女の子のキャラクターが多い気がして、それがいやだなっていうのがありました。なので、リアリティがあって、なおかつ可愛いのを目指してます。それで男の人が書いたものとは違う、女性作家ならではのリアリティはあるんだと思います。
編:なるほど。
公:あと、自分の思い出とか経験談は、いっぱい入ってます。自分の中にないものは、叩いても出てこないので。
編:ということは、公野先生にも「お兄ちゃん」が?
公:そうなんです。私も兄が2人いるので、妹の気持ちはよくわかりますし、2人ともタイプが違ったので、世の中にいろんなお兄ちゃんがいるのもわかります。そういう体験は生きていると思いますね。私がブラコンとは思わないでいただきたいですけれど(笑)。


 だいたいこんな感じでしょうか。少しはマシになりましたかね。これで一応、この部分の「文字起こし原稿→編集1回目→校正第1稿」あるいは「文字起こし→ゼロ次校正→文字起こし原稿」が完了したことになります。ここから、2回目、3回目と編集・校正を繰り返し、一つ一つの発話を洗練させていきます。

4-B:マクロレベルの編集

 まとまった発話群や、一つの大きな話題、そしてインタビュー記事全体の流れを整えていきます。本当はAの編集と同時並行でやれたら一番いいのですが、たいてい文字起こし初稿の初回〜2回目の編集くらいまでは、赤が入れられまくって血の海みたいになっているはずなので、実際にはAの編集がある程度進んでからやることになります。
 

 一人の人間と数十分〜数時間にわたって会話し、その人の人生について聴くという経験は、プロの編集者や質的研究者でもない限り、おそらく殆どの人間が体験しないことでしょう。また2で述べたように、そもそも(半構造化)インタビューという営為自体、ある種の「水物」性を伴っています。なので、最初からインタビューの内容が筋の通った語りになっていることはまずありません。話が行ったり来たりあちこち飛んだり、明らかな雑談・脱線・オフレコがあったり、既に話していた内容に数十分後に戻ってきたりしているはずです。4-Aで個々の発話を読みやすくしても、話の流れや順番がばらばらなままでは、全体として結局どういう話がなされていたのかが分かりづらいという点において、可読性を著しく下げるものです。


 したがって、構造化されていない数十分〜数時間単位の会話を、その全体があたかも最初から筋の一本通った語りであったかのように、組み立て直すことが必要になります。「インタビューの文字起こし」を「インタビュー記事」に編集する上での、最も大事なポイントは、僕はここだと思っています。こういうこと、総合座談会でも個人座談会でもしないですからね。


 ざっくり自分が意識していることは、以下のようなことでしょうか。

①個々の発話を、内容のまとまりごとにくっつけたり、順番を入れ替えたりする。
②こうしてまとめた発話群を、話の大きな流れごとに、適切に章に分けてみる。
③全体をざっくり読んでみて、同一・類似の内容の章があれば、章ごとくっつけたり、入れ替えたりする。
④全体的な話の流れから明らかに浮いている章は、割愛する。


 もちろん、このようにインタビューの発言を「編集」という形で加工・成形することには、抽象的な表現をすれば暴力性が伴うものであり、 細心の注意が必要であることは言うまでもありません。。実際の会話のやりとりを、こちらの一方的な都合と判断で改変してしまうのですから。質的研究に用いるための社会調査としてのインタビューであれば、文字起こし段階で発話を最小限整えることはすれど、4で述べてきたように大きく改変すればもしかしたら「捏造」にあたるかもしれません。しかし我々が行っているのは、質的調査ではなくインタビュー記事の作成です。その目的は、インタビューをしたという調査報告を行うことでも、インタビュー記事の議事録を作成することでもなく、インタビューの内容をわかりやすく第三者の読み手に伝えることです。だからこそ、大胆に、しかし細心の注意を払いながら、文字起こしを「編集」することが必要だと考えています。特にインタビュー相手の発言を編集する際には、発言の意図を適切に汲み取った編集ができているか、発言の意図と異なる解釈のもとで編集をしていないか、常に気を配るようにしています。


 そして、この「編集」を行うにあたってしなければならないことが、1であげた「編集を行うこと」を相手方に伝えた上でインタビューに臨むことと、次にあげる編集した原稿を相手方に確認してもらうことです。

5、相手方の確認をとる


 4の編集を2回、3回と繰り返していけば、記事原稿が、もともとの会話とは大きく異なる文章として完成するはずです。そのため、記事原稿が最終稿ないし完成稿に近づいてきた段階で、インタビュー相手に原稿を送付し、内容の確認をしていただくようにしていました。4の編集段階における発話の加工・成形が誤った解釈でなされていないか、記事として公開してほしくない・すべきでない内容が残っていないか、などの判断は、けっきょくインタビューを受けた相手にしかわからないからです。

 
 この段階でも、インタビュー相手への敬意と配慮と感謝を忘れてはいけません。相手からすれば、突然話を聞かせてくれと言ってきた学生に、貴重な時間を割いて話をした上で、数万文字にもなる原稿を確認しろと言われるわけですから。特に、修正があれば遠慮なく言ってほしいという旨は、強調してよいと思います。

6、完成!


 やったね!



 
 以上、駆け足ではありましたが、僕がインタビュー記事を作るときにどうしていたかという話でした。京大漫トロピーの皆様におかれましては、こんど表紙をハトポポコ先生や位置原光Z先生に依頼するようなことがあれば、ぜひ先生方へのインタビューも敢行していただくよう、よろしくお願い申し上げます。それではまた来年、「私が博士論文を書けるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリだった!?)」でお会いしましょう。ばいちゃ〜〜。

【12/22】アニメキャプ大放出回

眠くなったら寝る。お昼過ぎに起きる。そんな生活は講義は始まったらできないらしいですね。

ギルドの受付嬢ですが、残業は嫌なのでボスをソロ討伐しようと思います

最近めっちゃ盛り上がっているアニメ『渡くんの××が崩壊寸前』について、話したいことが「セックス」のことしかない146Bです。

セックスのことですよね?

「渡くん」は言ってしまえば個人の中で失墜した家族の権威を復活させるための漫画なんですよね。だいたい今期やっている『ある日、お姫様になってしまった件について』と同じ感じです。

ファザコンアニメでもある

あらすじと言えば高校で気分の悪い別れ方をした幼馴染みと再会して、同時期に巨乳の美女に迫られて理性が崩壊しそうになるものなんですよね。
今年もっとも理性が崩壊していたのは『男女の友情は成立する?(いや、しないっ!!)』の青髪プッハーだと思います。

アヘ

最初のほうは巨乳ヒロインの石原紫さん(紫と書いて「ゆかり」って読むらしんですけど面白い読みですよね)のエロ売りが激しく、それを目当てに見ていたまであるんですよ。
エロ売りがやばかったのは『鷹峰さん、履いてください』ですよね。

これは鷹峰さんに欲情するレズ

でも紫ちゃんのほうがエロかったと思います。

通称Fカップちゃん

「渡くん」アニメはOPの裸ダンスがすさまじくってダメなアニメだと思っていたんですけど、2クール目に入ったあたりから人間関係を本気でやりはじめて令和の『とらドラ!』に近しい存在だと思われます。
2クール目がすごかったので思い出すのはやっぱり『甘神さんちの縁結び』ですかね。でも「甘神さんち」はアニメが良かったけど今年週末した原作漫画のほうが結構酷かったと思うのでこれ以上アニメが続かないでほしいですね。

勃起bot

ブコメはキャラクターたちの気持ちが煮詰ったあたりで終わってしまうものが多いんですよね。2クールもあるとさすがに視聴者のほうも2日目のカレーくらい親しみをもって楽しめるので2クールはやって欲しいっすね。
しかし煮込んでも煮込んだぶんだけ面白くなるとは限らず、『彼女、お借りします』のアニメなんかはもうお腹一杯ですけどね。4期もいらんし5期が決定したらしい。いらんて。
やはり紫ちゃんがコンドームを買ったあたりから面白くなった感じですね。ギアが上がるのは中盤くらいで、そっから流れるように終わりに向かっていくのは作劇の構成が『TO BE HERO X』くらい上手い。

もちろん粗がないわけじゃなくて第三のヒロインである梅澤が魅力的だったのに人間関係を変質させるほど強力にならなかったのが惜しい。『サイレント・ウィッチ』も親友枠のキャラクターが退場するときが一番面白くてそれ以降尻すぼみになっていたのを思い出します。

モニモニ〜

この手の作品にしては珍しく男性の心情よりも女性の心情の機微のほうが丁寧に描かれているんですね。『薫る花は凛と咲く』にも通ずるものがある。

薫子さ〜ん

実は渡くんの理性が崩壊する原因はヒロインたちよりもむしろ妹のほうが原因っぽい。途中から妹も聞き分けがよくなっちゃって都合のいい要素に変わちゃったんですけど、序盤では渡くんを束縛する存在として強力に作用していたんですけどね……。『一瞬で治療していたのに役立たずと追放された天才治癒師、闇ヒーラーとして楽しく生きる』のリリくらい作品を支配してもよかったくらい。

このアニメは就活の記憶とセット

中盤に差しかかるまではかなりヤバく、とくに紫ちゃんの告白を渡くんが断ったあとに、紫ちゃんが食い下がってしまったあたりがしんどい。しかしそこを越えたらもう最高で、適応した結果毎週笑える『笑顔のたえない職場です。』くらい素晴らしい。
特にメインヒロインたる紗月の話に本格的に入ってからは『アポカリプス・ホテル』最終回で人間が地球に帰ってくるエピソードくらい
"すべて"がありました。

地雷系みたいなビーニー

しかしすべてを知ったあとも虚しく紗月は渡くんのもとから去るように転校してしまうんですよね。『完璧すぎて可愛げがないと婚約破棄された聖女は隣国に売られる』と同じくらい、欲しいと思ったころには手元にない様子を描いています。

今年トップクラスに好きなアニメ

運命はいたずらなもので渡くんは修学旅行先で紗月と鉢合わせます。ぜんぜん無関係な人物のイベントを探っていたはずなのに元の人間関係に収まってしまうのはまるで『小市民シリーズ』のよう。

ストスマイルアニメオブザイヤー

紗月が今どこに住んでいるか聞き出したら横浜に住んでいるとのこと。それって東京と町田くらい近いと思いませんか? そういえば今年は町田アニメで、『宇宙人ムームー』*1や『うたごえはミルフィーユ』などいい作品が多かったですね。

宇宙人ムームー。「うたミル」は今年上位に来るオリアニ。

紗月はずっと渡くんとの思い出である写真をずっと探していたりしていて、離れても忘れたくないというような執着の具合を見せています。そういう自家撞着な感情を描いているのは『鬼人幻燈抄』が長大な時間をかけて幸せの脆さを描くのと同じくらい珍しいものだと考えています。
どれくらい珍しいかといえば、東京のひとが群馬の前橋に行くくらいは珍しいと思います。

we are 前橋ウィッチーズ Yeah

そうして渡くんと紗月は付き合うことになるんですよね。ここで作品を終わらせても良かったんですけど、しかし作者は誠実なので超越ぶった同級生や思わせぶりな発言を繰り返していた叔母の掘り下げをします。その完璧さたるや、『日々は過ぎれど飯うまし』が1年間のサークル活動を描くのみの骨の部分だけを抜き取っていたくらい細部まで気を使っているようです。

新年を迎えるときにもきっと見ている

私と漫画の付き合いはすでに『プリンセッション・オーケストラ』を越え、『おジャ魔女どれみ』ほどのものになろうとしています。

プリンセッションオーケストラ

みなさまもペイ社長くらいムキムキになって私を殴り倒しに来てください。

破産富豪

そのとき私はきっと謎ダンスでもして迎えうつでしょう。

不器用な先輩。

見え方は怪獣を着たきぐるみのようなものかもしれませんが、所詮はきぐるみです。

気絶勇者と暗殺姫

倒された私はとんでもない格好をしてしまうかもしれません。

忍者と殺し屋のふたりぐらし

それではさようなら!!

バンドリアベムジカ

*1:ヤングキングアワーズにて連載していて、京大漫トロピーでも購読している

【12/21】今年聴いてよかった音楽+α!

うぃす、なめしです。5年目ともなればテーマのほうからやってくるだろう*1ということで、手を抜くためのアドカを書きますよっ*2! まぁ一応これをやる理由はあるにはあるのだけど、みんな興味ないよね*3
さて、この記事はマジでよかった音楽を紹介していくだけ(「マジで」は「だけ」にかかっている)なのですが、注意してほしいことが何点か。まず、俺はリスナーとしては聴いてる量も分析力もクソ雑魚であること。「気持ちよければおk!」のケースが非常に多いです。あまりないとは思いますがこれを音楽モタキの方が読んでいる場合、参考にするために読むのを即刻中止し、ポタクとモタキのあわい、つまりポタキってこんな感じの浅さなんだ、というサンプルとして理解してください*4。次に、「今年」とは言ってますが旧譜も全然入ってます。さらに、楽曲リンクは俺が普段使ってるSpotifyで貼ります*5。最後に、紹介する楽曲・アルバムはまぁまぁmantrogの読者層に配慮してるし、そのなかでもポタクっぽいやつを前の方に配置しています(注53に印象に残った新譜を羅列だけしてあるので、スカウターしたい方はどうぞ)。あ、昨年のアドカと同様注がいっぱい入ってるんですけど、今年は読ませる気ないレベルになってしまいました。特に注21は6万字強の記事内記事(本文冒頭で紹介するソシャゲの要約・感想・コメント)で、注36以降は楽曲リンク置きすぎで激重になってるので軟弱ではないデバイスが必要です(書いたあとやりすぎたことに気づいたのでめんどくさくて直せませんでした)。注番号をクリックすれば本文と注の間をワープできるのとか、PCならカーソル合わせればそのまま表示されるのとかを駆使していい感じに飛ばしてください。
それでは、、、れっつご!

1. 衣川季肋(CV. 佐藤祐吾) "白昼夢"(2025)

なにわろとんねん×4

今年はキャラクターソング(ただし男性キャラクターのものに限る*6)を1000曲、いやもっと? くらい聴いたと思う*7。このあとのポタクゾーンも基本的にキャラソンを見ていくが、そのなかで"白昼夢"は俺的2025年キャラソンランキング堂々の第1位である*8
さて、曲の背景を説明しておこう。この曲は近未来おもてなしアドベンチャー兼イケメン区長育成ゲーム(?)*9『18TRIP』のキャラソンなのだが、今年の、そして今後の俺を規定したゲームこそ『18TRIP』だった。ま、とりあえず公式サイト(【公式】18TRIP(エイトリ))からイントロを引用してみよう。

誰もが旅に焦がれる近未来。
観光業の競争が熾烈を極めるJPNでは、
人気観光地は“独立観光特区”として活躍していた。
かつて有数の観光特区だったHAMA18区は、
今や落ちぶれてしまい見る影もない。
生まれ育ったHAMAを愛する主人公は、幼なじみに
巻き込まれるまま観光業立て直しのため奮闘することに。
少し不思議なハプニングと、おもてなしに賭ける情熱。
旅のパートナーは、誰にも言えない荷物を抱えた観光区長たち。
たくさんのできごとがカセットに吹き込まれ、
忘れられない旅の思い出に代わる。

うーん、あんまよくわかんないね。ただ、この二十余年、創作物によって世界の見かたが変わったことなどなかったと断言できる自分だが、今回は明確に変わった。過去の漫トロ民がやってたやつってこれか、という感じである*10
ことの顛末はこうだ。学生身分の失効が迫り、人生が次の段階に移行するという状況*11のもとで、(その手の人としてはまぁありふれたことだとは思うが)俺は自分の人生に入れ込むこと、それを自分のものとして引き受けることがどうしてもできない、がゆえになにもできないという事実を否応なく自覚させられていた。まぁそんなことは今までの人生で何度も自覚してきたのだが、ついに結構デカめの実害が出始めてきているわけで、流石に焦る。しかしなにもできないことは変わらない。そのなにもできないの一環、つまるところ現実逃避として、去年の暮れにインストールだけしていた『18TRIP』を起動してみたのだ。性欲だけでインストールしていたわけだから、もちろん当初はいっときの手慰みに使ってやろう以上のことは考えていなかった。そう、当初は。
起動したあとは(一応ゲームプレイヤーとして律儀なほうではあるので)メインストーリーをちゃんと読むわけだが、そこで俺が出会ったのが、西園練牙だった。詳しくは読んでみてほしいが、西園氏はまぁ、無能なのだ。リアリティという言葉を履き違える以前に認識すらしていない製作陣によってA,B,Cの次をEだと思わされ、しかもその原因を英語が苦手であることに帰されているのは流石にかわいそうな気がするのだが*12、それは置いても彼は頭も要領も悪く、変に意地を張って素直になれず、周囲に迷惑をかけ続ける。だが、でも、しかし、西園練牙は、努力することを通じて、自分を変えることができるのだ*13「毎日なにかひとつだけでも、それがどんなに小さいものでもいいからできるようになることのすばらしさ」という安っぽい文言がその奥に秘めたひとかけらの真実とその価値を実感せずにはいられなかった*14このとき、西園練牙は俺にとって西園「先生」になったのだ。自分と共通する弱さを持ちつつも、それと向き合い乗り越えていくという点において確実に自分の何歩も先を行く人間、このような人を先生と呼ばずしてなんと呼ぼうか*15

ぐあっ、くっ、くぅぅぅぅぅ〜〜〜〜……!!!!
はぁ、はぁ、俺、ウエッ……俺さ……
俺もさ、すこしずつだけど、わかってきたよ

西園先生のありかたに感銘を受けた俺は『18TRIP』が自分にとって重要な作品であると確信し、ストーリーを読み進めていく。するとどうだろう、大切なことを身をもって教えてくれるよき指導者が多数いるではないか! メインストーリーを読了する頃にはエンディングで完全に感無量状態になったり*16、特になにも教わっていないキャラも「先生」と呼称するようになっていたり*17、自分でも驚くほどハマっていた。そしてまた、今までの人生で「俗っぽくてくだらないもの」として道端に放ってきたいろいろな価値*18を拾い集めることができていたのだ。しかも、いつの間にか。人生/価値*19という軸が自己の内部に根を張り芽生えるということは同時に、無内容でチープな綺麗事にも思えることに価値を見出したり、みんなが感動できるものに感動したりすること、凡庸さに埋没することでもある。しかしほとんどの人にとって、大人になるとはそういうことではないだろうか*20人生のフェーズが進行しつつある今、俺が必要としていたのはそのような世界の眺めかたであり、そしてそれ以外ではなかった、ということなのだろう*21
俺が『18TRIP』に魅了された経緯はだいたいこんなものだ。しかし、世界の見かたは大きく変化したものの、ふるまいまで革命されたわけではない。長年積み重ねてきた行動習慣を半年かそこらで大幅に変えたと宣う人間がいたらまず疑ってかかるのが正解なのは火を見るより明らかだろう。ただ、思考様式の変化が徐々に行動や言動にも影響を与えていくであろうとも自分は確信している。より一層頑張る所存です。
さて、ここまで俺に影響を与えた神ゲー、いや仏ゲーである『18TRIP』だが、なんとApp StoreGoogle Playにて基本プレイ無料(マジで悪しき言葉だと思う)で配信中! オシャレ感を優先しすぎてUIがかなりわかりづらくなってたり*22、なんか妙に重かったり、近未来SFとかいうコンセプトが宙に浮いてたり*23、チャイナマフィアが何食わぬ顔で行政に関与しそれとは独立に司法制度の機能停止が示唆されるなど社会が崩壊してる感じがあるのに全スルーされてたり、そもそもおもてなしを「バトル」として捉えてるのが怖すぎたり、現代ポタクのアホみたいな世界像が2055年までそのまま保存されてて意味不明、みたいなポイントに目を瞑れる人はぜひやってみてね! ほぼすべてのストーリーが最初から解放されてるよ*24
それではみなさん、HAMA NICE TRIP!*25

18TRIP (エイトリ)

18TRIP (エイトリ)

  • Liberent
  • ゲーム
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apps.apple.com
play.google.com


あっ、曲の紹介か。今からやります。まずは聴いてみてほしい。
open.spotify.com
PAS TASTAのメンバーとしても活動するyuigotの手腕が遺憾なく発揮されたポップソングである時点でかなりポイントは高いのだが、俺がこの曲を評価するのは2番に仕込まれた派手なギミック*26にキャラクターソングの妙を見出すことができるからだ。参照するために該当部分(1:23〜1:45あたり)の歌詞を貼り付けておく。えいっ。

ここは安全なばしょ
でもひとりはつらくて
こころがずきずきするから
フレームの外に
絵の具振り撒く
この色を受け容れてよ

この部分は明らかに1番と聴感上大きく異なるのだが、それはボーカルとオケとの間で基本となる拍の設定がズラされていることによる。1番のAメロ(Bメロ)*27+サビを聴いてもらうと、ボーカルとオケがともに6拍をワンセットとして作られているのがわかると思う。ボーカルに注目するなら、たとえば「水たまり映す曇り空」の「水たまり映す」と「曇り空」という歌詞ブロックのそれぞれが6拍のうちに収まっている、みたいな感じ。しかし上で引用した箇所ではどうなっているかというと、「ここは安全な」が7拍、「でもひとりはつらくて」が8拍、「こころがずきずきするから」が9拍に収まるよう設定されている*28。つまり、ボーカルパートでは2番冒頭の24拍がオケの従う6+6+6+6ではなく、7+8+9で分割されているわけである。まぁそれ以降はなんかムズいのだが……*29。とにかく、このようなリズムのズラしがうまく効いていることで、リスナーに向けたよいフックが生まれているのだ。
しかし重要なのはここから。この曲はキャラクターソングであり、したがってそれを歌うキャラクターの存在も非常に重要であることは言うまでもない。というわけで、"白昼夢"の製造責任の一端を担う衣川先生がどのような人なのか確認してみよう。
18trip.jp
微量の独自性を感じさせつつも、ほとんどの人は「あぁ、そういう子ね」となれるような、ほどよく典型的なキャラクター像である。そもそも内向的なほうではあるのだが、アーティスティックな感性を持つがゆえに周囲と馴染むのが難しく、そのことがより内向性を加速させてしまい*30、作品による自己表現も恐れるようになる……まぁ雑にまとめればこんな子だ。萌えキャラやね。そして作中の出来事を経ることで、少しずつ、芸術表現を含めた他者とのコミュニケーションなどを通じて、自己を世界に開くことができるようになっていくわけである。泣ける〜*31
一瞬にして萌えで脱線しかねないので、曲の話に戻ろう。先に述べた楽曲構成上のギミックは、聴感上嬉しいのと同時に、衣川先生のキャラクター像の提示にもなっている。どういうことか。ボーカルを7+8+9拍で与えるということは、拍の数字上、それぞれの歌詞ブロックが楽曲全体の基調となる6拍のセットからのズレをどんどん大きくするということでもある。しかし、最終的には2番の入りから24拍目でボーカルとオケの帳尻は合うわけだ。ここで、ボーカルを衣川先生ご本人(当然そうだろう)、オケを先生の周りを囲む既存の秩序、とりわけ、先生がどのように自分と彼らを擦り合わせればよいのかと苦闘するところの他者、であると考えてみよう。すると今注目しているギミックは、衣川先生がーたとえば絵を描くといった芸術活動によってー周囲とのズレを大きくしていくことが、逆説的にそれらとの摩擦を解消することにつながる、というストーリーの表現として浮かびあがる。実際これは衣川先生が作中で遂行していることのひとつであり、芸術系のキャラ一般がとりがちな戦略でもあるだろう*32。このように、特徴的かつ効果的なギミックがキャラクターとの関連においても機能している*33という点で、"白昼夢"は優れたキャラクターソングなのだ。
しかししかし、俺が言いたいことはまだある。ここまで付き合ってくれた人に聞きたいのだが、上の考えが合っていたとして、これ、頑張ったらなんかキモさとダサさを見いだせませんか? どういうキモさとダサさかというと、解釈くん/解釈ちゃん的な、そして考察厨的なキモダサ。たとえばなのだが、yuigotが自身の名義で出した曲に(意味づけの内容は衣川先生のものと違ってしかるべきだが、楽曲に意味づけを導入するという点では同様の)こんな感じのギミックを仕込んで、リスナーが正しくそれを読み取った、みたいなことが起きたら、yuigotはなんかアーティストとしてダサいなと思ったり、リスナーに対して「考察厨乙w」と感じたりしてしまう人も出てくる気がするのだ*34。そして、ここからもっと伝わるか微妙な話で申し訳ないのだが、今回の"白昼夢"の場合、そういうキモダサは「頑張ったら」見いだせるくらいのものにとどめられているのではないか? と主張してみたい。アーティストが自分たちの曲でやるのとは違って、キャラクターソングといういわばアテ書き(イマジネヰション……)においては、特定の楽曲解釈が持ちうる考察厨的な嫌さは減じられるように思える、ということだ。この感触が正しいのならば、その理由はやはり、キャラクターソングでは、まさにそこで主題化されるところのキャラクターがバッファとして機能するからだろう。特に現代のオタク向けキャラクターコンテンツにおいては、そもそもキャラクターたちはこれまで提示してきたような考察厨的な嫌さのもとで解釈されるべきものとして創造される*35。だから、そのような嫌さを伴った解釈を適用されるのは、「キャラクター」概念にあらかじめ含み込まれた予定調和の一環でしかない。むしろ、常にダサの粗探しをしようと企む厄介な視線を避けながら、このような意味づけギミックを堂々実践することを可能にしているという点で、キャラクターソングという楽曲形態はイカしているのだ、とまで言えるかもしれない。流石に嘘か。
ともかく、俺の『18TRIP』と"白昼夢"への愛は伝わったことかと思う。いや〜、マジでいい曲だわ。単純な楽曲としての快感とキャラクターソング(もっと広くとれば楽曲提供というスタイル)に特徴的な事情の(誰でも容易に理解可能な)照射を高水準に両立しているのが素晴らしい。鬼リピ確定*36
注にまわすのはもったいないのでついでに書いておくが、『18TRIP』はサントラもいい。
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siraphの照井順政と蓮尾理之の共同制作*37。マジでいい質感なので俺はゲームプレイ以前からちょくちょく聴いてたし、実はインストールのきっかけもサントラがよかったから。そしてストーリーを経た今となっては、"time passes slowly"、"grandeur"、"epilogue"、"mahorova"あたりで無限に感傷的になれる。お〜いおいおい…………っつーか、おもライ♯2・♯3当たったんで行きます。これまで関わったことのない(というか意識的に避けてきた)感じの人たちに囲まれて怯えてるナードくんがいたら俺です。すでに戦々恐々*38

2. V.A. "テクノロイド 2nd Album Visible Love"(2025)


open.spotify.com
1個目に尋常じゃない字数を割いてしまっているのでここからは駆け足で。
菊田大介・竹田祐介・岩橋星実Elements Garden組が主に楽曲制作に携わっていた*39メディアミックスコンテンツ『テクノロイド』の2nd……「携わっていた」? そう、俺が調査活動の一環でこのアルバムを聴いたとき、『テクノロイド』はすでに鬼籍に入っていた、というかこのアルバム自体が終焉後に打ち上がった最期の花火らしい。
肝心の中身はというと、かなりよかった。アプリゲーム内のイベントと連動した曲、つまりアルバムとしてまとめられることは想定していないシングル的楽曲の寄せ集めにもかかわらずなかなかの統一感。それでいながら、個々の楽曲間には適切な距離が保たれているため聴いてて楽しい。アルバム、ひいては当の楽曲コンテンツ全体の統一性と、各楽曲の差分の演出。この2つの要素を調停するバランス感覚が好みでした*40。世界観と楽曲ディレクションの確かさを感じる1枚*41

3. 幸村(CV. 野島健児) "蟻塚"(2023)

www.youtube.com
「の、野島健児deadmanを〜〜〜〜!?」以外の感想が出てこない。
「近未来×戦国×V系楽曲」とかいう本当にありえないコンセプトを携えたメディアミックスプロジェクト『マガツノート』*42。わけわからんことしてるから当然こいつも鬼籍に入ってしまった*43。お前らもっと早く教えてくれよ。
さて、ここに挙げたdeadman"蟻塚"カバーは、『マガツノート』が生涯をかけて取り組んだV系楽曲カバーのひとつだ。レコーディングには村井研次郎(cali≠gari)、shuji(ex. Janne Da Arc)とかいうやたら豪華なメンバーが参加しており、カバー対象のバンドは上記deadmanのほか、有名どころではLUNA SEAPlastic Tree、girugamesh、アンティック-珈琲店-などなど……なかなかツボを押さえた、言い換えればガチ若年層は完全に捨てたラインナップである*44。まぁそれはコンセプトの時点でという感じはあるし、俺もV系は人より好きだし*45、声優音楽×V系ってまだやれることある気がしないでもないからこういう企画嬉しいし……終わった後に知った身で言うのもなんだが、もっと続いてほしかったですね。合掌。

4. 永泉(CV. 保志総一朗), 安倍泰明(CV. 石田彰)"碧の子宮"(2002)

ちょっとトリミングミスってますね

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男性キャラソンに詳しくなろうというなら、やはり乙女ゲーは外せない! と思って黎明期からのんびりサーチしていた際に出会った*46。2002年リリースということで、いやー、時代を感じるね。こういう国産ニューエイジへの視線を伴った音楽ってつまらない感じと本当に紙一重だと思うのだけど、なかなかいい具合にまとまっている、と思う。作曲の伊藤真澄(歌ネットだけに編曲:タダミツヒロって書いてあるけどほんと*47?)パワーなのでしょうか。まぁ自分としては乙女ゲーキャラソンとこの手の楽曲が結びついていたことが新鮮だったのだけど、ニューウェーヴ・シンセポップ・シティポップ……ヨクワカランノデモニョモニョは結構2次元コンテンツと結びついてたわけで*48、そういうのも考えれば全然理解できるなぁと思ったり。でも実際どういう感じだったのかわかんないっすね。あまりに無知。
キャラソン文脈の話をするなら、「遥かなる時空の中で」シリーズの努力は、コンテンツ自体が抱える「和っぽさ」をどのように楽曲に反映していくか、という点に注がれている。これは男性キャラコンテンツに限らないと思うのだが、キャラものというのは「和っぽさ」が大好きなのだ。そして「和っぽさ」は往々にして、楽曲を画一化し、そこに変なダサさを付与してしまう。「遥かなる時空の中で」の楽曲群がその点を回避できているとまで言うつもりはないが、今の聴き手である俺(ら)との間にあるジェネレーションギャップも手伝って、目新しい曲がちょくちょくあるのも事実。今年調査した男性キャラソンコンテンツの中ではかなり楽しめました*49。てかこれで「子宮(うみ)」って読むのマジ? カッケーーーーーー!!!!!!!!

5. NARASAKI "ウルトラマンオメガ オリジナルサウンドトラック"(2025)


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今年はキャラソンとの関連(?)で、サントラもちょびっと聴きました*50。『ウルトラマンオメガ』はNARASAKIマジ? 枠。ぅち、deepersとか特撮好きでぇ、ウェヘヘ……ってもしかして「特撮」つながりオファー? んまぁ、オーケンの芝居がかった詩世界を立てる曲を作ってきたってことは、物語に添えるための劇伴をやるスキルも高いということなのかもしれない。いや別に特撮以外での仕事量ハンパないからそんなの関係ないと思うけど。あ、サウンドはめっちゃ味出ててサイコーです。「メビウス」ぶりにウルトラマン観てみようかな……ということで、識者として外海先生を招聘し、観ました。ウルトラマンに触れるのが爆裂久しぶりというのはあるが、特撮の様式美とそこから外れる試みとがよく出てて楽しかったです(日常回は登場人物を転がしてるだけなときもちょくちょくあるのだが、そこはむしろクソ漫画的な快感があって好きだった。「弱者だな〜!」)。あと外海とまとまった時間話せたのもよかったわ。歳の離れた人生停滞者の思いつきに付き合ってくれてありがとう!

6. V/R Converters "滄海桑田"(2025)


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インターネットミュージックナーズのみなさまにおかれましては、この1年Talich Helfenを聴き続けてきたことかと存じます。かくいうわたくしも、"クヴェールと貼箱"を聴いては「なんかすごくてワロタ」と呟き続ける1年を送ってきました。
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いやこの人マジでいろんなことできますよね、綿菓子かんろでもV/R Convertersでもそれ以外の仕事でも1つ1つテイスト違うし。ホームページ(notes | Talich Helfen Works)を見ると豊富なバックボーンが見えてきて面白い。そんなV/R Convertersが最近シングルをいっぱい出しているので、多分アルバムが出るんでしょうね。楽しみでおじゃる*51。(つか、「滄海桑田」っていう四字熟語なのね、知らなかった。)

7. 死んだ眼球 "眼球奇譚:前編-20世紀の終わり-"(2025)


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この前漫トロの人たちが旧劇の再上映を観にMOVIX京都まで足を運んでたんですけど、それを横目で見ながら「そういえば!」と思って聴いた。俺はたんにノイズポップ部分の快楽で気持ちよくなっただけなのだけど、他の文脈で見てもすごいかもしれない*52

8. Cocojoey "STARS"(2025)


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今年は全然新譜に触れることができなかったのだけど、そのなかだと一番好きかも*53。超快感(激浅)。ちゃんと感想を言うと、たんにハイクオリティのサイバーグラインドというか、インターネットっぽいエクストリームメタルだったらこんなに楽しめなかったと思う*54。むしろそこに結構な比率でブレンドされたポップさが耳に馴染むんですよね。現行のあからさまに凝ったポップス好きな人とか、ゲームミュージックチップチューン愛好くん/ちゃんの好みには刺さると思う。あとはPaleduskあたりが好きな人とか?
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てか今年ちょっと「ハンドラ」やったらこれ流れてきてワロタ。歌詞の内容はマッチしてたけど、どういう経緯?

9. 桜井圭介 "Is It Japan?"(1991)

ガビガビの画像しか落ちてねーんだが

ずーっっっと盛んに行われてきたオブスキュア国産音楽発掘・再発活動*55も「もうそろそろ」のフェーズに突入している気がしないでもないが、いまさら"Heisei No Oto"で"祓"を聴き、食らってしまった4周遅れくらいの人が俺だ。
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ちょうどリーズナブルな出品があったのでCDを購入してみたのだが、他の曲もすげーいいじゃねぇの。あまりに神仏習合で異端オリエンタルな感触*56が心地いい。いい買い物をしました。上の"祓"のほか、"南無観"は桜井本人がSoundCloudにアップロードしているので、ぜひ。仏ハウス(ダブルミーニング)。
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10. TESTSET "ALL HAZE"(2025)


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TESTSETの新譜。言うまでもなく、よい*57
TESTSETというと、経緯は忘れてしまったが、マツオに「こんなのあるよ」とやってみたら「こんなん聴いてるからEDになるんすよw」と言われたのを思い出す*58。いやTESTSETが好きな妙に滾ってるおじさんとかいるだろと思ったが、彼らはおじさんでかつTESTSETが好きだからずっと勃起しているような気もしてきた。マツオ、元気にしてるかな?

11. 小泉今日子 "KOIZUMI IN THE HOUSE"(1989)

ガビガビのさぁ

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キョンキョンって、カッケーんだ……という驚き。いやキョンキョンがなにかしらのカッコよさを備えているだろうというのはわかってたけど、こういう方向性もあったんすね、っていう。近田春夫がプロデュースと半数以上の曲を担当、小西康陽井上ヨシマサも参加していて、これも「へーっ」って感じ。クラブミュージックの聴きかたで十分楽しめるんだけど、このサウンドアイドルソングとしてもアリ(?)な感じ*59とが両立してるのがいいね。"マイクロWAVE"が特に好きです。レ ン ジデシンダ~レンジデシンダ~

12. Brad Mehldau "Jacob's Ladder"(2022)


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現代ジャズ全くシラーズ俺*60、なんかちょっとでも触れてみようかなの気持ちになったのだが、どう入るかっつーのがあるわけですよね。Brad Mehldauは間違いなくジャズピアニストなのだが、このアルバムではRush、Gentle Giant、Yes、Peripheryといったプログレ色の強いバンド群の名曲をカバーしている*61。Gentle Giantはまとまった量に触れたが、Yesはまぁまぁ、Rushはゼロ、Peripheryはそもそも知らなかった(ので1枚だけ聴きました、第一印象はかなりよかったです)くらいではあるものの、ジャズよりはプログレに馴染みがある身なので、こいつは俺とジャズを繋いでくれんじゃねーの? ということで一聴。結果は、まぁ、これはジャズのリスナーからすればまさに「ジャズ」ってわけではないんだろうなとは感じた一方で、こんだけデカくて歴史あるジャンルはすごい人と面白い曲で溢れているのだという期待を抱くには十分だったのも事実。正直ムズくてハワワワ〜なってる間に置いていかれるターンもめっちゃあったが*62、"Cogs in Cogs"がこんな風になるのか! みたいな驚き*63と、なにより直感的なレベルで魅力的な各曲のおかげで、振り落とされない絶妙な位置にとどまっていられた。いくら現代ジャズが多様性を見せているとはいえ流石に王道ではないアルバムだとは思うのだが*64、自分にとってはちょうどいい入り口になったとも思う。まぁ、ひとつずつですよね、西園先生*65

13. Metallica "St.Anger"(2005)


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今年はMetallicaを聴き直していた。その道中でめちゃカッケーとなったのがこちら。もちろん各フレーズとか曲全体、アルバム全体の作りもいいのだが、自分が特に気に入ったのはギターとドラムの音作り*66。ギターは自分が快感を感じるタイプのストーナーサウンドのなかではかなり理想に近い。そしてドラム。"St.Anger"といえば、で(特にリリース当初は槍玉に?)挙げられるのがこのカーンと響くスネアの音だが、これが今の自分には刺さった。聞こえかたが完全にインダストリアルロックのインダストリアル部分なのだ。そうなると他の音についても耳をインダストリアル的な方向にチューニングしてやればそう聞こえてくるわけで、そのモードに持っていければもうめちゃくちゃ気持ちいい。いやまぁ、"St.Anger"がインダストリアルだ、なんて多分何万回も言われてきたのだろう。というか永野が言ってたらしい。ただ、自分で身体と意識を特定の方向に向けることで聞こえかたが即変わるというトップダウンの音楽体験はそうあるわけではない*67ので、面白かったと言わせていただきます。


こんなところですかね。音楽まともに聴きはじめたのここ2、3年だから自分でもわかるくらいの不足が目立つね。でもやっぱひとつずつ積み重ねていくしかないわ。音楽に限らず、何かを始めるのが遅すぎたなと思うことが最近はすごく多いのだけど、それでもね。
そういえば、12月といえば各種サブスクサービスの年間レポートが出る時期ですよね。俺はなにしてたのかな〜。

おっ、当然そうなるよね。それより下は…………あれっ❓

🦁<おい……

😳<アナタハ……

🦁<お前、これだけダラダラ書いておいて、"ピンパンチューン"にはまったく触れていなかったな?

😥<ギクッ❗️

🦁<実はmoraで音源を買っているぶん、1位より聴いているにもかかわらず。そうだよな?

😰<ギクギクッ❗️

🦁<恥ずかしかったんじゃないのか? 夏焼先生、いや、ちぃの激キャワ萌え萌えボイス(とりわけラスサビの「ウ冠(王!)」)と、それを支える木ノ内先s、たおたおとのハーモニーに理屈抜きで萌えてしまうような衆愚である自分が。

😨<ギクギクギクゥ‼️

🦁<その欺瞞、私が裁いてみせよう。お前ははじめ、自分はモタキでもなければポタクでもないポタキだと言ったな? たしかにお前はモタキではない。しかし、ポタキでもない。

😥<ジャ、ジャア……

🦁<そして、お前はポタクですらない。

😮<エッ

🦁<お前は……

🤢<ドキドキ……


🦁<お前は、"ポタク"だ____
😱<イ、イヤァァァァァァァァァァ‼️*68


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*1:「復活」らしい。漫トロでいま最も復活すべきなのは俺なのだから、俺が書くものならなんでもテーマと合致するにちがいない。と思ったが本当に死の危険に瀕しているH氏が所属していた。じゃあどうしよっかなー。よし、この記事は漫トロにおいて失われたある伝統を復活させる儀式でもある、ということでどうぞよろしく。

*2:執筆途中で嘘だと気づいた。ラストにして最冗長のアドカになりました。

*3:ということで注に書きます。自分は漫トロのことをなぜか総合文化サークルだと思っている節があるので、自分の趣味(まぁ趣味と言ってもいいでしょう、許せない人は許さなくていい)である音楽の話もしたいのだが、入った当初から漫画アニメのオタクくんが多すぎてできなかったのだ。今でこそくさつとか新萬、ぼーずがたまーに、ごく稀によしはる先生が乗ってくれるが、漫トロ以外のコミュニティにほぼ属していないので欲求不満状態。友達いないのが悪いよなぁ。

*4:今後もこういう「知らなすぎてごめーん」を連発しており、自分でもダセーとは思うんだけど、でもこの態度を捨てるのもなんか違う感じがする。いったいどうすれば……こういうときこそ西園先生(後述)の様を思い出し、「よし、ひとつずつ」と思えばいいのかもしれない。

*5:こっすいことをやっているのは知っているが、アーティストフォロー機能と楽曲検索の精度、他人の作成した質の高いプレイリストへのアクセスのよさがあるので離れられない。とか書いてたら俺のプレイリストからCAN、Swans、Desire Mareaなどが消失していることに気づき卒倒。Spotifyくんさぁ……。いやまぁ買えよというのは正しい。正しいんだけど、お金ないの!

*6:なぜかというと、女の子って感じの声に快感を覚えないから。

*7:なぜかというと、男性キャラソンに詳しい人ってそこまで多くなさそうだなと思ったから。最近は調査活動をサボり気味。てかそもそも1000曲って少ない。関連して男性声優ソロ曲もちょっと聴いたが、よかったのはこのあたり。フランク・シナトラは関係あんのか?open.spotify.com

*8:今年リリースだとこちらも好み。趣味がわかりやすいね。ちな、「あんスタ」で一番好きな曲は"始まりのファンタジア"です。open.spotify.com「あんスタ」は「!!」のリリース時に始めて、「!」の全ストーリーと1.5部の途中くらいまで読んだあたりで「コンテンツ存続のために新たな問題が創出され続ける」という長寿番組あるあるに疲れて離れてしまった(要ってどうなったん?)。ストーリーはかなり面白いと思うんだけども。それでもせめて、という感じで曲だけはちゃんとチェックしているのだが、やっぱラビはいい曲多いっすね。まぁそれは「kawaii POPS」的ラベリングが可能なものであればなんでも入れられるユニットコンセプトの柔軟性によるところが大きいので、一概に優劣を言うものでもないのだけど……(こういうバランス感を考えるのもキャラソンを聴く楽しみのひとつ)。だからたとえばアンデとか紅月は作編曲の塩梅ムズそうだな〜とか思ってたのだが、今年の紅月はよかったです。特に次の曲。open.spotify.com最近(つってももはやまぁまぁ前)紅月に新メンバーが加入し、マジでリアルアイドルみてーな紛糾が発生していてワロタ状態にならせてもらった(「あんスタ」は人口が多いのも手伝ってファンの民度がしっかり低く、荒れるときは本当に荒れる。紅月はたぶん平和なほうだったんすけどね。)ところからのこれにはまぁまぁ驚いた。メンバー追加により否が応でもユニットコンセプトが変化するなら曲も変化させなければならないわけで、すると紅月が自身の曲で掲げてきた「和」の旗印にもなんらかの改変を施す必要が生まれてくる。その一歩としてもっともうまく機能していると思われるのが上の曲で、それは冒頭30秒ほど、曲構成的にはAメロ終わりまで聴いてもらえばなんとなくわかるかなと思う。和風感を維持しつつその外を見据え、かつ2次元男性アイドルの曲としても成立させようとしたときに、トライバルのエッセンスを取り入れてそこに和っぽい音を混ぜるアイデアは言われてみれば自然なものではあるのだが、"LOUDEST BUGS"ではそれがはっきりと表れていて、「和」というコンセプトとどう付き合っていくか、に対する新生紅月の方向性を(俺のようなもはや外野の人間でも)見出すことができる。このようにおニューな趣が強い楽曲ではあるのだが、サビになると目につくのは(完全に紅月っぽいわけではないにもかかわらず)これまでの紅月を念頭においてもさほど違和感を覚えないボーカルのメロディラインであり、これは10年のキャリア(!)で密かにさまざまな表情を見せてきた紅月のみなさんの歩みに負うところが大きいのではないかなと思います。誕生日とメガネをかけてるのだけ共通してるけどあとはすべて僕の上位互換である蓮巳敬人さんの今後ますますのご活躍を願っております。
ちなみに俺の好きなAメロ部は、(俺のマジ浅リスニング経験の範囲内では)和洋のブレンド具合だけでいうとWaqWaq Kingdomあたりに近いかな〜と思うけど(ホントかよ。あ、そういえば今年は日本民謡アイヌ音楽あたりにも入りやすいところからちょっとだけ触れました、安東ウメ子とかよかったです)、全体的な聴き心地は(全然畑違いだけど)ソロプロジェクト化以前のCharisma.comの一部の曲に通ずるものがある気がする(後者はフィーヤン的な感性もやりかた次第でひとつのスタイルになるんだなと教えてくれたありがたい存在。今年出た"METALLIC NEGATIVE"、好きです。)。open.spotify.com open.spotify.com

*9:半年ほどプレイしているが、どういうことなのか自分もよくわかっていない。

*10:まぁ、彼らは創作物からよくない影響を受けていた気もするが……。

*11:ついでに今となってはまぁまぁヤバめの状況でもある。

*12:原因は明らかに、英語学習より広いなにか特定の課題に関する西園氏の記憶力が、野生動物のそれと同水準に位置しているからだろう。この点で西園氏はかなり誤った自己理解を強制されており、被造物の宿命とはかくも残酷なものなのかと惻隠の情を表明せずにはいられない。英語はともかく、叙情的な日本語表現といった課題の達成水準には目を見張るものがあるのだけど……。

*13:こういう語りかたをするときはもちろん、西園氏がルックスや周囲の人間に恵まれていることを忘れてはいけないのだが、そういうのを捨象しなければならないときもある。とはいえ今回は、西園氏が周囲の人間に恵まれていることが非常に重要ではあるのだが。

*14:そう思わされたのは樋口美沙緒のストーリーテリングの力と、俺の気質がたまたま彼女の手癖とマッチした事実によるところが大きいだろう。ちなみに、『18TRIP』のメインストーリーにおいて樋口の手癖が最も色濃く現れているのは(といっても2択なのだが)おそらくシーズン1 Chapter 3であり、俺が最も楽しく読んだのはそれだった。來人さん書くの楽しかったやろなぁ。さらにちなみに、下宿の貧弱デスクの上にはガチャガチャで出すなどしたEv3nsのみなさんがいらっしゃるのだが、かなりキャワでアゲになれている。俺の人となりを知っている人からすると信じられないことだと思う。

会誌の画像挿入で培われた加工スキルがここで活きています。
おそとに連れまわすやつもやってみた。この言い回しに冷やかしの目線が混入しているのは明らかだが、さすがに没入はムリだよ!

*15:もし代える言葉があるとすれば、西園練牙は俺にとっての太陽だ。でも西園練牙にとっての太陽はさぁ……って、なんか増えてるんですけど⁉️

*16:文脈なかったら絶対好きな曲じゃないんだけど、"Shall we travel?"めっちゃ聴いてる、毎回「じ〜ん……😿」てなってます。 open.spotify.com

*17:代表例は叢雲先生と斜木先生と白光糖衣先生。教わるどころかどう向き合えばいいのかまったくわかっていない。叢雲先生と斜木先生は「この人はなにをしているの?」で済むからまだいいものの(最近、叢雲先生については中間管理職の観点から眺めればいいのかな、と思えてきた)、糖衣先生は現代カジュアルオタクの嫌なところの根源を抽象によって取り出したうえでなぜかそれに人の形をとらせて再度具体化するという意味不明な工程を経て作られたキャラクターであり、畏怖の念しか覚えない。実在した場合のアルバトリオンくらい怖い。あ、一応言っとくけどキャラのアンチとかではない。そもそもキャラのアンチっつーのがまったくわからない。どういうこと?

*18:漫トロで俺と付き合いがあった人は、俺がこの言葉を完全に肯定的な意味で使う重大さを理解できると思う。

*19:繰り返すが、漫トロで俺と付き合いがあった人は(略)

*20:これは『18TRIP』がその一部に抱える主題でもある。「凡庸さ」という俺が提示したキーワードに近い文脈で、大人になるとはいかなることか、というテーマがとりわけ前景に出てくるのが、昼班のリーダー・五十竹あく太(五十竹先生)を主役に据えたメインストーリーシーズン1 Chapter 2 、および、輝矢宗氏(先生とは呼ばない。あんまりなにも教えてくれないこと以上に、「むーちゃん」という非常に呼びやすいニックネームが作中に用意されているのが大きいと思われる(でもこれ俺が使っていいの?)。だが、「うーちゃん」である久楽間潮のことは「久楽間先生」と呼ぶことがある。)のフィーチャーイベントストーリー「リセット≠アストロノーツ」だといえる。「とりわけ」と書いたのは、以下に示したような大人になるための過程が『18TRIP』メインストーリーの根本にあるテーマと内在的に関係する(というかその一例である)ので、そこで焦点が当てられるキャラクターたちは多かれ少なかれ子供から大人へ変化することになるからだが、とりあえずは個別の物語への説明を与えておけばよいだろう。さて、高校生、つまり子供と大人の境目にいる彼らは、自らの力ではどうすることもできない外部に直面し、これまでそのような外部との対比抜きに自分の生に与えていた意味づけを、その意味を与える視点ごと変更せざるを得なくなる。結局彼らが取る選択は「それでもなお自分が世界に干渉できる存在であると信じる」というものなのだが、そこでは世界に対して行使できる自己の権能はいかんともしがたい外部との対比のもとでしか捉えられないものとして再定義されており、もはや彼らはそれ以前に信じていたような子供じみた全能性をまともに信じることはできない。そして、そうした対比を暗に前提したうえでなお自己を特権化する世界像の採用を宣言する際に彼らがしているのは、そうしなければ生きていけないという必要に駆られた人生の物語化であり、大人の綺麗事の創出であり、普通の意味での成長だ。もちろんそれだけの話ではないのだが、作中で高校生組によって駆動される物語は凡庸さへ埋没する悲劇、しかしある意味では喜ばしい悲劇なのだと思う。いやまぁ、こいつらフツーに非凡やねんけど……ウワーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!!………………
「なめしくん、こんなベラベラまくし立てちゃって、よっぽどこの話好きなんやろなぁ」と思ったかもしれないが、「リセット≠アストロノーツ」はともかく、メインストーリーの2章はちょっと乗り切れない部分がある。というのも、プレイヤーキャラである主任(プレイヤーキャラとは言ったものの、めちゃくちゃ自我を持っているのですぐに自分ではないとわかる。自分はデフォルトネームでプレイしてます。)が俺のー自分で言うのもなんだがかなり穿ったー読みにとってかなりノイズになっているからだ。主任はビックリするくらい純真人徳マンなので、「大人の綺麗事」に辟易した五十竹先生が別の綺麗事を創出するためのトリガーになったうえで、そのことをあんまりよくない方向性で隠蔽してしまう。というかそもそも自分がしたことがそういうことだったと理解していない。そのシーンにかぎらず、主任が物語の根本的に重要なポイントを覆い隠すように事態を要約してしまうケースが頻出するため、なんだかなぁとなってしまいがち。いやまぁ俺の読みと制作・ライター(ライチ〜(※))の意図がズレてるだけなんだろうし、キャラとしての主任は別に好きなんだけどね。かっとビングだぜ、オレ!(はいさい! の人も多いことでしょう。)

※:休養沢先生とライチ先生のツーマンセルのようなのでこのような表記は正確でない(統一名義だったらさらに申し訳ありません)のだが、そう書きたくなってしまったのでご容赦ください。

*21:すいません、注20の続きさせてもらっていいですか? 続きっつーか、『18TRIP』のストーリーにおけるメインテーマの話を脇に置いたのが自分で我慢ならなかったので、しますね。まぁ、キャラ解釈と伏線にご執心の方々以外にとっては、読めばわかるようなことではあるのだけど……でもでも、最近はキャラ解釈っちたちの読みから学ぶことも多い。自分が小説的な機微を読むのにそこまで長けていないのもあるが、キャラクター個人の心情は、物語のコンセプチュアルな部分を構成する重要な部分であるからだ。たとえば、VTuberの夏芽川アキ氏(夏芽川アキ / Natsumegawa Aki - YouTube)はキャラ読みを全部口に出してくれるので、ときたま参考にしています(※1)。あと元気あるのがいいわ。
 さて、まぁまぁな前置きを挟んだが、本題に入ろう。この注は本文2なので段落頭にスペース入れます。(すくなくともこれまでの)『18TRIP』の根底に横たわるテーマは、「完全に逃げきることは不可能な自己の文脈とどう付き合うか」だ。ここでいう「文脈」とは、自身の属する環境、所有する性質などなど、自分の外にあるものの総称であり、作中のキャラクターたちはそれらに囲まれ、ときに衝突し抑圧される一方、そこから恩恵を受けることもあるし、彼ら自身が他の誰かに対する文脈にもなりうる(かなり後追記:本文冒頭で引用した『18TRIP』のイントロダクションでは、俺の言う「文脈」は「荷物」と表現されている。旅に寄せすぎ。)。さて、上述の極めて俗世間的、俺の語法で言えば人生的な主題を抱えているからこそ『18TRIP』は今の俺に刺さったわけだが、ひょっとするとそれはたまたまのことであるかもしれない。というのも、そのような主題の描出は物語の中で結果的になされてしまうことも往々にしてあるだろうから。しかし、そのような認識はおそらく誤りだというのが、つまり、『18TRIP』はそもそも深部にそのようなテーマを持つものとして規定されているというのが、自分の主張だ。その傍証になるものとして挙げられるのが、旅というモチーフ、および、カセットテープに代表されるレトロな(過去を志向する)アイテム群だろう。旅はまさにそれを構成する移動という過程によって、レトロなアイテムはそれを通じた過去への、ときには憧憬を含む視線によって、人を自らが属する空間的・時間的文脈から切り離し、異なる思考へ連れ出す(※2)からだ。"Travel is more than the seeing of sights; it is a change that goes on, deep and permanent, in the ideas of living."というわけである。

他にもバリエーションあり
このような性質は先述した主題と呼応するものであり、自分の主張へ説得力を与える材料になると思われる。まぁ、『18TRIP』が捉える旅の一面性(自発的かつ緩やかな解放、俗っぽく言えば自分の見つめ直しになるようなものとしての旅の成立は、歴史的にはごくごく最近のことだろう)や、また作中で表現される過去への視線が(作中の時間軸は2055年だから)現在への視線でもあるという事態につきまとうやましさなど、若干安易で怪しいところがないわけでもないのだが……とはいえ、『18TRIP』はたんにそれらを用いてキャラクターを軛から解放しておしまい、という構造にはなっていない。旅は帰路によっても構成されるのであって、カセットテープは過去を志向するための踏み台であるだけでなく、今そこに吹き込まれる悲喜交々な人生の比喩なのだから。つまり、いったんその外からの視線を獲得したとしても、自分が背負う文脈にはまた戻ってこなければならないのだ。それでもやはり、彼らは自らの軛をいくらか緩める術を知ったのであって(※3)、それを梃子にできるならば、自己を変化させること、そして、文脈を受容し、また逆に作り替えることが可能になる。そのようにして、彼らはよりよい生を志向する……これが『18TRIP』の基本的な構造だ。いや〜、俺もよりよい生目指してぇ〜〜〜!! こんな話してたら全部自分の言葉で整理したくなってきた。機微読み・キャラ読みにも挑戦したいしね。ということで、プロローグとエピローグは飛ばしてキーストーリー全部に「そもそもどういう話なん?」に関係する簡単なコメントつけますね。みんなわかるくらいのことだから「ワイは読めてるで!」の人はイライラしながら読んでほしい。未読にわかるレベルの詳しさで書く労力は割いてないけど、一応ネタバレ注意。あと是々非々、いや是々々非くらいでやるので是々々々じゃないとダメな人も注意一発書きだからめっちゃ読みにくいし、書き手のテンションを上げるためにちょくちょく気取った文体のアクセルをベタ踏みしていてムカつく可能性があるのも注意。注に私見を書いてるときがかなりあるのでそこも注意(なぜ本文に入れられないんですか?)。挑発的な言動もちょくちょくするので注意。でも嫌いなキャラはいないからヨロ。あと人の感想などを参考にしたときはちゃんと典拠貼ります。そうじゃない場合は既出でも(まぁだいたい既出だろう)俺が勝手に考えたことなのでそこも注意。予防線貼るだけ貼ったし、やるぞ!

※1:これ書いてる途中に卯月コウが始めてたからそっちもちょっと見てた。Cr-Rのエロ絵くらいでしか知らねーから人自体ほぼ初見(そもそも黎明期より後に主流になった「VTuber」という形式自体が好きではないのでほぼ見ない)。キャラ読みというかオタク読みというか、とにかくみんながわかる偏見に乗るのが上手いですね(貶してるわけではない)。熱心なファンがいるのも頷ける。
※2:カセットテープには身体という文脈から脱するという意味も込められている。
※3:緩めるときに利用されるのは基本的にその人の持つ自律性であり、それはこれから物語を個別に振り返ることで明らかになると思う。ついでに言っておくと、自律性などを用いて軛を緩める際になされているのは世界を解するしかたの変更による世界への干渉でもあるのだが、この構造は、すでに手札にあるリソースを変えず、それらに魅力的なパッケージングを与えることで人を動かす観光業(ひいてはそうした一定の特徴を備えるビジネス群)のありかたと対応している。逆にいえば、そのような特徴を持つ観光業が題材だからこそ『18TRIP』はこうしたテーマ構成をとっているという面があり、それが俺の好きな独特の「自己啓発くささ」の一因でもある。

Chapter 1 Sun will R1ze!
 冒頭の就任式のスカッとジャパンっぷり、それに次ぐアホみたいな世界観開示に耐え抜くことができた(※4)なら、『18TRIP』のストーリーを楽しむ適性アリ。西園先生の偉大さは本文で説明したので、ここでは物語全体をざっくり。プレイヤーが最初に読むストーリーなこともあり、大筋は非常につかみやすいのではないかなと思う。HAMAツアーズでの活動を通じて、「西園練牙」という他者のコンテクストに接ぎ木された存在である西園先生が、ちょっとずつ肩肘張らない自分と向き合えるようになっていき、彼に照らされた朝班もまた徐々に変化していく……このような物語を介して描かれるのは、ツアーコンセプトにも表れているような「人は文脈における機能によって定義されるのではない」という人間観、だからこそ自分の本性と適切に向きあわなければならないという教訓、そして、それを経ることで夜は明け、明日がやってくるという希望だ。そのストーリーテリングの中心にいるのは徹頭徹尾西園先生なのだから、俺のような弟子は彼の足跡を簡単に振り返っておかねばならないだろう。
これ即興で出せるやつがCの次Eって言うわけなさすぎる
 西園先生が抱えていた問題とは、有り体に言ってしまえば次のようなものだろう。ストリートチルドレン(※5)のレンが「ふたりでひとつ」の存在であるキバと出会い、優秀な彼と入れ替わってしまったこと。もちろん、それ自体は悪いことではない。そこで創出された新たな文脈によって、彼は生い立ちに由来する文脈からしばし離れることが可能になったのだから(※6)。しかし西園先生を悩ませているのは、彼にとって地上のすべてを照らし尽くす太陽であったキバとのギャップだった。植え替え先の「西園練牙」を全うしようとするあまり、西園先生は素直な自分を表に出すことができずに空回りしてしまい、そのために周囲との関係が破綻し、もっとうまくいかなくなる。だからこそ、彼は西園家の外、つまりHAMAツアーズに身を置く必要があったのだ。KOBE(※7)への研修旅行において西園先生は、主任との会話、続く真実の開示によって、情けなさも織り込まれた本当の自分を他人に見せることができるようになる。それが可能になったのは、主任や亡き祖母に、本当の自分を受け入れてもらえたからだ(※8)。撒かれただけの種に真摯に水をやることで、それはいつか見るものを照らすきんいろのバラ(※9)になる。この変化を機に、西園先生はもう後悔しないように、かりそめにこだわりすぎずに前を向く。その陽光が、各々の文脈に囚われているがゆえに共通の目標に向かって団結しきれなかったR1zeのメンバーをときほぐす、これがSideBでなされたことだろう(※10)。
 すべてを注に回した結果えげついダイジェストになったが、基本構造を適用する(抽出元に適用するという変なことをやっている)シンプルな文章にしたという意味ではいいかもしれない。マジで普通に書いてるとこんなんなっちゃうんだよな。これ、示唆か? 西園先生〜(つД`)ノ いやほんとに西園先生はすごいですよ。もちろん人のいいところを見つける能力が高すぎる主任が彼の素直なところを認めてくれたからこそというのはあるけどさ、そもそもその素直さが眩しくて眩しくて……く〜〜〜〜〜〜っっっ!!!!

※4:最初が一番苦しいので、頑張って乗り越えてください。てかSideAのTrack14マジで笑える。みなーものおもてなしを見た西園先生が「客に媚びるような真似できない」と強情な態度をとって礼光おねーちゃん(あんまりそんな感じもしないけどそう呼んでいます)と大黒先生にボコされる回なのだが、描かれかたとは裏腹に媚びなのは明らかなのがすごい。おかしいことが正しいことになっている系おもしろとしては今年触れた創作物のなかでも結構上のほうでしたね。でも俺が今やってることって、「よその街を貶してる」ってやつですか?
こんなふうに威張ってでもないと、もう、どう生きていいのか、わかんねえ……。
※5:30年後の日本、普通にあんまよくないらしい。そりゃそうか。
※6:この入れ替わりをキバの目線で見ると話は逆になる。レンとの入れ替わりは、西園家という今世で接ぎ木されたコンテクストをキバが捨て去り、宿縁というあまりに強固な元来のコンテクストに回帰する行為だから。いやまぁこれ書いてる時点ではキバっちの情報不足しすぎててなんとも言えんのだけどね。っておいおいおい……(イベント予告チラー)
※7:HAMAベンチマークとしてのKOBEとは、当然西園先生の目標としてのキバだ。そしてここで重要なのは、そっくりそのまま同じ街などひとつとしてないということ。もちろん完全に独立して存在する必要はない。西園先生にとってはKOBEも第二の(実際には第三の?)ふるさとであり、そこに赴いたことで自分を見直すことができたわけでね。しかしそれでも、最終的にはHAMAHAMAで、KOBEはKOBEで、各々に特有な事情のもとやっていくしかないのもまた事実だろう。
※8:自分の場所ではないところで、本当の自分が受容される____『18TRIP』全体を通じて反復される出来事だが、先述したこの作品の基本的な構図を思い返してもらえば、このようなことはまさに旅先でしかなしえない、ということになる。旅に出る前の硬直した文脈のもとでは、そもそも適切な自己開示に委縮という妨害が入るうえ、周囲も普段のモードからの転換という難題を抱えることになってしまうからだ。また、SideBで明らかになったように、パパーや伶花サマーは西園先生が接ぎ木であることを知りながらも彼によくしてくれていたわけだが、背景に高次の真実を見るがゆえにかりそめをも受け入れる、という姿勢は頻出するので覚えておかなくてはならないし、接ぎ木された先の文脈に属する人々からの想いはその人をそこに繋ぎとめる「重さ」であることにも注意しなければならない。
※9:西園先生は朝班にとっての太陽だとも言われるし実際そうなのだが、どっちかといえばバラだなと思う。というのも、『18TRIP』の世界には(まだ?)彼が照らし尽くすことのできない闇もあるからだ。その役割は主に雷雲組が担っているわけだが(追記:おい、太陽おるやんけ……)、そもそも闇を照らし尽くすというありかた自体、このゲームの基本思想からすれば拒否されるべきものである気もする。ちなみにバラにかこつけてもうちょっと話しておきたいことがある。R1zeの物語が夜明けの物語である以上、メインストーリーは1章→…→4章→1章の循環構成になっている面もあると見るべきだが、4→1の意味は1章に凪っちが登場し、西園先生に花との付き合いかたを教える場面が存在する点に集約される。ここで注目すべきなのは、外部(=文脈)の意味づけ機構と自分との調整弁になる花というアイテム(これについては4章で触れる)、そしてそれが人に渡されるとき、往々にして花は根本から切断されているという事実だろう。
※10:西園先生が他のメンバーの文脈を弛緩させるくだりはあめゆきサンド、特に西園先生が利用したのとまったく同じロジックが適用される大黒先生についてはわかりやすいのだが、雷雲のほうは本当にとっかかり程度でしかなく、ま、今後ということで。(追記:今後もなにもさぁ!)

Chapter 2 Bitter Sweet Sixteen
 実はメインストーリーの感想は3,4,1,2の順番で書いてて、かなり息切れ気味なんですけどぉ(※11)……なるべく頑張ります……。
 前注(といってもはるか昔のことだが)で述べたように、自分はどうしてもこの2章を「子供が大人になるまでの過渡期に、子供の子供性を認める物語」としては読めないのだが、いったんそれは忘れて、物語の筋を追ってみよう。昼班として集められた高校生(観光区長なぞやらすな!)5人には、共通の特徴が2つある。それは、過去の出来事に由来する傷を抱えているために、他者(とりわけ大人、ひいては世界)に対して壁を作ってしまうということ、そして、ある晩たまたま居合わせた旧校舎で見つけた謎の卵という彼らだけの秘密を共有していること。研修旅行では、そんな5人に対して周囲の大人(主に主任、たまーに朔ちゃん先生)がアプローチすることでストーリーが展開される。まぁ基本主任なのでそこに目を向けると、彼/彼女のアプローチとは要するに、高校生sが1歩踏み出すのを躊躇してしまう理由である「自分をさらけ出すことで傷ついてしまうかもしれないという恐怖」ー人との摩擦に慣れきっていない子供の苦悩ーを認めながらも、その苦悩込みの自分を愛するという選択肢を示すことで背中を押す、というものだった。その甲斐(と最初の理解者である五十竹先生の熱量)もあって、彼らは研修旅行の最終目的である夏祭りの成功に向けてモチベーションを獲得するのだが、当日の天気は雨☔️😭。理不尽に対して壁を作ることで対処してきた子供達は当然「未完成のものを見せることにならなくてよかった」といった不健全な合理化を開始してしまい、それに対して主任は「もし中止になってもみんなのやってきたことは無駄にならない」と励まそうとする……がしかし、そこで待ったがかかる。「うまくいかなくても時間の無駄じゃないとか、無念をバネに次に行くとか イイ思い出が俺のためになる──とか。そーいうのオレ、シガナイって感じがするんだ」驚異的に楽観的な銀河的映画監督(予定)・五十竹先生(※12)による、瞬間を拒否する「大人の論理」へのレジスタンスは成就した。どうやって? ____5人の秘密である卵が空へ打ち上げられ、砕け散ったそれが雲を晴らす、そんな青春のマジックによって。
30年後の小豆島ってデカい祭りとか開けんの? と思ってググったところ、国立社会保障・人口問題研究所の推計では高齢化率のピークはちょうど2055年らしい(推計が5年刻みなだけなのだが)
 爆散した卵。宇宙からやってきた外部であり子供たちの秘密。そして五十竹先生にとっては「トクベツのショーメイ」、だから主人公が逆転するための映画的伏線。しかしそれは、人生が本当に映画だったならば、の話だ。卵を失い世界の「真実」と出会うとき、つまり人生は映画ではなくて、自分はたいした中身なんて持ってない空っぽの人間で、主人公なんかじゃなくて、だから淋しさを埋めてくれる他者と出会うなんてありえない、という認識と出会うとき、自分を騙すためにストーリー曲線を信じていた五十竹先生の心は決壊してしまう。ここちゃんと悲しいです。俺も空っぽだからサ……。しかしながら主任によって、その「真実」は虚構だと喝破される。なにが間違いなのかといえば、五十竹先生が空っぽで、ひとりぼっちだということだ。そもそも彼の苦悩とは他人からの根源的な承認を得られないのではないかという不安にあるのだから、そこで必要になるのはプリミティヴな承認である。だからこそ主任は、映画の主人公のようにどんな時でも諦めない五十竹先生を周りの人は信じている、どうしても自分を信じられないならそう信じている自分たちを、みんなとやり遂げた経験(※13)を信じて、そう言わなければならなかった。
俺にも同じこと言えるか?(言えるんやろなぁ……)
 かくして五十竹先生は完全復活。昼班の5人は「無理に大人ぶってやりたいことを諦めるのは子どものすることじゃない」(※14)という認識に達し、これでだいたい解決である。しかし(ここまでやったのはたんなる要約にすぎないので)最後に、実は爆散していなかった卵に「もうお前がいなくても大丈夫だった」と別れを告げる五十竹先生について触れておこう。卵がなくても大丈夫なのはもちろん、彼が小豆島で卵に託していたストーリー曲線といま持ちあわせているそれとが本質的に異なることに由来する。前者は「自分が、経験も自信もない、何者でもない子供である」という事実から目を背けるために採用された自己欺瞞であるのに対し、後者はさまざまな手段を通して自己の輪郭を確かめる(※15)ことによってその事実が受け止められたうえで、それでもなお掴みとられる主体性の表現だからだ。そしてまた、後者は前者とちがって、極端に刹那的であるわけでもない。いま、五十竹先生の自信の根源は、仲間と一緒に一歩を踏み出したこの夏というきたるべき過去にあり、その経験が自己確証の根拠になる。仲間との絆も、彼らと過ごした時間も蓄積する。ちょうど、「24枚の写真が1秒の動画んなって、1秒が90分の映画になるみてーに」(※16)。あたかも映画であるかのように人生を生きる、このありかたを主体的に選択する、つまり自覚的にactorになるならば、いつの間にか心の隙間に入り込む嘘へ自信を外部委託する必要などない。だから、卵はもういらない(※17)。小豆島からファーストツアーに至るまでの一連のプロセスにおいてなされていたのは、「子供から大人になる道ゆきのなかで適切に子供らしさを保持する」(※18)という結論は保持したまま、それを獲得する過程を正当で健全なものに移し替える作業だったといえる。時間が進み、見て見ぬふりをしてきたものと出会う。これはしかたのないことだろう。Day2が(その名づけにおいても)実行したのは、そのような事態と直面したときに子供たちがとりうる戦略のひとつだった。
 なんかモニョるとは言ったけど読み返したらしっかり面白かったっす。俺もう24(誕生日一緒なのでマジで百目鬼先生とタメの状態にある)なのにもかかわらずいまさら時間が進んで見て見ぬふりをしてきたものと出会い続けてて、でもこいつらは俺より8年も早くそこで戦ってて偉すぎるわ。てか大学入ったあたりから男子高校生が(リアルもキャラも)めっちゃかわいく見えるようになってさぁ、それの最たる例という感じもするね。でも斜木先生はやっぱあんまわからんわ。かわいいより「おもろw」が勝っちゃう。
特に仲良くはなかった高校の同級生がホームステイから帰ってきた途端「OH MY GOSH!」と大声で連呼するようになったのを思い出す
 あと、このあたりでみんな気になりはじめると思うんだけど、このゲーム法定速度を守って走行することに並々ならぬ情熱を注いでるよねコンプラ的に見ればもっと重大なやつ(現代においてある程度穏当であるとされそうな国家理念を想定した場合アウトっぽい、など)あると思うんだけど、走行速度描写って結構怖いんかな?

※11:1章が短いのは疲れているからではなくシンプルだから。あと俺が西園先生に入れこみすぎて分析的に見る目が超絶曇ってしまうから。
※12:驚異的に楽観的なのはそれはそれで問題なのだが、そのことを問題にする見地を獲得するためにはもう少し先、「ニュー・シネマ・ダイナソーズ」まで待たなければならない。ちな、まぁまぁ先。
※13:五十竹先生がここまで頼みの綱にしてきたものは卵とあの夜旧校舎で撮影した映像だったが、両者はともに、卵そのものの秘密であると同時に昼班の仲間たちとの秘密でもあった。その時点で、彼が欲していたものはなんだったのか、そして物語が充足されるためになにが必要だったかは予告されていたのかもしれない。そんなことない? うーん、そうかも。ちなむと、ここでの主任の信頼は五十竹先生の出力する様態に依存するものになっている(斜木先生がよくわからん惚れかたをするシーンでも「『七基くんの才能』のことを」と言っている)が、言葉を用いた会話と少し距離をとったアウトプットによって世界と関わるのが昼班であることを鑑みればこれは当然。これに対し言葉の機能と向きあうことで世界と交わるのが夜班なのだが(後述)、両班とも自分のアウトプットを他者や世界との間に差し込むという点は共通している(そのなかにあって「アポトーシス」の琉衣先生は異質)。
※14:これ率先して言うのがウチャーンなのはフツーにヒジョーにアツイ。でも直後のG.O.A.Tのくだり何回読んでも爆笑しちゃうんだけど。マジでなにこれ?
やりとりの剥製
※15:しかし、卵を映画的伏線だと無邪気に信じていたあの頃から、ストーリー曲線は自己欺瞞だったのだろうか? ということは問題にできるかもしれない。また、ここでも高校生たちがそれぞれ備える一芸が役に立っている。零芸の俺としては羨ましいかぎり。
※16:しかるべき刹那の拒否、他人との対称性の確保(あとは子供と大人の繋ぎ目)といった課題は、2章と3章を架橋するための素材になる。
※17:しかしながら、自己充足的な態度に到達するためには卵を持っていたあの頃も必要だった。卵とはある側面において彼らの抱える嘘や傷や痛みでもあり、それを外に向けて放ち、共有したからこそ彼らは世界との紐帯を獲得した(ここにも創作活動とのアナロジーが成り立つ)。ただ、そのような苦悩は卵というアイテムを基準に定義されるべきではなかった、というだけのことである。一応注意を促しておくと、嘘や傷や痛みをすべて共有する必要はない。(かなり後追記)五十竹先生の苦しみは生の自分と世界を接合することができない点にあり、だから卵という中継地点が用意されなくてはならなかったのだが、2章が終わった後もその点は変わらない。2章でなされたのは、生の自分(これも明晰に把握されるはずはないものではある)と世界との間に「主体的に主体的な生を演じる自分」という媒介項を挿入し、それまでそこにいた卵を別の場所にどかす、という作業。
※18:ここで、いったん忘れておいた視点を思い出そう。五十竹先生が獲得した見地は本当に過渡期の子供らしいものだろうか? 自分が主人公であると信じ、諦めずに前に進むという見かけに注目するなら、答えはイエス。しかし、その信念の形成過程に注目するなら、答えはノー、すくなくとも単純なイエスではない、というのが俺の見立て。決してやさしくはない世界と真剣に向きあった結果選ばれた自分のありかたは、先に述べたように「あたかも」のレイヤーを伴ったものだった(※77も参照)。だからそこにはほんの少しの嘘、というよりは嘘を嘘にしないための覚悟が含まれているわけだが、そのような世界像を自らの生のために意識的に作りあげる行為は、大人への決定的な移行を含み込んでいやしないか? すくなくともそれは、大人びたありかたと明確に切り分けられた「子供による子供の綺麗事」などではない「大人による子供の綺麗事」であり、そのややこしい様相をもってして彼(ら)は過渡期と評されなければならないのではないか? これが大昔の前注で言いたかったこと。
文字すぎて画面がもたないと思ったので好きな高校生シーンを投入。俺もこれ浴びたい人生だった。

Chapter 3 Chained up Scarlet
 愛/憎しみ・生/死・本当/嘘・善/悪・完全/不完全・肯定/否定・正しさ/間違い・接続/非接続・赦し/罪……3章を読んだ人ならみな、これらの概念たちによる重奏を聴き取るにちがいない。彼らは個別に眺めればごく単純な対立軸にすぎないが、ここではかならず、それぞれの軸における対立はなめらかに捉えられねばならないし、軸同士の混じり合いも注視しなければならない。それはもちろん、夕景が昼と夜とのアマルガムだからであり、これが夕班・Ev3nsの物語だからだ……ごめん好きなストーリーだからカッコつけたわ。これで走り切るカロリーヤバいから普通にやる。ただまぁ、3章のプロットを捉えるうえで、上記の対立群の重層的構造、およびそれに目を向けるキャラクターたちの視座がもっとも肝要であることに疑いの余地はない。夕暮れ、つまり昼が夜に移ろいゆくその時間は、光も闇も完全には知らないEv3nsの5人が、揺らぎを含む絶妙な均衡をそれぞれで発見し、選びとり、ある意味で対等(Even)になるありさまに符合するのだから。しかし本文、いやここ注か、注の本文のうちでストレートに対立軸を拾い切る、各キャラに個別の説明を与える等々は俺の力量では難しいので、そのあたりは適宜無視したり、注の注に譲ったりすることにします。読みづらそ〜!
 3章はとりわけ、区長たちのバックグラウンドを確認しておく必要がある。なんといっても今回のテーマのひとつは対等であり、個人に付与された属性は、ときにその実現を妨げてしまうからだ。はい、まずこいつら、全員収監されている。えー、そのままで行政には関与しないでください、と言いたくなるし別に言うんだが、このような見かたは一定の妥当性を有しこそすれ、その人を曇りなき目で見つめるという目的とは衝突しうるものであり、本当/嘘という軸、ひいては根幹の主題にとって有効な(とはいえ牛刀で鶏を割くような)要素だといえる。次にこいつら、HAMAのご当地アイドルをやる。ワロタ。バカか? と言いたくなるし別に言うし、これは真面目にバカな可能性も濃厚。後述。
龍が如く7』でこの理屈が通用したのは、「龍が如く」だったからですよ
まぁとにかく、この2要素に一般的な価値ラベルを貼り付けるなら、マイナスとプラス、といった感じだろう。そのようなものが組み合わされてまぜこぜになっている、その様子が大事。そしたら次は、どこに目をつければよさそうかを吟味してみよう。まぁEv3nsだからね、対称/非対称でいこう。というわけで、ストーリー開始時点で各キャラクターが何とどのように非対称な関係に立っているのかに着目して話を進めることにする。
 まず來人さん。3章の主役(※19)である彼がいかに周囲と非対称な関係にあるか、これを見てとるのはたやすい。彼は生来人を性愛の対象とすることができず、28歳で死ぬと予言されたがゆえに時間を持つ人間に劣等感と罪悪感(実はこれはアンビバレントな事態なのだが)を抱き、心の奥底で見下してしまう。そしてまた重要なのは、このような自分-他者の非対称性のほかに、來人さんは時点間の非対称性も抱えている、という事実だ。具体的には、現在が過去と未来に優越するという非対称性。その非対称性の根拠は当然、幸福な表情を見せながら死ぬと確定している点に求められる。人生の終わりが幸福であると定められているのならば、そこに至る道としての現在の行為は遡及的に正当化されえてしまう。これはつまり、彼の見せる刹那的なふるまいにお墨付きが与えられてしまうということだろう。次に夏焼先生。家庭と芸能界の双方で、生きるために仮面を被り続けなかった彼(夏焼先生のこと「彼」って言うのめっちゃドキドキするわ)は、素の自分として他者に相対することができないという意味で非対称。そして木ノ内先生は、彼のもともといた時代では親からの扱いにおいて弟と非対称であり、タイムトラベルしたのちは世界との紐帯を欠いているために他者と決定的に異なる。きにゃりはアンドロイドであるがゆえに人間と同じになることに困難を抱えるとともに、開発者との間にある父子関係において非対称性を引き受けざるをえない。そして特異点である百目鬼先生は、意図的に人類にとって非対称的な関係に立とうとする存在だ(※20)。超箇条書き1終わり。
 さて、彼らの持つ非対称性は、先に述べた本当/嘘という軸に含有される欺瞞性、偽物性と関連している。人を愛せず、刹那的に生きることしかできない來人さんは、そのときどきでは裏表のない完璧な人物に見えるのに、時間が経てばそのときを切り捨てて忘れ去ってしまうし、それを駆動する自己の矛盾した心性から無意識に目をそらすという自己欺瞞に塗れている。また、夏焼先生と木ノ内先生は本当のことを開示したときのリスクを避けるために嘘をつき仮面を被らざるをえない。きにゃりには人間のフェイクという身分がどうしてもついてまわり、百目鬼先生はそもそも欺瞞をベースにしているわけだ。超箇条書き2終わり。百目鬼先生以外の4人は明確にこの欺瞞性、それと結びつく非対称性に苦悩するのだが、しかし、いかにしてこの苦境に克服の可能性を見出しうるのか? 論点はもちろんそこに移行する。が、流石に画面が寂しいので激萌えスチル貼りますね。
こやつらマジでかわいすぎるのですが?
 まず、どのような経路でこの問題が発生するのかを見てとるために、來人さんの自己認識を取り上げてみよう。彼は自分を「夜を知らずに死ぬカゲロウ」だと表現するが、ここでの「夜」とはもちろん愛であり、死と緊密に結びつかない生である。そしてまた、カゲロウという自認は諦念の現れでもある。夜を知れずに死ぬカゲロウにしかなれないのならば、いっそ昼に没頭してしまえ、かなり圧縮的ではあるが、來人さんの刹那的な行為選択はこのように捉えることができる。しかし、そのようなロジックで導き出された來人さんの生きかたは、上述の通り他人から見て(昼のような生としても)不適切なものだ。それはなぜか? このように言えるかもしれない。昼と夜とは互いに互いを規定しあうものである以上、夜を知らなければ、昼を十分に知ることもできないのだ、と。この点が、3章に通底する問題に対処するための鍵になる。
 そうなれば次は、作中で実際に遂行された対処のプロセスを観察するべきだろう。ここではストーリーの時系列に従って、Ev3nsのなかで最初に(当座の)対等な関係を獲得した夏焼先生と木ノ内先生に目を向けてみよう。2人がどのようにそのような状態に至ったかといえば、それはもちろん過去の傷という秘密の共有=嘘の解除によってだ。ここでなされているのは、欠落や嘘に代表されるような自らの内にある宵闇を広げて見せ、そして同時に、自らを取り巻く正負の価値の両面にひとしなみな視線を注ぐ営為にちがいない。ここでは、ネガティヴなものは棄却されるどころか、問題に向き合うために必要不可欠な要素である(百目鬼先生の露悪的な作為・開発者による非対称的な関係に基づいたきにゃりの停止意志の阻止(※21)がなければ、Ev3nsはあの結末に辿り着きえなかった事実を思い起こしてほしい)。あたたかな陽光と肌を刺す夜風とを等しく考慮に入れる眺望の確保。アホ箇条書きは散々やったのでむやみやたらに例示することはもうしないが、ポジとネガ双方を見つめる態度の獲得とそれによる事態の改善は3章を通じて描かれている。そもそも百目鬼先生がEv3nsに所属していること、さらには(他の3人と同様に)きにゃりの自己形成の一端に寄与すること自体がそれを象徴しているのだが、ここではやはり來人さんを重要な例として提示しよう。愛したいのに愛せない。來人さんの苦しみを解消するために貢献したのは、彼が百目鬼先生に自己欺瞞という罪を言い渡されたのちに導入される、「愛」と並び称される心の動き(去年のアドカで『極東ネクロマンス』レビューをしたが、なんか通じてますね)が実に多様であるという事実だった。直接的には主任やなゆーき、百目鬼先生が來人さんに示したように、この世界には彼が到達しえない性愛だけでなく友情に基づく愛も存在するし、怒りや憎しみといったそれ自体はネガティヴともいえる感情も愛の発露でありうる。グラデーションとして存在するさまざまな愛に目を向け、自分もそのなめらかな移ろいのどこかに属すると考えることで、來人さんは自他を分けるための「愛の有無」という基準を取り下げることになる。そして、人を愛せるかどうかは彼の刹那的な生きかたともリンクしていたのだから、現在を特権化する態度にも若干の緩和が生ずることになったわけだ。
 愛〜憎しみ、過去〜未来……といったグラデーションの各点を対等に見据えることが3章を貫いていることは(舌足らずながら)伝わったのではないかと思うが、しかし、「怒りや憎しみ……も愛の発露でありうる」と言われるときの「愛」とはなにか? そう考えれば、3章の根本にあるテーゼを掴むためのピースは揃う。最も注目に値するのは、そのグラデーションのうちどこを選択するか、が相対的には些事であるにすぎない点だ。その理由を「もしそうじゃなかったら百目鬼先生は普通に死刑にされているはずだから」とか言ってみることもできるが、説明するにあたって最も適切なのは夏焼先生と木ノ内先生が和解する場面であろう。夏焼先生が自己防衛のために作り出した"ちぃ"という仮面もまた夏焼先生である、と木ノ内先生は言う。
鉢植え〜和解までのくだりずっとニコニコで読んでます
ここで述べられているのは、"ちぃ"という虚と夏焼千弥という実をないまぜにした末に生まれる不確定な未来の選択だ。さらに言えば、これは虚実とそのあわいをフラットに把握したうえで、その幅のうちにあるどこかの帯域を、自分が当の選択の源泉であると納得できるかたちで選び取ることにちがいない。そのような態度に、もともとの虚実とは別の一段メタな真正性が見出される。真に重要であるのはそちらだからこそ木ノ内先生の発言は成立するのであり、百目鬼先生の「ある意味では全人類を愛している」という自己認識が妥当かつ正当なものでありうる。つまり「愛」とは、「肯定的なもの〜否定的なもの」というグラデーションのどこかを選択するその人の働きのうちに見出される高次の肯定、その一例だったのだ。
 さて、ここまで素描してきたのは、主に一対一の関係が高次の本当を獲得する過程と、その根底で支えとなっている対等性のアイデアだったわけだが、この図式はご当地アイドルEv3nsの成長物語というマクロの次元にもある程度符合する。当の図式を利用することで(キャラクターごとに程度の差はあるにせよ)「本当の居場所」として成立したEv3nsがその輪をファンとの間にも広げるにあたって利用されるのは、傷をも隠さずに生きざまを切り売りするという当初示されたEv3nsのコンセプトとそれに即したイベントの系列であり、メンバーが当の図式を利用して自身の問題に取り組む際にたびたび現れる「少しずつ」という(これまたグラデーションとして表現できる)アイデアは、「小さなハコから大きなハコへ」に象徴される、草の根アイドル活動の発展と協働的なものでもあるからだ(※22)。來人さんが最初から横浜アリーナを使おうとしたのは、そのときの彼が問題解決のアプローチに致命的な錯誤を抱えていたことの表現だったわけである。
來人さんはジト目で諭してもらえて羨ましいなぁ
 各論的に述べるべきことはまだまだあるうえ本筋も説明不足と言わざるをえない状態ではあるのだが(※23)、そろそろ締めよう。はじめに示唆したように、Ev3nsの物語は二極がなめらかに接続された対立軸の輻輳、さらにはそれらを対等に眺め自ら選び取るメタな態度の肯定によって全体がかたちづくられており、それはちょうど、昼も夜も包み込む真玉海岸の夕焼けと、それを彼らなりの視座から捉えて未来を生きてゆくEv3nsとパラレルなものとして存在している。俺は3章を読んでいると心が真に動かされつつも、要所要所で心の底から冷ややかな視線を浴びせたくなってしまうのだけど、こういう自分のありかた自体が3章の構造と同じなんですよね。自分の中にある没入/俯瞰と同型の対立図式を物語に見出すことそれ自体に没入する、みたいな運動が起こってて、俺にとって重要なストーリーだなと思わせてくれる。いや〜でも夕班みんなキャラとしてかなり好きだし、緻密なテーマ描出とは裏腹に設定と展開の作りかためっちゃ大味なのも込みでこの話マジ好きやわ〜。

※19:もちろん、彼はこの物語の主軸ではあるのだが、主役であるかには議論の余地がある。なぜか。後述する内容に関係するが、3章はひとつの中心点を特権化するような見かたを拒否する傾向がとりわけ強いからであり、「アイドルユニット」というコンセプトにも、中心を強調する視点を拒絶する面があるからでもある。
※20:百目鬼先生個人にガッツリ触れることは(3章の範囲内では)今後できそうにないのでここでちょっとだけ。実につかみどころのないキャラクターではあるものの、百目鬼先生の軌跡は信仰と回心の旅になぞらえることもできるだろう。神童だった自分を特別扱いせず、画一化されていない、正しさも誤りもないまぜになった演奏の楽しみ(両者を等しく扱い楽しむ態度こそが高次の正しさである、と記すことで3章全体の論旨を予示しておこう)を教えてくれたにもかかわらず、現在を特権化する態度によって自分をいっとき忘却した來人さん。奏でるその音色に心酔し、互いに互いを理解しあったように思われたフレデリクの死、腕の喪失、楽譜の贈答……彼の人生は、人類の生み出した究極の非対称関係であるところの信仰、神と世界からの背理、それに次ぐ回心の連続であるともいえるのだ。最終的に百目鬼先生は、明確な意図のもとで欺瞞を働き信仰を集める神、人類と最も非対称な関係に立つ偽りの神になることを志向する。自らを裏切った神と世界に対する絶望を原動力に、欺く神を自ら再演するという復讐のアイロニー偽物の手でトランプを繰るようなこのありかたが百目鬼先生の一面として存在するにもかかわらず、彼は究極的に裏切りの神ではありえない。なぜならばその欺瞞は、欺瞞への誠実さという基盤を備えているから。3章の理解にとって決定的に重要なのは、彼が「騙すつもりで」騙していることであり、義手という偽物はそれでも「彼の」手であることだろう。とはいえ、もはや完全に失われた本物の手に与えられた温もりも、彼の生をいまだ規定し続けてはいるのだが……。
ここだいすき!
それはそうと、(好きなキャラだから、なんかニヤけ面が面白いから(「聖夜の逢瀬」トリレボ前の顔マジで好き)という理由で)俺はゲーム内名刺のアイコンに百目鬼先生を置いているので、たまに百目鬼先生推しらしき人からフレンド申請が来る。それ自体はすごくありがたいことなのだが、ひとことを「あの〜、すみません、mihimaru GTのモノマネさせてもらってもいいですか?」にしているので、少し申し訳なさもある(mihimaru GTの前はマシュ・キリエライトだった)。
紆余曲折経て、現在はエイトリ民にFredrik Thordendal(ひいてはMeshuggah, Mats/Morgan)を布教しようとしている
さらにさらに、ひとことで思い出したのだが、凪っち好きっぽい人って高確率でひとことの欄でチョけてますよね。キャラとの親和性というやつかと思っていたのだけど、凪っちのプロフ全部開けて「あっ……」ってなっちゃいました。もし無理してやっているなら、健康に悪いのでやめましょう。
※21:誠実な意志決定の結果としての生の強要によって、開発者ときにゃりの関係は父子のそれに転じた。非対称性という闇が闇であるにもかかわらず必要とされることを呈示する役割は、現時点では特にスクラップ協定の2人が担っているといえるだろう。ちなみに、主任と開発者の音声を確認したという出来事は2人にとっての秘密であり、これは「ココロの砂像」および作品全体に持ち越される関係性だ(主任/大黒先生、來人さん/百目鬼先生などを想起してほしい)。
※22:ただ、一対一の対等を実現するために用いられた論理がアイドルとファンの関係までなめらかに敷衍できるのか、という点については疑いを持たざるをえない。Side Bのおもてなしライブで來人さんが示す論理はアイドルとファンの相互依存関係に依拠しているが、相互依存的であることとそれらが対等であることは、一方から一方を導けるような関係に立ってはいないだろう(それこそ、事実と価値との峻別によってその導出は禁じられるかもしれない)。また、Ev3nsのメンバーたちが対等になるためには傷の開示を必要としたわけだが、作中において(潜在的にそうである人も含め)ファンの傷はどこに見出されるのか? おそらく制作側の意図はこうだ。観衆の傷、つまり闇は、彼らもまた一様でないこと、つまりファンもいればアンチもいるし、両者の混ざり合いであるファンチ(マジで初めて聞いたわこれ)もいることに見出される、と。しかし仮にそうであったとしても、1人の人間のうちに光と闇を見出すことと、各モブの全人格にラベルとして「ファン」「アンチ」「ファンチ」を貼り付けたうえで、それらを部分とする観衆の全体に光と闇を見出すことのあいだにグラデーションが成立するかと言われれば、そこにかなり疑問を投げかける余地が存在することは明白だろう。なにしろ対等な関係とは、まず1人1人と取り結ぶものなのだから……なんかそこらへん「ホログラムとかのテクノロジーで解決☆」の雰囲気出してたけど、それディストピアですよ! でも俺もきにゃにお買い物サポートしてほし〜い!!
※23:俺の見立てがかなり偏ったものであることは当然としても、さまざまな対立軸のうちひとつに注目するとか、物語内の具体的な要素、例えば3章冒頭、木ノ内先生の回想での生成の発言をはじめのとっかかりにするとか、いろんな可能性を排除したうえで俺の説明は成り立っている。まぁそれでも、文面には採用できなかった諸要素をちゃんと包摂できる程度にはよい見取り図を与えたとも思ってはいる。

Chapter 4 Designs of Happiness
 ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい…………ハッ! えーと、4章もまた『18TRIP』の基本路線に沿ってはいるのだが、そのなかでもかなりのマインドセット回だと思う。正直初読時はよくわからず、破綻してるか俺の人生経験が足りてないかのどっちかだろと思ったくらい。今回もそんなに自信はないのだが、これまでより散発的な感想に寄せた感じで書こうと思う。嘘です。実際書いてみたらそんなことにはなりませんでした。
 4章で扱われている主題は、もちろん何度も言及される「幸福」なのだが、同時に自分の外にあるものと適切な距離をとること、でもあるだろう。夜班の面々がたぶんみんな個人事業主(こんな政すぎる表現はされていない)であること、最終的に採用されるツアーコンセプトがひとり旅にかかわるものであること、細かいところでは研修旅行先で訪れた函館の街が火災を避けるために道幅を広くとっていることなどに表れるように、自分の外にあるものとは言い換えれば他者のことである。他者との距離を間違えてしまうことーあまりに近いとか、逆にあまりに遠いとかーに人は苦悩を見出すし、逆にそれが解決できれば人生が上向いたりする、つまり幸せになれることもあるという意味で、幸福と他者との距離とは密接に関わるものなのだから、両者が同時に取り沙汰されるのには一定の意義と必要性がある(※24)。
 さて、他者との距離を間違えることで不幸せを感じる、その卑近な例は4章を読む私たち自身も経験してきたものではあるが、同じ人間である登場人物たち(ホンマか?)もまたその迷路に入り込む。まだ物心つく前、行方知れずになった母に捨てられたところから人生が始まり、生まれつきの不幸体質(これ、マジでなんですか?)も手伝った結果自分を出来損ないだと認識してしまい、そうであるがゆえに「普通に幸せな」他者に対して極端に気を遣ってしまう凪っち。あまりに女性向け作品の素材すぎるイカれた家庭に生まれたがゆえに数奇な宿命を背負わざるをえず、互いに互いを縛る白光兄弟。過去と未来を封じられている(これ関連の設定大鉈すぎて笑う、いやそれ言い出したら全部か)ために自分自身を知らず現状維持しかできない、だから他人に踏み込まず、踏み込ませない夜鷹さん。そして宇宙人という人類にとっての外、子タろ。近すぎたり遠すぎたりする彼らー個人事業主なので遠い人が多いーが、区長として新たにコミュニティに所属することで、そしてそれによって変化していく凪っちにあてられることで、幸福や他者との距離についての考え方を少しずつ修正(※25)していく。概ねこんなストーリーですよね。
 ただ、事態が進展するために何が必要だったかを考えてみると、一対一で相対するような他人だけが彼らの問題に関係しているわけではないことに誰もが気がつくだろう。だから俺ははじめから「他者」とは言わずに「自分の外にあるもの」と言ったわけだ。4章は「アリサとテレサのインテリラジオ アリストテレス(※26)とかいう、俺みたいな学がないというほどではないがかといってインテリにもなれなかった人間の神経をこれでもかと逆撫でする名前のラジオからスタートするのだが、そこでアリテレが言うのは次のようなことだ。「人類は資源を食い潰しながら経済成長を続けてきたが、その結果として存在するモノ的豊かさ(このワードムカつく〜!って感情が織り込み済みっぽいのもムカつく〜!)と、終わらない上昇志向に囲まれている私たちは今幸せなのか?」「たしかにそれが幸せどころか不幸につながっている気もする。でもだからといって上昇志向を捨て去るのは無理。」「だからこそ私たちは、生存戦略として、再現可能な幸福を追求する幸福心理学(Positive Psycologyというのがあるんですね、あまりに価値)を身につけるべき。たとえば、幸福になりやすいかどうかは半分くらいが遺伝と環境によって決まってしまうが、もう半分は自分でコントロールできる。方法さえ知っていれば、誰もが幸せになれる素養を持っている。」うんぬんかんぬん……ちょっとそこ! 「ホンマか?」の視点は一回捨てる! これフィクションだから!このゲーム、自分をなだめないとスタート地点に立てないシーンが本当に多すぎるのだが、とりあえず今見るべきなのは最後に言及された遺伝・環境/自分のコントロールという2要素だ(※27)。自分で変えるのは難しいものと、逆に自分でもどうにかできるかもしれないもののせめぎあい。ひとたびこの視点を持つと、ストーリーのあちこちに同様の構造を見てとれる。白光兄弟の宿命。アスタロトによって与えられる予言。子タろが持ち出す幸福の科学的基盤。技術的な趨勢。流行。このようなたんなる具体的な他者を超えた自己の外部に対して、それぞれの人がそれぞれの心がまえを持てるようになる物語として、4章は記されているのだ。
もちろん、外部が助けになることもある
 とはいえ、『18TRIP』の基本構造やこれまでの3つの章を見たあとでは、上述の筋に目新しさを覚えることはないかもしれない。しかしそうではない。俺が思うに、4章の見どころは、言葉ー「幸福」や「家族」ーにどのような意味づけを与えるか、という点から基本構造を捉え直した点にある。終盤の凪っちのふるまいに代表されるように、4章では世間一般がそれぞれの語に付与した意味(※28)を、キャラクターたちが自らの経験をもとに捉え直し、変更していく。しかしここで思い返してみると、これまでのストーリーで強調されてきた外部の文脈は、キャラクターたちにとってまさに外部、つまりどうしようもなさの程度が高いものであることが多かったと思う。あえて4章内で挙げるなら糖衣先生があーちゃまの器になって琉衣先生が😭😡になってたりとかね。しかし言葉はどうだろう。たしかにそれは人々のなかでのなんらかの一致がなければ成立しないかもしれないが、同時に、一般的な意味づけが成り立った後でなら、そうではない可能性を与えることができるもの、平たくいえば「思い込んだもん勝ち」にできるものでもある。ものの見かたが変わるだけで世界が変わるという、『18TRIP』の世界観における主観的な極のありようを表現するという目的を達成するのに、言葉の意味づけへの言及は一役買っていると言ってよい。ただ、ついさっき「思い込んだもん勝ち」とは言ったものの、実生活を生きるうえでそんなことはありえない。というのも、目の前にいる他人もまた、同じ言葉を使って話をするからである(※29)。凪っちの「家族」観は、バックボーンの異なる琉衣先生のそれと大きく乖離しており、だからこそ彼らは作中で何度も食い違う。また、具体的な個人を離れた世間一般の「家族」観(これは凪っちの仮構したものでもあるのだが)と自分の現状とのギャップが、凪っちの根源的な苦悩だったはずだ。ここにも自己と外部をいかに調停するかという問題が現れているのだが、やはり強調しておきたいのは、言葉というファクターを取り入れることで、調停されるべき自他のせめぎあいが、主に自(またはそれを転じた他)の主体的な要素をこれまで以上に前景に押し出すことで、他とは違うかたちで明確化されているというポイントではある。
ちゅらい(´;ω;`)
 最後に(なんもキャラの話とかしてませんけど?)、今述べた点を秀逸に表現したモチーフとして、凪っちの代名詞である花と花言葉(※30)、また、それと類似し包摂するところのおまじないやジンクス一般に一瞥をくれなければならない。抗いがたい宿命の象徴であるアスタロトが「辻褄合わせの知恵」と呼ぶそれらがなぜ必要とされるのか。それはもちろん、自分の外にあるものが付与する意味づけに完全にコミットしながら生きるのは、人間にとって不可能な要求だからだ。事実、研修旅行を終えて「家族は一緒にいなければならない」「人は幸せにならなければならない」といった信念を強化した凪っちは、そのことによって琉衣先生と軋轢を生じさせてしまったり、自分自身も過労で潰れてしまったりする。この過程は凪っちにとっては必要な遠回りではあったのだが、自分の外(ここでは世間のイメージ)との距離が近づきすぎたことで、凪っちの人生は損なわれたと言ってよいだろう。ここで先ほど説明した言葉の性質が効果を発揮し、近くなりすぎたものから離れることが可能になる。それこそ、凪っちが自分で見つけた「それはいつも不幸せとともにある」という「幸せ」の意味は、凪っち自身がその語の意味を一般的なそれから少し引き離した結果発見されたものだったわけだ。また、一段落前で述べたように、私たちは同じく言葉を用いる他者と暮らさなければならないのでもあって、そのような場で求められるのはなんらかのかたちで意味づけどうしを擦りあわせることだろう。また、そもそも4章とは夜風に漂うだけだったL4mpsのメンバーが他者に踏み込むことを学んでいく物語であったはずで、自らの手による意味づけを強調するだけでは元の木阿弥だ(だからこそ、研修旅行を経て凪っちが外部へ過剰に接近したことには価値があった)。
 とはいえ、自分と外部とを擦りあわせるためには、何をすればいいのだろうか? 冗長な流れだったが、ようやく花言葉(あるいはジンクス)の登場。いやしかし、「辻褄合わせの知恵」もまた外部ではないのか? と思われるかもしれない。でも実はそうではないのがミソ。どういうことかといえば、花言葉とは、それぞれの意味は世間が定めるものでありながら、相手にどの花を渡すか、また、ひとつの花にいくつも用意された意味のうちどれを付与するか、という点に自分を反映させることができるツールなのだ。自己と他者に共通の意味交換を可能にしながら、なお自分が持つ意味づけのフィールドは確保しなければならないという課題への処方箋としては、なかなかいい目のつけどころだなと思いました。ウエメセ。ちなみに、ジンクスで同様の構造が如実に見られるのは、主任が凪っちを口調に勧誘する際、黒猫のジンクスに言及されるシーンなど。いやー、俺もセロトニン出せてなくてヤバいらしいから出さないとね。やっぱハピ活か?
 はい終わり。 正直、4章はやっぱよくわからんなぁというところも多い(※31)んでとりあえず書いてみただけなんだが……。キャラの絡み的なところだと、どっかで書いた「凪っちにあてられる」面がよく出てるのは読んでて楽しいかな。背景ゆえに強迫観念じみたものを持ってるキャラじゃないと他の4人絆せなかったと思うし……てか凪っちと琉衣先生めっちゃかわいーわ。あざといっ。いやまぁ、「むーん」が井口裕香のラジオ(1回も聞いたことない)を想起させるから毎回笑っちゃうし、『さむわんへるつ』ゾーンは普通に厳しい気持ちになっちゃうんだけど(かといって本当に面白くなられても困る)。
琉衣先生が厳しさに拍車をかけている気もする
※24:自分の理解では、4章とは幸福を主題に据えたうえで、それを生み出したり減じたりする大きな経路のひとつである自分以外のものとの距離に(手段としての)焦点を当てたストーリーだ。あと、全体の筋書きは『青い鳥』的。ただ、4章が幸福についての話だからその点がよく見えるだけで、俺がこの注(本文2)全体を通して輪郭を与えようとするような作品の精神性を鑑みれば、『青い鳥』的な構造の導入には必然性があり、また4章以外のさまざまな場面で実際に用いられている、と言えると思っている。
※25:「修正」という語に唯一の解に近づける意を見出すとストーリーの趣旨には反するが、「あれもそれもアリ」的な態度がより大きな形式としての唯一解だと考えてほしい。
※26:これはマジでどうでもいい話なんだけど、(あまり突っ込んだところを問わない感じで)幸福についてのアリストテレスの考えとされているものと4章は別にそこまでマッチしていない。というのも、(当然なにかしらの便宜に適うさまざまなことの価値をアリストテレスが認めないわけはないだろうが)最終的にいっちゃんベストな(頭痛が痛いのだが!?)幸せは人間という種をベースに一意に規定されるから。むしろ4章(というかこのゲーム)のありかたと親和的なのは、徳が形成され、発揮されるプロセスのほうだと思われる。
※27:このバカムカつくゆるエウダイモニアラジオには4章で触れられるサブテーマーたとえば上昇志向の無限回廊や経済・科学技術の発展ーがいくつか含まれている。前者によって生み出された後者がさらにペットロボを誕生させることによって、ひとりぼっちというモチーフにはささやかな花が添えられており、さらにこの事実全体が4章が作り出す空間に響いているのだが(付け加えればラジオ自体が音声言語と通信設備を用いるという点で重要な要素なのだが)、今回はそこまで触れる余裕はありません。つかこの前研そうげんがペットロボと一緒に暮らしてるの見て俺もお迎えしたくなったわ(なけなしの漫画要素投入)。
※28:最終的には世間一般による意味づけという出来事自体虚構にすぎないみたいな観点が示されたりもするのだが、それでも最初にこの対立がないと原理的にお話は成立しない。
※29:そう考えると、言葉への意味づけの問題とは要するに他人との衝突と距離感の調整という問題なのだ、ということもできるかもしれない。まぁおそらくできるのだが、そうなると宿命とか科学的な機序みたいな要素が他人との衝突としては回収できず浮いてしまうので、すくなくとも今やってる論旨に適合しやすいのは広く「外にあるもの」みたいな枠組みなのかなと思う。
※30:蛇足というか私怨なんだけど、俺はオタクの人がやる花言葉ゲームみたいなやつが、本当に、心の底から、殺意を覚えるほどに、嫌いだ。なぜかといえば、彼らがやっているのは考察厨のお遊び、たかだか正解を出しにいくゲームでしかなく、そこにその人なりの評価基準とか世界の切り取りかたなんかを見出す余白がほとんどないから(俺がいまやってるのもそれという可能性は否定できず、ぐぬぬ)。4章の花言葉の扱いを秀逸だと思ったのは、同じ素材を用いながら、花言葉ゲーム的な行為とは真逆のものをテーマに適したかたちで提示したからというのもある。というかむしろ花言葉なりカクテル言葉(語呂悪っ!)なりの本来的な作用はそこにあったはずで、オタクの退屈なコミュニケーションツールに俺がまんまと惑わされてしまった、ということになる。悔しい。みゃー、実際には生産者と消費者の共犯なのだけどね。
※31:特に占いの結果伝えられてから出てって帰宅するまでの凪っちの理路にあんまり得心がいっていない。まぁ、積極性モードになってた凪っちが糖衣先生の占いを「何もしないでいるよりいい」と考えて(半ば結果を確信しつつ)受けに行ったこと、その結果自分は本当にひとりぼっちだったのだと、つまり世間的な認識とは決定的に相入れない存在なのだと理解したこと、だから外部と同化することはやめ、さらには外部にある既成の意味づけーとりわけ「幸福」におけるそれーを捉え直して解体する方向に向かったこと、くらいはわかる(「Merry Marry Movies」あたりを考慮するとこれはかなりの単純化なのだが、一旦はこれで)。ただ、初見のときに思ったのは、「ひとりぼっちだとしてもしあわせもの」という凪っちの認識が、結局仲間との経験に下支えされてない? ということだった。さすがに母親との関係における孤独と仲間との関係における孤独のレイヤーが違うだけみたいな話ではないだろうし、糖衣先生が函館の夜景を前に言ったように「今幸せだからそう思えるだけ」だというのは(これは一面的には真理だと思うし、そのほうが俺としては面白いが)穿ちすぎだし……今も感覚としてわかんなくはないんだけどうーんってなっちゃってますね(追記:マジでレイヤー違うだけな気がしてきた。)。ところで、凪っちが朝焼け1人で見るシーンの演技いいよね。秋アニメで窓を割ってドン引きされたりしたらしいけど、坂田将吾さんに感謝。
ここが一番いい。朝焼け見てねーけど。

お前と征くVoyage
 こっからイベスト。タイトルの語感が絶妙におもろい。「お前」も「征く」も単体でいい味出してるのに英単語にくっつけられるのがカロリー過多感出てていいんすかね? 最初のフィーチャーイベントということで、ストーリーは無難、というかちゃんとしている。問題系が比較的込み入っていないゆきのん(プレイ開始時期のちょっと前に「俺ガイル」を見直したので雪にぃのことをこう呼んでいる)を最初に持ってきたのはナイス。さて、メインストーリーでゆきのんは父・貞雪との間に生まれつつあった理想の選手像の乖離に目を向け、初めて父の方針に異を唱える。そこではゆきのんは父に対しての子でしかなかったわけだが、なぜかみんなの兄であろうとするゆきのん(本当になぜですか? いやまぁわかるけど、本当になぜですか?)にとって本来問題になるのは、あんまりよくないときの貞雪に見出すことができるようなパターナリズムといかに向きあうか、でもなければならないはずだ。今回そのきっかけになるのが自分より遥かに身体の弱い大黒先生。大黒先生とのやりとりのなかで、ゆきのんは大黒先生の望みと、それを実現するに至る過程とに自分との共通点を見出し、「双方にとってよいおせっかい」を焼こうと頑張る(※32)のだが……
そうっすね、本当に…………
 ここで重要なのはやはり、そこでの語りがパターナリスティックなふるまい自体を拒否するようなナイーヴな観点には立っていないということだろう。人と人が関わりあう以上おせっかいは避けられないのだから、どのように適切なおせっかいを焼くかという、実践的で、そうであるがゆえに終わりのない問いにシフトするわけだ。そのための基準が双方の望みの明確化(※33)と「相手を信じる」という営みであり、明確にされた望みをすりあわせることができたなら、相手を信頼したうえで適切におせっかいを焼ける(こうなればもはや「手助け」と呼びうる)し、その受け手は自分が信じられているという事実をバネにより高く跳べる、はずだ。当然これは理想的な状態を想定しているにすぎない(※34)のだが、しかし、それでもなお、それを追い求めること。よりよい未来へ漸進するにはそうするしかない。みたいな話ですかね。要約すると俺としては話し終わったことになってしまう系ではあるのだが、この構造が貞雪との関係含めゆきのん自身にも適用されていい感じになるのはシンプルにいい感じの話ですね(?)。中間管理職叢雲先生なども楽しめるちょうどいいストーリーだった。いや〜、俺も父親との関係がさぁ、今みたいな状況になって余計なんとも言えない感じになってきてさぁ、……ゆきの〜〜〜ん(つД`)ノ
 つかやっぱ、なんでこの世界はベースが推し活なんだよ、「くだらねぇ」って斜に構えてる風の描写されてる礼光おねーちゃんが一番正しいの、なんか変ですよ。
こんな行政は嫌だ
※32:「Voyage」の可不可/雪風雪風/貞雪のように、他者に自分を見る/自分に他者を見ることで関係を把握したり、それを改善したりする、というロジックは(特に樋口脚本で)頻出するので、覚えておくとよいかもしれない。直接的には身分差BLの手法だと思うのだが、たぶんもっとメジャーなやりかたですよね。それと、ここでもうひとつ付け加えておかなければならないのだが、プロット担当/シナリオ(脚本)担当の区別は曖昧にさせてほしい。メインストーリーについてはインタビュー等から誰がなにを担当しているかなんとなく推測できる(Chapter 1はプロットがリベルのストーリー制作部門、シナリオが樋口の分業体制で、Chapter 3は樋口がプロット作成の段階から関わっていたらしい["spoon.2Di vol.116", pp12-15.]今後ライターの発言として扱うことは全部←のpp.12-17のどっか。ラフにやらせてくれ。)のだが、イベントストーリーは正直よくわからないため。こういうの書くときは気になる情報なのでクレジット明確にできないのかなと思ったりするけど、「あんスタ」での日日日シナリオの扱いを思い起こすに、したらしたで面倒なことになったりする気もする。
※33:平たく言えば自己分析。ウッ頭が……。 
※34:大量の熊鈴をみんなにつけようとする西園先生は絶妙なラインのパターナリズムとして想定されている気がする。テキトーにあしらう叢雲先生のやりかたがいくらか理想的に見えますよね。てかボイスついてから再読したんだけど、熊関連の西園先生必死すぎて笑う。

ジョー様の仰せのままに
 人格を持ちながら所有物にもなりうる存在であるジョー様に、使用人という所有されうる立場で接することで、琉衣先生が自分の立場を明確にしていく、というのが大筋。いくらか技巧的なのは、ジョー様という(なんらかの心的機能を持っているとはみなせるだろうが)人間ではない存在が悪い意味での所有関係に立ちうる可能性から、糖衣先生を経由することで、人間、特に琉衣先生自身が所有関係に立ちうる可能性に思い至る導線づくりだろうか。所有-被所有関係に立ってしまえば双子の理想的な関係は実現できなくなってしまうわけで、そのあたりをシャットアウトするストーリーとしては成功している気がする。とはいえ、メインストーリー4章でも触れられた、糖衣先生が琉衣先生を独占しようとするための理路、および「自分の意思で」という自律性によって自分の輪郭を確保する術が再度強調されるなど、「アポトーシス」の下準備という面が色濃く出ているのもあって、そ〜んなに話すことはないともいえる(なんか短くね? 「アポトーシス」頑張ったから許してくれ)。でもなんか全体的に凪っちがかわいいですね。令和の世では大量発生がありえない「俺の嫁」的キャラなので、どこまでいってもキャラ消費のしかたが男オタクっぽい小生にとっては常に一息つけるオアシスキャラなんですぞ。いや〜、ジュンブラのイベスト読んでギュンギュンしてしまいましたな。でもこれって夢女子の欲望じゃねーのか……?
ごめん、一緒、逝こ。

ココロの砂像
 夕班だいすきクン、クッソ萌える。アンドロイド=死を知らぬカゲロウとしてのきにゃりにフォカースしたイベストだが、そんなきにゃりが自己を確立するための教導役が百目鬼先生になるのは必然ですわな。正直なところを言うと、きにゃりが展開するような形式での「アンドロイドが心を持ちうるか」という問題は全然面白くない(※35)のだが、「砂像」では作品全体に通ずるものでもある大人/子供、秘密、死という主題がきにゃりの問題系の部分として取り扱われていて、そっちはなかなかいい感じだった。感情の獲得について悩むきにゃりだが、來人さんという一方の極からは「焦らなくていい」と言われてしまう。しかし、自分アンドロイドだから感情発達する前に、大人になる前にみんな死んじゃったらどうしよ〜❗️😭となっちゃっているのがきにゃりの悩みなのだ。それに気づいた主任がとるアプローチとは、きにゃりの焦りを認めながらも、未発達な子供の自分を厭わしく思うことはないと告げることだった(※36)。その結果きにゃりは(お馴染みグラデーション理論によって)子供の心と大人の心が地続きなのかもしれないという逆諸星大二郎な結論(なけなしの漫画要素投入)にたどり着くわけだが、「砂像」でみんなが好きなポイントは、追加で諸星大二郎側も用意されているところにあるだろう。いやちょっとちゃうけど、さすがに。まぁええか。さて、もう一方の極である百目鬼先生によれば、子供が大人になるためには性と死、そしてそれらが代表するものとしての秘密が必要になる(※37)。
ス協が並ぶと服の処理にキャパが割かれて頭が悪くなる
ここに示されているのは、大人にあって子供にないもの、つまりは子供と大人との間にある致命的な断絶もまた、その二項を理解するために要請されねばならない、という事実だ(※38)。百目鬼先生はきにゃりになんかエロい言葉遣いを教えたりするが、「砂像」でとりわけ強調されたのは先に挙げたもののなかのうち、性と死によって形成される秘密だろう。真珠に喩えられる秘密。きにゃりがなぜそれを持たないかといえば、それはもちろん、アンドロイドとして創り出された彼には、隠すべき過去が不足しているからだ。そしていま重要なのは、それを形成するにも時間経過による過去の蓄積(たとえば百目鬼先生とのやりとり)が必要だとされることによって、一見異物として投入されたかに思える秘密というキーワードが、來人さんや主任が提示した考えかたと交錯することである(※39)。砂像というモチーフがイベントタイトルを冠することができるのは、この射程範囲による。え? スクラップ協定の話? それはね〜、パス! っつーか、まだまだだろ。あとメモリさっさと増設して!
 ところで、これは余談だが、「砂像」とかファイブレイベ(※40)のときに文化的表象の扱いが問題になったらしいっすね(https://x.com/czmz_knt/status/1833904194396602708?s=20)。当時は未プレイだったから知る由もなかったのだけど、にゃるほろね〜という感じ。まぁ上の指摘が正しいと仮定して、このゲームがなんでこういうのやっちゃうのかは俺としてはなんとなく理解できなくもないんすけど……もちろん実際には制作リソースの配分問題とかがほとんどなのだろうし当て推量すぎるから明言はしません。

※35:いやだってあるやんというか、すくなくともそのための基盤は完全に揃ってるだろ、となってしまうため。きにゃりの内言がテキストとして成立している時点で、読む側は他のキャラクターと等しい目線をきにゃりに注がなくてはならないし、あとはテキストボックスに感情の内的な感じを表現する日本語のうちどれが入りうるかという話でしかない。いやそこまで切り詰めた話だけじゃないよ、と考えるにしても、もうきにゃり泣けるしさぁ……「砂像」だって大人になりたい理由はEv3nsのみんなへの友愛に由来する面が大きいじゃないっすか。俺いままで生きててそんな感じになったことないよ? だからお前は心持ちや! というのは大雑把すぎるのだが、要するに俺が言いたいのは、きにゃりにとって問題なのはテキストボックスに入りうる表現の幅が狭いということであって、けっして全称的な心とか感情とかの問題ではないということ。俺はここを誤解しかけてしまったのだが、同じ感じになってる人もいそうではある。だとすればSF要素が問題の適切な定式化に雑音を挿入しちゃってるんだと思う。てかさーーーーーー、なゆーきに変なこと言わせるのやめてよ! なゆーきは俺なんかの100億倍人格が優れてて有能でかっこよくてかわいくて(ここまでホント)頭もいいの(ここ怪しくしないでください!)❗️
これいつのTwitter
※36:この場面で主任は同時に、今のきにゃりにも未来のきにゃりにも愛を等しく注ぐことを約束するが、これは死の不在によって(いくらか倒錯的なかたちで)起こる未来の不確実性を、スクラップ協定とは別の側面(メインストーリーを踏まえれば同じとも言える)から埋めようとする試みだ。
※37:だとすれば、百目鬼先生から見て來人さんは子供だということになる(まぁ、厳密には完全にそうだとも言えないのだが)。というのも、メインストーリーで目下最大の自己欺瞞を看破された來人さんは、表層にその人格のほとんどすべてが露出している状態にあるからである。これは彼がそもそも異常に明け透けな人間であることに大きく依存するのだが、ともかくそうなってしまえば神の欺瞞を喧伝する者である百目鬼先生が暴き立てるべき虚はもはや存在しないのであり、「何度でも立ち直ってくる」という來人さんの特徴は、欺瞞を暴かれ続けるこの持久戦における勝利の予告だったにちがいない。樋口美沙緒が「來人が潜の支配性に屈さない」と言っていることを俺が咀嚼するとすればこんな感じになる。あと補足。秘密にかんして一応注意しておかなくてはならないのは、子供と大人とを分かつ基準としての秘密は(百目鬼先生が仄めかすほどには)切断的でもないという点。2章を読めばわかるように、子供の秘密というものもまた存在するのだ(そのことによって大人になりつつある、というのが正道の読みではあるだろうが、俺としては子供の秘密が存在していたほうがよいな、と思う)。申し訳ないんですけど、さらに話を広げたくなってしまった。百目鬼先生が大人と子供の断絶を(作品内の「実態」より)強調しているというのが正しければそれは、絶望を知らぬ子供だった過去を、愛よりももっと深く愛し、憎しみもかなわぬほどに憎んでいるからだろう(なけなしの漫画要素投入)。きにゃりに人形だった過去の自分を見出し、そこに愛らしさと苛立ちをともに覚えるのも同じ理路に従ったものだと思われるが、失った腕を忘れることができないがゆえに表出するこのような反抗的態度は、「奇術に咲く弔花」でも姿を見せることになる。
※38:3章で得られた結論に機械的に適用すると、そこで得られたなめらかさとさらに対立するものとしての断絶の導入、ということになり同様の推論が無限に進行してしまうのだが、俺、なんかヤバいことやっちゃってますか? あと、百目鬼先生は他キャラとの差分でキャラ開示される展開が多くて、影っぽいですよね。
※39:この考えは3章で一瞬だけ触れられた「記録+感情=記憶」というホントかよ、な等式とも馴染む。しかし記憶のために感情が必要で、大人になる=秘密を抱える=感情を発達させるために記憶がいるなら、そこで循環しちゃうんじゃないの、と思うかもしれない。ただそれは多分ちがくて、ここもグラデーション理論との合わせ技なんすよね。開発者の残した音声を主任と振り返った場面では、きにゃりの記録に感情が論証なしで付与されるという飛躍が起こったといえるわけで、いったんそれが成立しさえすれば、あとはそこを足がかりに他の記憶獲得に進める、という構図になってるんだと思う。記憶と感情のそれぞれを一挙に獲得するようなものとして考えると循環っぽく見えてしまうようになっている気がします。
※40:木ノ内先生、Ⅵ世代っぽいけどスカルミリョーネが自然な語彙で出てくるあたりⅣもやってるんすね。アホ難易度のDS版Ⅳやってほしい。ちなみに俺はⅤとⅥを積んでいる。

極彩色イマジネヰション
 ごめん、やっぱ斜木「先生」だわ(前前前……前言撤回)。やっぱさぁ、他人にジャッジされるのってめっちゃ怖いんですよ俺は。なんでかって、もちろんネガティヴなことを言われるの自体が辛いとか、そもそもそういう風に育っちゃったから(ドウシテ……)とかいろいろあるんだけど、ひとつには自分がある程度もののよしあしがわかる人間だっていう自負があるからで、そこがアイデンティティを部分的に構成しているために、自分が「あし」の側に入るのが耐えがたいというのがあると思うんだよね(🚢👨……)。ちょうどいまジャッジ恐怖症のおかげで人生設計がグチャグチャになってるんだが、ここで言われてるようなマインドが持てればなぁと常々思います。で、なにが言われてるかということなんですけど、昼班のみんなが大人への途上にいるけどやっぱり子供でもあるがゆえに大人の世界に対して作らねばならない壁と、昼班の内部で他者に対して作らねばならない壁とが重ねあわされたうえで、そうした壁を少しずつ開きつつも、自分の領域とのバランスも確保するっていう、まぁいつものといえばいつもの感じですね。展開的にちょっと珍しいのは挫折パートが2度入ること。どっちも俺にはかなり効く。
どうしてこんな、大学に入るなんてこと……
 最初の挫折は衣川先生と斜木先生の相互理解・嫉妬羨望(フェイク四字熟語)・切磋琢磨にかかわるもので、2度目の挫折で向きあうことになる大人の世界への対応(外交性)という観点から衣川先生→斜木先生へ、自己の内側が豊かであるがゆえの他者観察能力の高さという観点から斜木先生→衣川先生へと「こいつすげぇ、それに比べて俺は……」の感情が生まれる。そのうち後者については、兼六園で斜木先生が衣川先生の肋のうちに踏み込むコムニケーション(なんで名刺交換練習の西園先生はあんなにノリノリだったんですか?)を実行し、衣川先生内部のポリフォニーが認められて肋が拡張されることによって前進するのだけど……いやーやっぱ、他人を舐めないってことよねぇ。このアドカで何回他人を舐めたか数えられないけど、ちょっとずつ治してくわ、俺も……。前者は2度目の挫折、そして否定されるかもしれない恐怖が原因で自己を世界に開くことができない衣川先生の問題と密接に関連する。それをどうにかするために斜木先生の激励で持ち出されるのはやっぱりポリフォニーで、いろんな人がいて、自分のことを否定する人だって当然出てくるという一般的な世界観をまず追認することなのよね。しかしそれでもなお、納得いくものを創り出すのが楽しいとか、それを全員に受け入れさせてやるとか、否定されて悲しいとかムカつく(※41)とか、自分の内側にあるポリフォニーも認めなくちゃいけなくて、そのうえで自分以外の声との接触点によりよい自分を見出すのが理想として描かれていて、つまりはまぁ、自分の声も世界に溢れる多声の一部として認定してあげるということですよね。で、そのためには身近で親密な声との清濁併せ吞むかかわりが助けになるよ、と。近くの人がどういう人なのかを想像=イマジネヰション(文化的/歴史的ポリフォニーの表現)し、尊重する態度のもとで関わりあうことで、共通点と差分によって自分の輪郭も明らかになるわけですからね。う〜ん、「自分の声も〜」というのは前段で一般的な世界観を追認したときすでに額面上は受け入れさせられているのだけど、人間やっぱりそれを忘れ去ってしまうときがあって、そこを意識の向け変えひとつで想起させる、みたいな展開が『18TRIP』っぽいな、と思う(※42)。いやぁ、昼班の子たちは積極的に前に進むための合理化をずっとやってるから、俺からすると眩しくて、苦しくて、辛いね。
 さて、高校生がわちゃわちゃするの大好きだからあまあま萌えポイントはいっぱいありますよね(甘を回収)。俺『SK∞』の2話が一番好きなんだから。つかこのゲームいろいろ一緒すぎるんだから(※43)。ウチャーンのツンデレの塩梅がちょうどよかったの(イヤホンのとことか)と、俺(俺ではない)のこと好きな激カワ五十竹先生が特によかったです。斜木先生は「俺、よそ見ばっかりして」とか言ってたけど、ホンマやで。あと最後に言っておきたいんですけど、俺はメインストーリー1章初見時から「先生」呼称を使ってるので、彼らがパクってます。
3人分のまばたき回避してスクショするまでにかかった時間返してほしい
※41:表現者である彼らもまた、自分が持つよしあしの基準に矜持を持っているからこそ、より否定がこたえるのだと思う。まぁ、俺と違って彼らは見りゃ聞きゃわかるSelected Giftedなのだが……。
※42:まぁ一番このゲームらしい愛嬌が出てるのは大人の世界との擦りあわせを強調した直後にラフ画100枚全通りするとこなんだけど。言行不一致とはこのこと。
※43:ダイレクトに暦とランガとアダムいるのどういうこと?

Escape from S
 まずなんでマフィアが地上波出ていいことになってるんだよ。礼光おねーちゃんも「大黒が言ってるならええか……」で納得しないで! 法定速度守ってる場合じゃないよ!……みたいなツッコミが無限にできてしまうのでストーリーのお話をしますか。執着とかしねンだわスタンスの叢雲先生が基本執着マシマシの朝班に囲まれ、ラノベ主人公モードで孤軍奮闘するも最後は一瞬だけやってやるか(ラノベ主人公モードは継続)になる話なんだが、カプ厨ストすぎてキャラ読みしかできねーようになってるのが最大の特徴。みんな大好きらしいあのシーンもすぐ抽象の軍門に下らせたくなってしまう人間にとってはグルーヴを掴むのに一苦労なのだが、まぁやりたいことはなんとなくわかる。最重要のセリフはたぶん礼光おねーちゃんの「他人とは、己を写す鑑」で、これを西園先生と叢雲先生に適用するのが素直な楽しみかたなんでしょうね(※44)。叢雲先生は西園先生にズカズカ踏み込まれてまぁまぁキレちゃうのだが、それはやっぱり執着を持たぬよう飼い慣らされた自分のありように対して諦念と同時に不満も抱えているから、というのがちょっとある(よね?)。そして塔の上で西園先生がキバに「西園練牙」を明け渡すことになんの執着もないと知ると、叢雲先生としてはそこに虚飾まみれの空虚な被支配者でしかない自分を見出さずにはいられないわけですわな。とはいえ、西園先生は完全に空っぽなわけでもない。鴉のテリトリーである屋上で問いかけられた「なんなら、一生いる?」をー首肯しかけたもののー仲間の意思に配慮するような善性によって拒否した彼が(空虚という点で)自分であるならば、そこには別様の、あるいは本当の自分という可能性も同時に見出されざるをえない(※45)。檻に囚われた西園先生を助け出す際に発された「もっと欲深く生きましょうよ」という助言は、西園先生への言葉でもあり、現実化される見込みのない可能性として存在する叢雲先生自身への言葉でもあったっつーことよね(っつーことよね?)。
西園先生がへにゃってるのではなくて檻に天井がある感じだった場合、怖いですよね
実際現実化される見込みがないかはわからんけど、まぁこのときの叢雲先生的にはそういう認識だったんだと思います。執着とか積み重ねの表象であるところのポイントカード返してるし(託していると言ってもいいかもしれないね)(※46)。もう自分は重たいものを持てる人間ではありえないからそっちの自分に頑張ってもらおう、という感じだったんでしょう(※47)。これ投げやりすぎ読解か? うーん、どう友の人って魏呉蜀のどっかではあるだろうし、怒られそうで怖いなぁ。まぁこんなネットの端っこの文章見つけられるわけないけども。

※44:書いたしばらくあとに改めてロゴを見返したら「E」と「S」が不完全なシンメトリーになっているのに気がついた(遅っ!)。
※45:これは西園先生の側から眺めるとキバ以外と鏡あわせの関係が成立したということで、キバが用意した「西園練牙」のコンテクストが多少ときほぐされたことを意味する。西園先生が認知しているかどうかという違いはあるものの、モデル・タレント業と同じクラスに投げ込まれるものではある。
※46:メモと間違えてポイントカードを渡してしまう西園先生という構図はもちろん、彼が虚飾のパッチワークである叢雲先生に勘違いで純粋な好意を向ける事態とパラレルなのだが……のだが? という状態になってしまっています(機微読み弱者)。機微を離れた点にかんしては「Glow in the Dirty Rain」も参照のこと。
※47:それに、そんなに執着したいわけでもないっぽいですよね。執着しないでいろんなもの(ときに自分も)をぞんざいに扱うのがもう癖になってて、そのようにふるまうのを自分の性向として積極的に受け入れてる(そうせざるをえない)ってところも叢雲先生にはある。タバコは空っぽの肺に注ぎ込まれる瞬間的な快楽兼害毒なわけだけど、ずーっと吸いたがってるし。

アポトーシスへの誘惑
 なんかムズいし防寒テキトーすぎだし使い捨てのバケモンに新規イラスト3枚用意されてて草ァ! マジでなんやねんこいつら、特にオコジョ(オシシャ様1/2らしい。俺にはこういうのを読み取る技術は本当にない。)。
ガチ初期のモンストにいそう
 まぁとにかく、問題をなるべく整理するところから始めよう。まず、物語内で頻出するモチーフに注目してみると、それは琉衣先生が「気持ち悪いもんをぶち込まれる」と表現するように、「体内になにかを取り入れる」というものである。そして、その事例は食べるという営み、アスタロト(アチャーマ)をその身に引き受ける(※48)行為に代表されるわけだ。ここで食事がどのような営みであるのかを素朴に思い起こしてみると、このモチーフと「アポトーシス」での主題は比較的容易に接続できる。食事を摂取し、血肉にする。その結果起こるのは身体の更新、つまり自己の同一性を保ったままの変化であり、それがアポトーシスという生体現象と重ねあわされることで、不可避かつ不可逆に訪れる変化を恐れる糖衣先生への処方箋として機能する(※49)……たぶんこういうことですよね?
 ざっくり物語構成を確認したところで具体的なポイントに向かうぞ〜……あームズくてめんどくせぇ、でもやるって決めたしなぁ〜……やります。糖衣先生の苦悩はもちろん、アスタロトの器になることで自己が持つ性質が変化し、白く積もった雪が次第に汚されるように「醜く」なってしまう、そして大好きな、天使超えて神な兄さま(さんざん妙な敬称をつけて呼んできたから言っとくけど琉衣先生のことね)に嫌われてしまうこと、それだけだ。とはいえ、糖衣先生はアスタロト・「あーちゃま」と友人でもあり、またそれと変容した未来の自分とを同一視もしている。このことが琉衣先生への(正当だが不本意な)怒りが発露する原因にもなる(※50)のだが、……まぁ〜、つまりぃ〜…………「醜く」なるし隠しごともしてる「わるい子」だけどずっと「いい子」でありたい、そう見られたい、だから時を止めてしまいたい、っつーのが核心的な欲求なわけよね!? そんで「わるい子」になってしまったら、そしてそれが知られたら兄さまに捨てられちゃうかも〜! っつー不安があるわけよね!? だからこそ、糖衣先生は琉衣先生の内にある罪の意識といったネガティヴな感情を利用して自分への執着を維持させようとするし、時を止めて兄からの永遠の愛を独占するためには心中すればよい、というアスタロトの提案にも乗るわけだ(※51)。しかし、心中する間際、兄に「醜い」自己を曝け出したとき、自分の性質と琉衣先生からの愛が連関する、という思い違いは打ち破られる。変容して琉衣と糖衣を殺してしまう未来図に耐えられない自己と、それでもなお生きたいと願う自己とに引き裂かれ矛盾した弟を見てなお、琉衣先生は白光糖衣という存在の形式自体を(ゆる)すからだ。カッケーーーーー!!!!
まぁ、これはたしかに「キュンキュンキュンキュン、キュンキュンキュンキュン〜!!」ではある
ここで重要なのは、琉衣先生の宣言、およびそれを受けた糖衣先生による同じ愛の返報によって、知/無知の基準(※50参照、最悪の参照構造でごめんな! ノリで書いてるんすよ。)が無条件で満たされることが約束された点にあるだろう。というのも、彼らの愛は箱の中身にかかわらず成立するために、中身を知っているかどうかがそこに関係する余地はないから(むしろ愛が成立したのちに、愛しているがゆえに知ろうとする営為が開始されるといってよいかもしれない)。そうであるならば、彼らは永遠に身内であり、家族であり、対等である。だからこそ、ここで糖衣先生は兄を「兄さま」ではなく「琉衣」と呼ばなければならなかったのだ。
 ここから、物語は先の矛盾ー変容を拒否すると同時に、生き続けて時計の針を進めるという矛盾ーをいかに取り扱うか、に舵を切る。そこで採用されるのが、「自分が」という自律性を用いて、変容を捉える眺めを転換する手法だ。フィーチャーツアーで登場した繭というアイテムは、この点をよりよく把握するために役立つ。変態のために作りあげられる繭。これは誰の手によって作りあげられるのか? それはもちろん、八景が言うように、「自分(=変態する虫)の手」によってでしかありえない。そこに象徴されるように、変容を外部から注入されるままのものとみなすのではなく、自らの意志によるものとみなし、その視点から過去の生と未来の行為選択を捉え直すこと。この生解釈の転換によって、変容の価値は負から正へ転化し(もちろん完全にポジティヴになるわけではないが)、生きるという行為が積極性を伴い始める(※52)。
 んまぁ要約するとこんな話やね、多分(※53)。萌えポイントはよくわかりません。眉間に皺を寄せて読んでください。つっても、『18TRIP』でも結構面白いほうなんじゃないかな? 夜班のストーリーはテーマの露出のさせかたがなかなか上品で、他班(とりわけ朝夕)との差がストーリーを読むうえでの緩急になってていいと思う(俺は多少剛腕な朝夕の感じも好き)。まぁ大体最終盤に急カーブして人情のパートに突っ込むので、そこに愛嬌を見出しちゃったりもするけどね。あと、注17で糖衣先生のことわかんねーと書いたと思うのだけど、「アポトーシス」を再読するとその理由はまぁまぁわかった。変わっていくことの苦しみというモチベーション自体は理解できるが、糖衣先生はそんなの俺は知らねーよという変化を被っているからだ。だから彼は俺にとって常に客体になるわけで、そうなると特異なふるまいすべてに疑問符がつきはじめる。ファンとはいえ同じ空間に暮らす夏焼先生(すいません、なぜ25人とかいう数え間違いが心配になる人数が同じ家に住んでいるんですか?)になんであの態度になるんだよ。相手と対等になるみたいな主題と推し活、相性悪すぎるよね。ここは昨今のキャラクターコンテンツのマジで変なところだと思う。
(友達とも目を合わせて喋れない俺が言うのもなんだが)えぇ……?
※48:糖衣先生はアチャーマをぶち込まれたときパーフェクトにパッシブだったのだからこの時点で「引き受ける」という表現を使うのは厳密に考えれば誤りなのだが、ま、そんな気にしないでくださいよパイセン!
※49:「アポトーシス」というワードを提示したり、服に入った雪を気にする双子を見て「中に入って最初わ気持ち悪くたって溶けて乾いて元通り」と評するなど、地味に子タろがいいフォローをしている。夜鷹さんと凪っちもそれぞれテーマ上の役割を果たしていて、フィーチャーが班イベでもあるのをよく示している感じがしますね。
※50:ちなませてもらうと、この怒りが正当なものである理由は、琉衣先生が身内かどうかを選別する際に、その人が自分たちに固有の事情をどこまで理解しているか、という基準を採用していることによる。凪っちとの口論の場面や、両角さんと夜班が対面した際の会話でも明らかになっているように、琉衣先生は(部分的には両角さんもだけど)白光家や怪異についての事情を理解していない人間との間に一線を引く、あるいは彼らに反発する傾向を持っている。つまり、無知であるか否か、が頼るに値する相手か否かに直結しているのだ。まぁそれ自体は、琉衣先生が大人の無知に害された、そして自身も無知であるがゆえに何年も弟の命を犠牲にし続けた罪を自覚するキャラクターであることを考えれば理解できる。しかし、その基準を転用するならば、兄さまが心底憎むところのあーちゃまに親しみを覚え、それをはじめてのひみつにした自分は、兄さまにとっての家族であり続けられないのではないか……あの怒りは(糖衣先生がそれを認識していたかはともかく、すくなくともある程度抽象的な次元では)そうした不安の発露でもあったのであって、ある意味では正当かつ理由あるものだったといえる。まぁ実は琉衣先生との間に秘密が存在することはなかった、というか秘密の有無という基準自体を無化するようなしかたで糖衣先生への愛が表明されたため、信頼の基準が議論にかけられる余地は、夜班メンバー、とりわけ凪っちに託されることになったのだが。
※51:有益な感想を求めてパブリックサーチャーになっていたところ、「アポトーシス」というタームは双子の心中にも適用できるのではないか、というのを見つけた(https://x.com/Nebuka_rui/status/1988823050910068756?s=20)。これはたしかにその通り、ただそのようなアポトーシスは物語内で拒否されてしまう。それはなぜかといえば、この方も言及している通り、アポトーシス「への誘惑」=他律による意思決定に基づいた自己崩壊、だからだ。とはいえ、アスタロトもまた糖衣先生の一部であることを考慮すると、それを他者としてしまう視点も一面的なものにすぎないとは思われる。
※52:注目しておくべきなのは、蛹になり繭を構築するということは、安全に変態を遂行するための防衛手段でもあるというポイント。注20で示唆したが、自分と世界との間に(とりわけ自律性を軸とした世界の解釈によって)膜を作りあげることで自己を保つというありかたは、昼班のメンバーにも当てはまるものであるだろう。昼と夜ー子供と大人、そして前者から後者への移行ーを取り結ぶ結節点のひとつはここにある。
※53:こいつ寓話の話してないやん殺すぞという方もいらっしゃると思います。あれはオシシャ様の話でもある以上現時点でその寓意を汲み尽くせるわけではないものの、すくなくともまぁまぁ重層的なものであることは明らかではある。双子の話だけにかぎっても、父と娘の非対称な関係は弟とアスタロトを眺める琉衣先生、および兄と自分以外の誰か(両角さんとか)を眺める糖衣先生などに対応しており、そうした父から娘への権力を孕んだ目線を記述するのが、凪っちが提起した「関係性の決めつけ」という論点になる(これは言葉を用いた意味づけのシーソーゲームという点で4章的主題の変奏ではある)。平たく表現すれば、吹雪のなかで果たされた誓いはそうした非対称性(ここには相手を知ることという先述の要素も関係する)を解消し、双方の合意のうえで、人と馬に比喩されるような、おそろいではない夫婦になる、という意味合いも(おそらく、たぶん、きっと)あるのね。正直これは今後夜班全体を通じて展開されるべき部分なので、これ以上の言及は控えさせてほしい。

う-40α 甘辛苦 新刊あります
 そういえば、漫画評論サークルである京大漫トロピーのアドベントカレンダー企画なので、漫画レビューしないと怒られちゃうんですよね。ということで今回紹介するのは、週刊少年ダイブにて大好評連載中、甘いお菓子と熱血が融合した前代未聞のパティシエバトル漫画『パティバト!』です。大人気雑誌で長年やっているのでご存じの方も多いと思いますが、どうかご寛恕いただけると助かります。さて、全寮制のフランボワーズ学園を舞台にした学園お菓子バトルものである本作のなかでも、今回注目したいのは学園奪還編。主人公である香椎焼太たちも通うフランボワーズ学園が、突然現れた天才パティシエ・氷ノ宮真皇によって乗っ取られるところから物語は始まります。
まるでスマホゲームかのような独創的なコマ割り
 さらに、焼太の永遠のライバルである千代田礼人もこの乗っ取り計画に加担しており、最終局面では氷ノ宮側として焼太たちに立ちはだかることになってしまうのです。しかし、それには理由があったことも言っておかなくてはいけないでしょう。礼人が氷ノ宮とともに学園を乗っ取ろうとしたのは、パティシエバトルの結果だけを重視しているために、「菓子だけ作っていればいい」という強制力を生徒たちに働かせている学園の腐敗を食い止めるためだったのです。自分の本当の才能がピザ作りにあると知った礼人(?????)はそのような学園を前にして、いま一度自分を見つめ直さなければならかった、ということです。最終的に、礼人は焼太との対決において、自らの意志でチョコレートという素材を選びながらも、適性を活かせるピザとのコラボレーションに挑むのですが……(※54)
 いや〜、現代オタク的世界像に順応できる人間か、現代オタク的世界像を嫌悪することに喜びを見出せる人間でないとこのゲームには向かない、という事実を突きつけてくる強烈な一作(「百花乙女宴」が一番ヤバいんですけどね、初見さん。)。まぁ俺は好きですけど? お話としてはうーちゃんと衣川先生メイン。幼少期の体験によって世界(特に大人)と接触することに困難を抱えざるをえなくなってしまったうーちゃんが、それでもなお世界との脈絡として見出すことのできた『パティバト!』というフィクション(※55)。自分を守るための皮膜でもあるフィクションは、もはやうーちゃんの一部にもなっていて、したがって作品を解釈することが同時に自己を解釈することにもなるのだけど、作品は同時にみんなの共有物でもある。もちろんその捉えかたをめぐっていざこざが起きたりもするが、作品自体、さらにはそれを下敷きにした創作を共通貨幣とすることで、他人をよりよく解釈することもできる……およそこれが2人の間に起こったことで、まぁ楽観的だし自己弁護的だなとか思わんでもないけど筋自体は理解可能だし、Day2がみんなで頑張るわちゃわちゃストーリーとしてはかなり満足度高いほうでしたね。メインの2人はもちろん、五十竹先生もいいアイデア出したし、むーちゃんの潤滑油度合いはいつにも増してすごいし、斜木先生は回想で頑張ってました。うーちゃんみたいなキャラをコロコロするのは運営としても楽しいと思う。実際高頻度で転がされてるし。
 あと、同人誌制作という目線で見ると、やはり漫トロでの5年間を思い出さずにはいられない。俺らは(個人寄稿とか除けば)ルーティンワーク的なところが多いから感覚的にはズレる部分もあるのだろうけど、自分で作ったものがフィジカルの媒体として現れたときの「おーっ」って気持ちくらいはわかる(※56)。しかしじゃな、こやつらは印刷所に電子データを入稿したり、会場で段ボールを開けてはじめて自分の本と対面したりしているじゃろ? わしらの頃はのぅ、コンビニで1部印刷してデータに狂いがないかを確認したあと、USBを大阪コピーに持っていって印刷してもらっていたんじゃ……そんでのぉ、バラバラに刷られた紙を1人あたり何百枚も手で折って、さらにそれをまた手作業で1冊にして妙に大きいホッチキスで留めていたんじゃぁ……アレのおかげでわしの肩と背中と腰はのぉ……。

※54:これも基本の構図に忠実なの笑う。そこまでしなくてもいいよと思ったけど、うーちゃんが聖典にしている以上、ということか。あとこの漫画ジャンプじゃなくてマガジン・サンデー・コロコロのどれかだろ。
※55:このようなフィクションが大人の手によって作られているという事実は重要だと思う。
※56:俺もめっちゃ頑張ったら同人小説書けねーかな!? いやまぁ、ここまで読んでる人ならわかるとおりキャラ降ろしたりするの壊滅的にできないんだけど……。

ちぃ的PPC
 白浜キターーーーー♪───O(≧∇≦)O────♪ 京都大学が所有する白浜海の家の利用権をフル活用できるということで漫トロ夏の合宿に利用される白浜が旅先になっており、マジで絶頂してしまった。すべてが手に入る地・とれとれ市場も当然取り上げられてて仏すぎ。あそこで見た真のマイルドヤンキーほんとにすごかったわ。ナン~キィ~~シラァ~ァハ~アァ~ァマ~~♪ あ、アドベンチャーワールドはもうノーパンダらしいっすよ。俺もあのときアドベンチャーワールド行く組に加わっときゃよかったかもな〜。
道中で見つけたかなりありえないポップ
 ストーリーの感想なんだが、初読時にきにゃりが赤ちゃんパンダのピンク色の話したあたりで「でも夏焼先生はいまは自分で髪ピンクに染めて(※57)ピンク色の服着てるわけでなぁ」って思ってたらほんとにそんなオチでワロタ。ワロタではない。これもいつかはボイスつくんだろうけど、耐えられる気がしないです(※58)。これ書くために読み返してたら深夜ラーメンで涙腺決壊しかけたし(自分でも信じられない出来事)。あーでも妹ちゃんsにオタクの思念が憑依するシーンで少し冷静になれました。自分、構造いけます!
出所したのに囚人服衣装を使っていることで文化盗用的な炎上をしてしまうという可能性についての懸念が広まっていると言わざるをえないこともないかもしれないし、ちぃ兄はかなりCiNiiに近い
 「PPC」の全体は、3章で夏焼先生の中心的な問題として設定された虚/実の対立を、自己満足/(真性の)利他という対立が付加されたうえで再構成する、というつくりになっている。夏焼先生は母からの愛情を受けて育つことがかなわなかったキャラクターだが、注がれないからこそ彼は愛情をより強く希求しなければならず、(母親に反発する姉・弥希とは対照的に)家族全員に仲良くしてほしいという思いを捨てきれない。そのため、パンダアンバサダー業務およびフォトウェディング企画を口実に、結婚して幸せに向かうさなかの姉夫婦、2人の妹、そして母を白浜に招待しようと決意するのだが、そこで夏焼先生は自分のピエロ的(つまりはアイドル的)なありかたに直面してしまう。家族仲を改善したいという本音を隠し、ビジネスライクな建前で相手を説得する。そのようなふるまいは、母に「あたしも弥希も客寄せパンダってことね」という言葉をぶつけられたとき、愛を知らないがために誰も幸せにできない、自己満足的で不出来なパンダとしての夏焼千弥を表すものとして露出させられてしまった。草食だけど肉食で、かわいいけれど本当の目つきは教えてくれないパンダ(※59)。昼はあんなに賑やかなのに夜はどこか不気味な白良浜を舞台に、夏焼先生は自己の矛盾に苦しむことになる。それを察した來人さんに「他人と過去は変えられないが、未来と自分は変えることができる」と助言をもらい、主任との会話(※60)を経て「自己満上等!」を引き受けたはずの夏焼先生はそれでもまだ、家族を変え、愛と無縁だった過去を代償したいという満たされるはずのない欲求を、自己満足がハッピーエンドに結実してほしいという甘ったるい願いを、捨て去ることができない。
 そんな夏焼先生に必要なのは、他人と過去を諦めて前に進むことでも、完全な悪としての自己満足という毒を取り込むことでもない。むしろ要求されるべきなのは、適度な自己満足=ワガママという薬と、理想(あるいは虚像)と真実の折衷案としての写真だった。母親の強烈なワガママに晒されて自分を抑圧せざるをえなかった夏焼先生や弥希にとって、家族(夏焼先生の場合は母親も)をそこに残して自分だけ幸せになるという抜け駆けは悪しき自己満足の極地なわけだが、同様の罪悪感を弟に対して抱える木ノ内先生が伝えるのは、罪の意識を消すためには相手が現在と未来で幸せだと知るしかない、ということだった。そしてそのような見地には「自分も幸せになるために相手に幸せになってほしい」というワガママも含まれなければならず、ここに自己満足と真性の利他という区別は溶融する。夜の浜辺でなされた秘密の会話とは、自分と未来のためのワガママを受け入れる戦略の出発点だった(※61)。とはいうものの、この未来向きの戦略は、どうしても他人と過去を諦めきれない夏焼先生の心にタッチしていないともいえる。來人さんの言葉が正しければ、他人と過去は絶対に変えることができない。しかし、それを正面から受け止めきれるほどには夏焼先生は強くない。だからここで迎えられるのがフォトブックなのだ。写真はときに実情とは乖離したものを生み出してしまう。それはちょうど、荒んだ母親も含めて撮影された姉夫婦のウェディングフォトが、母親の笑顔という「ありえないもの」を写しとったことに表れたように。しかし時が経ち、そこで撮られた写真を見返すとき、幸せだったという過去は、「真実」として捏造される。他人と過去は変えられないという強権的な真実に見出される、欺瞞に満ちたこの抜け道(※62)。それを夏焼先生は肯定するのだ。なぜか。それはこの抜け道が、思い込みに基盤を持つフェイクでありながらも、望ましい変化(※63)をする前に真実に窒息してしまわないための息継ぎでもあるからだ。本当は、弱くて、愛情に飽き足りない、白い赤ちゃんパンダかもしれない。夜の海に似た深い黒色の真実を抱え、しかしそれでも、あたたかな虚構をよるべに前を向き、メイクをし、アイドルとして舞台に立って、少しずつマグカップの底を塞いでゆく。真実と虚構を飲み込み、それを新たな「ほんとう」にする生き様こそ、夏焼千弥の最強アゲアゲギャルマインドの真髄だ。ギャルってこんな難解な生き物だったんですか?
 「PPC」、現状個人的ベストイベスト枠かも。もちろん俺がEv3ns贔屓で、通常運転で壊れてる來人さんとか、経験をもとにアドバイスしてくれる異常に優しい百目鬼先生とか、年下組の愛情に満ちた関係とか(木ノ内先生、人間関係にかんしては本当に先生すぎる)を見れて嬉しいのはあるんだけど……やっぱさぁ〜、基本構造に忠実な図式を見出す分析的な快と同時に正面から心打たれる感じも同じ熱量で存在しててさぁ〜、またそれかよって思われるかもしれないけど、今年の俺はもうそういうモードなんだよ。いやー、つれぇ〜〜〜〜! で、ピンパンチューンってなに? 特にチューン。

※57:いつも通り、黒の地毛とのグラデなのが大事ポイント。
※58:夏焼先生の区ノベもボイスついてから聴けてない、怖くて。
※59:しかし、パンダを見る観衆も、よく目を凝らせば彼らの瞳と対面することはできる。真なるものを秘匿しつつ、それでもなお世界とのアクセスを断ち切らないパンダの隈模様と、自分と他者のありようを少しずつ受け入れることで、自己-他者/アイドル-ファン関係における虚実のグラデーションを徐々に心に落とし込む夏焼先生はリンクしており、それを表象するのが透けたサングラスというアイテムであるのは、「PPC」を読んだらみんなわかることだ。ただ俺の意見では、Ev3nsの面々がサングラスをかけている本当の理由とは、白砂のビーチは照り返しがハンパなさすぎて前が見えないからだと思う。マジで目を開けてられないので、俺も近くのDAISOで間に合わせの帽子とサングラスを買ったのを覚えている。追記:つかこれも「眩しすぎて見ることができないものとの距離を測る」みたいなテーマ的な話ですね。上の構造抽出のレベルで明らかだったんだけど、思い出がまさってしまった。ホントに眩しかったんだもん!
※60:これとれとれ市場でやってたんだけど、とれとれ市場で真面目な話しないでください。そういうとこじゃないんで。
※61:この戦略を遂行するためには多少の束縛(重さ)が役に立つ。「幸せでいないと、許さない!」夏焼先生から弥希に手渡されたこの発言は、「家族」というラベリングに依拠した良性の呪いにちがいない。心向くんとの「約束」という関係も同様であることを考慮すれば、「PPC」は完全な解放の物語でも、それを是とする物語でも、ない。付言すると、Ev3nsはこの点でもグラデーションの様相を呈しており、ラベリング大好きな來人さんと関係性の限定などくだらないと吐き捨てる百目鬼先生、およびその間に挟まれた3人がどう変化するか、というユニットなのだ。いやー、「呪い」って一回使ってみたかったんすよね。こういう文言が入ると文章が一気に頭悪そうな(というか経験上、高確率で頭悪くなってる)感じ出るのがはたから見てて楽しくてですね。同じカテゴリに属する語彙の最高峰に「祈り」があるので、そちらにもチャレンジしたい。
※62:フィーチャーツアーに大人の付き添いなしで訪れた子供たちを助けるのもまた抜け道のひとつだ。
※63:この変化もまた、白良浜での会話のなかで木ノ内先生に背を押されて見出したものだった。自分の過去や家族との関係に適切に見切りをつけ、自分のワガママと幸せを通せるようになるという未だ遠くの目標に向けて変わっていくためにも「自分も幸せになるために相手に幸せになってほしい」という論理は援用される。それは、互いに支えあってきた姉や妹、区長になってから夏焼先生が振りまいた愛に影響された仲間やファン、彼らが向ける夏焼先生への感情に呼応するのだ。そうであるならば、夏焼先生がワガママに、幸せになることは、大切に思う彼らへの義務にもなるHAMAツアーズの仲間から送られたフォトブックや、今回の主要イベントであるウェディングフォトとは、第2の戦略における優れた虚構の象徴であると同時に、第1の戦略における必要な束縛でもあったのである。明らかに本文に含めるべき内容な気がするが、構成含めて一発書きのバカが入れ忘れたのでこっちに入れたことを申し添えておきます。

静かの海にたゆたう
 わかんねーんだが? いや、結論だけはやたらはっきり書いてくれているからわかる。ただそれに至る経路が非常にめんどくさい。まぁまぁまぁ、いうて経路も(そこにメインストーリー4章の再上映があることも含めて)多少はわかる。しかししかし、それらが金継ぎよろしく断片的に配置されているので、俺みたいな文体とは圧倒的に相性が悪いのだ。てか小説っぽさが増すとフツーに読めん。試練やね。注でちまちま頑張ろうかな〜。あ、一応漱石も読んでおいたがガッツリは触れないし(※64)、この記事の公開予定日はネタバレ禁止期間中なので区ノベ1.5部は未読のまま書いてます。
 さて、結論がわかりやすいなら、まずそこから始めるべきだろう。最終的に夜鷹さんは、作為的に自分の過去を封じ込めようとした由蛇(ハンネじゃないなら親の顔を見てみたすぎる名前だ)を鏡池の裁き(※65)にはかけない。むしろ選択されたのは、彼の行為の善悪を曖昧にする、つまり自分と彼についての真実を無理に開けっぴろげにしないことによって「愛すべき静謐」を守りながらも、彼の行為の真意に耳を傾けることによって少しずつ真実へ向かう、という試みだった。
 帰結ではなく意図。善悪ではなく愛。邪な趣きのあるニーチェ解釈は傍に置いておくとして、このいくぶんラディカルな意図主義は、この物語を通して夜班の仲間たちのふるまいから夜鷹さんが掴みとったものだった……夜班のファーストツアーを経て「愛すべき静謐」への滞留を拒否した夜鷹さんは、夢の中にこそ現が、つまり真実が秘められていると踏み、それを探り当てることで由蛇と向き合おうとする(※66)。そのために用いられたのがドリームなんちゃらプリンターだったが、忍野八海への研修旅行中、夜鷹さんは真実をこじ開けようとしすぎた結果、由蛇の薬の影響もあって、昏睡状態に陥ってしまう。その前後、夜鷹さん以外のメンバーは彼の身を案じておまじないアイテムをプレゼントしたり、伝承やジンクスを伝えたり、お茶をあげたり、さまざまなかたちで彼をサポートすることになる。このような思いやりを浴びることによって、夜鷹さんは行為の奥にある意図(もうひとつの真実)を見据える姿勢を獲得したわけだ。ここで指摘しておきたいのが、こうした道具ーとりわけジンクスやおまじないといった共通貨幣ーを利用した問題解決ロジックの描出は、「静かの海」もまた4章的なフレームワークに収められることを示している、ということ。4章の項で述べたように、おまじない、ジンクス、伝承といったものはみな、自己と外部の衝突事故による崩壊を予防するバッファの典型であり、それらの奥に包まれる思いと他者(ひいては世界)を緩やかに接続するための言語だ。今回の場合、バッファの奥に見出される思いとは愛だったわけである。ある面から眺めれば、「静かの海」とは、ファーストツアーを経て自分と他人をほどよく繋げることを覚えた夜班の面々が夜鷹さんの窓をノックし、それによって彼が由蛇の窓をノックできるようになった(※67)話だったといえよう。
万が一漫トロのこと忘れたらここらへんのセリフ使わせてもらいます
 ただ、「静かの海」という物語において、バッファとしての機能を持つ最たるものとは、最終的に選択されるところの夢それ自体だろう。夢の中には全てが存在して、全てが存在しない。だから思い通りといえば思い通りだと言えそうだが、実際のところそうではない。自分の意志では見られない、したがってただ待つしかないものこそ夢であるからだ。しかし同時に、夢はかならずしも現からの働きかけを拒否しない。ドリームなんちゃらで中身を探ろうとすることもできるし、薬や安眠グッズで間接的に影響を与えることもできる。さらに、そもそもの話をすれば、夢とは現からの構成物でもある(私たちはここで白百合が菖蒲になったことを、また夜鷹さんの夢に彼の知己がたびたび登場することを想起すべきだ)。この相反的な2つの性質を前にしたときに適切になる戦略が、自ら動いてその中身を掘り返そうとすることではなく、「うまく待つ」ことーこの「うまく」に夜鷹さんにおける主体性のありようを見てとってほしいーになるのは明らかだろう。夜鷹さんの選択の背後にある理路を粗い目で抽出するとこうなるのだが、であるならば、うまく待たれるところの夢とは、夜鷹さんにとっての外部であると同時に、彼自身の手でそれに働きかけ、他者との出会いの場として作りあげることのできるバッファなのだ。後者のありようは夢を巡って子たろをはじめとするキャラクターが夜鷹さんにアクセスしたことにも表れているが、さらに象徴的なのは、夜鷹さんが「愛すべき静謐」=夢として定義するものが、BAR夢十夜とイコールであることだろう。店を構え、主として根ざし、客を待つ。主にとってそれは、店を構える私的な動機と店内空間のデザイン権(※68)を有しながらも、個人的な事情とデザインにとっての埒外ーつまりはそこに訪れるさまざまな人々との交流ーを受容する営みである。そのような緩衝材的ありかたをしたバーの中で、カウンター越しに酒を酌み交わし、相手の真意を垣間見ることでその人と再び見える……「静かの海」における夜鷹さんを4章の灯りで照らし出すとすれば、おおよそこんなふうになるだろう。
 「メインストーリーの枠組みに収めることで夜鷹さんと向き合うことから逃げているんじゃないですか?」はい、そうです……。いやだってさー、面白いかどうかでいえば面白いんだけどさー、物語の語られかたとしては本当に苦手なタイプなんだもん、頑張ったほうですよこれ。いわゆる伏線のために事実関係に空白を作るにあたってはこういうスタイルが適しているのは理解できるけど、それやられたらさー、わかんなくなっちゃうよー。まぁ読む側も金継ぎスタイルでやるべきなんだろうが、適材適所というものがありますよね。というわけで、ぽまいら任せた!
あと凪っちはいつまでミルクセーキ引きずってんの?
あざとくすればええってもんちゃうぞ!(萌え豚なけなしの抵抗)
※64:読めばある程度関係は掴めるというのもあるし、俺が元ネタ合戦をあまり好まない(し、そもそも不得手だ)というのもある。
※65:すべてをはっきりと映し出す澄んだ水はその重要性を保ちながらも、バーのマスターであり、カクテル作りが得意な夜鷹さんのありかたと対比される。酒とは、純粋な水を破格に大切な起源として持っているにもかかわらず、そこに種々の混ざりものが入り乱れることによって人を夢現の境界へ誘う飲み物であり、「静かの海」において、「無くって有る」夢を選び取る彼の悟りと対応するものだ。まぁそこまでは書くまでもないことなのだけど、人体の構成要素としての水と酒、という観点も補助線としては有効だろう。人の身体の7割は水分でできているというが、逆に言えば3割はそうでないのであり、そして水分の内訳もまた一様ではない。そう考えると夜鷹さんが探究すべき自己とはやはり混ざりものとしての性格を多分に備えており、その点で池の水よりは酒に近いといえるわけだ。また、どのような体組成を備えているかは言うまでもなく「アポトーシス」の問題系と関連しており、さらには今回のサブホストである子タろにも関係する。宇宙人である子タろの身体がどうなってるかは知らんが、大事なのは、あまりに現の側に立ちすぎていた彼が凪っちとドナー契約を結び、人間という混ざりものを自らのうちに(たぶん経口)摂取したことにより、現から夢へーそれもその二者をどちらも損なわないようにー侵入できるようになったという筋書きだ。
※66:最終的な順序とは逆ということになる。
※67:なぜ今回はじめて学んだかといえば、これまで夜鷹さんが見てきた他者への踏み込みの実例とは、ピッキングで強引にドアを開け破る荒療治だけだったからだろう。もちろんそれは必要ないきさつだったわけだが。また、由蛇をノックするという点にかんしてもう一点言うことがあるとすれば、その際にもゆらめく火というアイテムがバッファとして利用されていることぐらいだろうか?(自信なくてワロタ)追記:あまりに自明すぎて4章の項に書くのを忘れていたが、メインストーリーで(つーかキャラ設定として)凪っちが花を渡すのもノックの一例。媒介項を経由させることによって可能になる自己と世界との調停作業を、俺たちはここにも見出さねばならない。しかしここで注意しておかなくてはならないことがある。特に凪っちの花による幸福移譲や糖衣先生のサイキネグッズ(子タろのひみつ道具も?)はそうなのだが、彼らによる「贈る」という行為はたんなる「辻褄合わせ」ではなく、リアルな力も持っている。この点は『18TRIP』全体の理解のためにも非常に重要。でもこういうのをスーパーな設定で組み込んじゃうのは愛らしいね。
※68:4章のチャプタータイトルは"Designs of Happiness"だったが、"Design"とは、それぞれに一国一城の主である彼らの自律性を描くための導線でもあったわけだ。ちなみに複数形なのはもちろん、4章で説明した主体的な意味づけの多様性を表すためである。そしてこれを書く場所、明らかに間違えている。

奇術に咲く弔花
おー(笑)(1歩引くことで身を守る)(3歩進んで2歩下がる)(人生はワンツーパンチ)(ABCDEFG)
 Ev3nsだいすきクン、クッソ萌える2。なんでこいつらの絡みこんな楽しいんだろう。わちゃわちゃパートのときに起きてるのがコミュニケーションというより反応だから? まぁなんにせよ、このストーリーもわちゃわちゃパートと真面目コミュニケーションパートの温度感の差で読者の反応をコントロールする系ではある。ただなんというか、展開を作る理屈はだいたい既出なんですよね。「メイク」(※69)というアイドルならば避けては通れない行為を題材に、基本的な動線としては3章で示された傷の開示を利用する、っつー感じ。しかし夏焼先生のケースと異なるのは、同じ傷の共有ではなく、木ノ内先生と百目鬼先生の傷の間に(両者の類似を維持しながら)確保された差分が、百目鬼先生を動かすトリガーになった点(※70)。サーカスの思い出にほんの少しでも温かみを見出すことのできる木ノ内先生を見て、百目鬼先生はPVの方向性を残酷劇=偽神の再演(※71)から変更するのだが……なんちゅーか、木ノ内先生の素直さにあてられた構図ですよね。百目鬼先生も素直、っつーか仮面をかぶることに誠実な人なんだけど、その誠実さの方向がコミュニケーションを通して一瞬変わったというか。別に根本的な誠実さが確保されているなら残酷劇を突き通したってよかったともいえるんだが、それができなかったのはおそらく、PVを残酷劇にするという仮面が自己解釈にかかわるものだったからですよね。木ノ内先生の告白を聞いて、自分の記憶がモノクロームに映える醜悪な赤ではなく色褪せたモノクロームでしかなかった、と百目鬼先生は気づかされる。自分を何者として認識するか、に密接に関係する記憶に偽証が生まれるのはイコール自己欺瞞の生成なわけで、「自分は偽らない」と嘯く世界に絶望した彼からするとそれは最悪の選択肢だったという(※72)。で、そのあとは数秒だけ自己開示に方向転換して、木ノ内先生の記憶に寄り添ったPVを撮影することで、Ev3nsのメンバーそれぞれに存在するあまりに虚ろでしかない側面が(嘲笑ではなく)葬送される(※73)。ざっくりこんな話だなとは思うものの、2人の差分はきっちり捉えようと思うと結構悩んじゃうね。たとえば、木ノ内先生が幼少期の記憶にモノクロ以外の色を見出せるのは、理不尽にアクセスするための時間的な距離が大きすぎる(その点でいっとう絶望的である)から逆に、というのもありうるよなぁとか思ったり。まぁ俺はいいですけどね、萌え〜になれれば。
クアッカワラビーと迷った
(かなり後追記)「砂像」のときに百目鬼先生の過去への執着を「半神」風味に表現したと思うんだけど、「弔花」で獲得された態度はそれとは表面上逆。ただ、これはおそらく百目鬼先生の問題系の再構成みたいなことで、彼にとって本当にビビッドな(≠セピア色の)過去とはなにか、を抽出するために不純物を取り除く作業なのかなと。母親の人形だった過去なんて正直(相対的には)些細なことで、今の百目鬼先生の核にある経験は來人さんとか、留学してからの出来事。まぁつまり、俺の言葉でいえば文脈の自覚的な見直しなんだろう。(追記終わり)

※69:Ev3nsにおいて虚実の対立は反復されており、当然メイクもそれを表す題材なのだが、これは直接的には夏焼先生から受け継がれたものだった。これ以外にも「弔花」は露骨にモチーフを他のストーリーから受け継いでいる(たとえばカクテルや白百合)。いやまぁこれまでもちょくちょくあったんすけど今回は明らかすぎて、1年近くやると明示的に時間帯の移り変わりを表現できる程度には再利用できるリソースが増えてくるのかなと思いますた。百目鬼先生がだいぶ夜班寄りというのもあるかも。
※70:「エスエス」的な機序が働いているような気もするが、特に根拠はない。
※71:グランギニョールってそういう感じの意味だったんすね。別のライチ〜くらいでしか見たことなかったから知らんかったわ(なけなしの漫画要素投入)。百目鬼先生はさすがに読んでそうだけど、好きだったらそれはそれで嫌かも。
※72:この作品の基本構図からして明らかだが、自己欺瞞は全シナリオを通じて禁忌肢。
※73:それをアイドルグループEv3nsのPVとして世界に公開することはまた違った意味を持つとは思う。私秘的な葬送の場合は葬送の事実すら忘却される可能性があるけど、それを彼らの履歴として残しておくことで、遠い過去とうまく距離をとりながらも忘れはしないで想い続ける、ということが可能になる、的な?

リセット≠アストロノーツ
 すばらしく出来がいい。情報の出しかたが本当に適切なので展開には心地いい緩急がいつも連れ立っているし、しかもこのゲームの精神性を(説明的になりすぎないレベルで)明晰に示してもくれている。「エイトリってどんな話なの?」と聞かれたら、俺は「リセット≠アストロノーツ」を勧めたい。いや、設定とかの予備知識はいるんだけど……。
 さて、コンセプト面も一読でスルッと入ってくるし俺の理解は(もはや太古の記憶になってしまった)前注と2章の一部に示しているので、いまなんの話をすればいいのかわからない。まぁ、主役のむーちゃん(何度も言うけどこのあだ名ほんとに俺が使っていいんかな?)の悩みの種になってるのは、千座の岩屋で解説された、地球は天の川銀河の内側にあるが、地球人が天の川銀河を外側から観測することはできない、という状況ですよね。また、物語序盤のイベントとして、むーちゃんにとっては異父兄妹の妹(「姫」と呼ばれており、笑う)が、ヒューマンミューティレーションされ失踪した父が遺した唯一の音声(※74)を上書きしてしまう場面が挿入される。のだけど、消えてしまえばもはや思い出せない声、さらに天の川銀河の観測不可能性が表象するのは、ひとつの認識的な隔絶なのだ、よね。認識も訂正も不可能な過去が「アストロノートになりたい」といういまの自分の夢を規定しているのではないか? 父がいなくならなかった並行世界(※75)を夢想する際のむーちゃんの頭を占有したのはこの問いだった。周囲の助けもあっていっとき問題は解決したかに思えたものの、ウルトラCの新情報開示により、それはまたぶり返してしまう。
このシェアハウスの中では比較的暮らしやすい部類の部屋にあたる
 この自己認識を調停するためには、自分と似た境遇にいながらも少し先行く、それゆえによき規範となるような先達(※76)が必要とされなければならない。そして、それはもちろんうーちゃん(何度も言うけど……)でしかありえない。父が消えた世界をともに拒絶したあのときが、いま再現されるべき対象である。そのためのロジックこそが、この物語でもっとも感動的なハイライトだろう。それはつまりこういうことだ。理不尽な外部干渉によって可能性が剪定されるのは(父の失踪といった大きな出来事だけでなく)毎日蓄積されるものであり、だからこそ自分たちはそれをすべて抱えて、今、ここを、正解にするしかない(※77)。射法八節の遵守、遺された音声の確認といった彼の慣習(=蓄積)はたしかに、手に余る外からの力によってかたちづくられたのかもしれない。だから、輝矢宗氏という矢は、射手でもある彼の思い通りに、理想的な直線を描くことはない。しかし、むしろその事実が、彼が自分の夢を持つことを後押しするのだ。というのも、手に負えないものがさながら宇宙のように圧倒的であるならば、賢明な者が取り組むべき課題は「どのようにしてその外に立つか?」ではなく「その内側でどのように生きればよいか?」になるはずだから。なら、実際どのように生きればよいのか。そこで私たちは、引力による時空の歪みに影響されながら飛ぶ矢の軌跡を注視しなければならない。星々にも見立てられるそれは人生における各点の連続であり、そうであるならば、私たちはそこに星座を描くことができるのだ。「今、ここ」に至るまでの道筋を記録し、それらに意味を与えることで、自分が納得できる物語を創出する。これが、父のいない世界を生きながらも「もし、そうでなかったら」を忘れられない彼が、両者と繋いだ手を離さないためのセーフティ・テザーだったのであり、だからこそ、軌跡を記録する日記帳と、たとえそんなものがなくても自分を記憶してくれる無二の友が必要なのだ。
 これほんといい話じゃないですか? 岩屋の景色が自然と人為の融合になってたのと一緒で、要するに「あれがデネブ、アルタイル、ベガ」と「君は指さす夏の大三角」をどっちも捉えたうえで後者に力点を置くことによって過去〜現在の自己を接続し、合理化する観点自体を創りあげる、つまり大人になるっつー話なんだが……制御不可能なものとの出会い、物語的生の創出、大人による子供の綺麗事などなど、子供が大人になるためのややこしい事情、生を解釈する視点の転換に伴う希望と悲哀(※78)を『18TRIP』の枠内で描こうとしたときにこれ以上のものが提出できますかと言われたら難しいと思ってしまうくらいお上手。神ストです。潮も、そう思うよな?

(かなり後追記)日記を燃やそうとしたむちゃーんの居場所をうちゃーんが突きとめるときに並行世界のむちゃーんから「ポラリスの君へ(後略)」とチャットが送信されるのだが(ワロタw)、これってどうなんですかね、というのはあるかも、とおもた。描写の意図としてはうちゃーんがむちゃーんにとってのポラリスであることはどれだけ世界が別様であっても不変(だからこそポラリスと称することが許される)だよん、ってことなのだろうが、しかしこの干渉もまた外部からの上書き事例なわけですよね。いや別に外部からの上書きで事態が好転するのが変って言いたいわけではなくて、上書きによって軌道変更されるのは価値的にはニュートラルで、とにかく変更されるという事実への恐怖がむちゃんを捉えていた。俺がんー?となるのはここで、上書きへの恐怖は確実に、その上書きを認識することができないという前提に支えられてたよね? と思うんすわ。だって、どういう変更が加えられたかを把握できているなら、たんにそのことを勘定に入れて自己の整合性を保てばいいんだから。だからこそ、むちゃーんの怯えは常に上書きされている「のかもしれない」という可能性の発見として表現されてきたんだろう。そう考えると、チャットがこちらの世界に届くというのは、物語をここまで導いてきた恐怖を基盤から崩してしまうことにつながってしまうんじゃないの? っていう。まぁチャットは次の瞬間には消えてるし、キャラクターの認識に残存しなければよい、みたいな感じなのかもしれないが……うーん。(かなり後追記終わり)と思ったが! 自分の生と上書き/干渉関係に立つところの外部っつーのは他者関係とパラレルなものとして想定されていたのだった。どういうことかというと、外部との関係を表現するために用いられた「ぜんぶ抱きしめて正解にする」という言い回しは明らかにウチャーとムチャーの指相撲(手だけの接触)の延長線上にあるものだからね、ということ(変な日本語)。だとすると、他者とはもちろん卑近なリアルなのだから、それと並行する外部が認識不可能な領域から認識可能な領域へ侵食してもかまわない、のかもしれない。というか、「リセット≠アストロノーツ」とは、認識不可能な可能性としての干渉への恐怖を、当の干渉可能性を自分にとっての極大のリアルとして仮設することによって、逆にそれを認識可能で調停可能なもの(≒頑張れば抱きしめることもできる他者)へと格下げするお話だった、ということ? やっぱこのストーリー、『18TRIP』すぎる……。ちなみに、言うまでもないが、このことをむーちゃんに教えてくれる久楽間先生もまた、この戦略を完璧に実行できるわけではない。だから指相撲でギリなわけよね。というかこれってまたもや文脈と自己の調停なんで、完璧にできたらこのゲームやることないんでサ終です。(ほんとに追記終わり)

※74:このストーリーを経たからこそなのは理解できるけど、最近音声2がフツーに出土しててワロタ。よかったね。あとこの世界に皇族いたんや……(King of the light mikado! What you get is all I need-power now! ウォーォーォー!(テーレレッテーテーレレレーレーテーレレッテーテレレレレレレレ…🚗💨)(なけなしの漫画要素投入、てか"King of the light"って「日光=いろは坂の王」=(日出処=ジャパニーズ)エンペラーって意味で、だからMIKADOなのか……なんやそれ!)。
※75:「リセット≠アストロノーツ」という傑作にひとつケチをつけろと命令されたら、こういうタームの選択と使いかたがめっちゃキショい、と言いたくなる。相対性理論を下敷きにした説明を聞かされて「……アインシュタインか。」と反応するのは、本当に頭のおかしくなってしまった科学史家ですらありえない。大将! エイトリ、衒学(未満)抜きで。👴<アイヨッ❗️
※76:つまりは彼にとっての弓道と同様の存在。世界と繋がれなかったがためにアイテムとの間に結んだ関係をのちに他者とのそれに敷衍するのは(主に)昼班メソッドである。つか弓道要素を真善美の1本(3本?)だけで賄っており、ある意味泣ける。
※77:言うまでもないが、ここにDay2的世界像の反復を見てとらなければならない。刹那と自己特権化の拒否によってすべての人とすべての時間の価値を均したうえで、「だからこそすべてが特別で価値あるもの(あるいはその逆)で、そのうち子供であるいまの自分にとって重要なのは、(蓄積を踏まえた)いまと自分なのだ」とする価値の再配分、sageてからageる戦略は、2章において五十竹先生が遂行したことの一部だった。このことは、実際には世界は映画でないという認識が一枚かまされているからこそ、「誰もが」主人公になれる事実に示されている。ついでに言わせてもらうと、2章との関連で俺がとりわけ好みなのは、うーちゃんの「今日はいつかの『あの日』かもしれない」というセリフ。ここでは「何度でも、勇気をくれる夏になる。」とのあいだに堆積的(Day2的)な世界認識が共有されながら、しかし事実に対して異なる価値付与がなされ、それでもなおこの2つから2章とまったく同じ結論が引き出されるという、どんでん返し返しとでも言うべき驚異的な構成が展開されている。こういう価値づけの自由自在さを見せられると俺は「いまエイトリ読んでる〜っ!(人生キタ〜〜ッ!)」と最高に気持ちよくなれるのら。
※78:注20と※18も参照。さて、この物語は2章のストーリーラインに沿った子供っぽさの確保を描いているともいえるが、俺の言葉で表現すれば、いままで試みられてきた「大人による子供の綺麗事」の次元に加え、「大人による大人の綺麗事」という次元をも切り拓く二輪構成の物語だ。なにせ、老年期にさしかかろうかという八景から見ても、すでにむーちゃんは「成熟した寓意」の使い手なのだから。しかしまた、「リセット≠アストロノーツ」には「子供による大人の綺麗事」も登場する。日記帳を燃やして全部なかったことにするなんてできない、という指摘を受け入れながら、なお父のいない世界で思い出を上書きすることに固執するむーちゃんの態度は、酸っぱい葡萄のお話にも似た子供っぽい拗ねだった。拗ねる子供の無理な背伸びをやめさせるには、こちらも子供の土俵に立つのが一番だ。だからうーちゃんは指相撲勝負をけしかけ、ずるい子供の常套手段で勝利を収めたわけである。そしてこの儀式は同時に、2人の大切な家族が揃っていた上書き以前のあの過去をーそれも手を繋ぐことによってー上書き後のいま再現することで、2つの世界を、ひいては、「による」など存在しないたんなる幼年期と(どのような観点によるものであれ)綺麗事を創り出さざるをえなくなったいつからかを接続する試みだったといえる。だから、「子供による大人の綺麗事」は拒否されるけども、そこに現れる「子供」が持つ真性の子供性は保存され、はるか昔に措定される観測不可能な(その観点には二度と立つことができない!)、しかし彼らを構成するあたたかな過去として仮構された、のだ。さて、そうなったときに思い返すべきなのは、メインストーリー2章における高校生たちの抵抗先はまさに「子供による大人の綺麗事」だったことだろう。ということは、久楽間先生が斜木先生の斜に構えた態度を否定したときも、無理に背伸びをするに至らせた彼の子供っぽさは、それを反省的に捉えてしまえばそのことによって失われてしまう当のものとして、つまりは究極のベタ=純粋さとして、潜在的に捉えられていたのではないか。ここには新たな喪失の哀しみと、喪失を経なければ得られない未来への希みがあり、そう考えると昼班の物語は俺にとって格別の美的なよさを帯びてくるのだが、まぁこれもあまり同意はされない(おそらく部分的に誤った)読みかただとは思う。てかそもそも俺の言語能力がお粗末すぎて何も伝わってないよね。ごめん。

Glow in the Dirty Rain
 福岡キターーーーー♪───O(≧∇≦)O────♪ 福岡っつーか博多だけど、こちらも漫トロの人と旅行しました。なのでその思い出語りを少々。きっかけはたしか俺が「屋台でおでんを食べるというベタを経験したい!」と言い出したこと。ただ注意しないといけないのは、博多の屋台ってほぼ全部観光客向けの浅いスポットだということで、そのなかで少しでも感じを出したいならどこに行くかが大事なんですよね。とりあえず中洲はダメ(蛎崎さんなにやってんすか! と思ったが、逆に、のやつっすよね、たぶん)。俺がとった戦略は、事前によさそうなところをいくつかピックアップしておいて当日実際に観察してみるというもの(天神周辺で探しました)。リサーチの甲斐あってか本番は常連と観光客が半々くらいの理想的なお店に入れたぜ。さっき屋台は観光客向けと書いたけど、裏を返せば博多住民はほとんど行かないということで、さらに裏を返せばその状況で屋台に通ってる逆張り住民はアクが強いということなんですよね。実際常連の人はみんな初対面でわかるくらいには個性的で、そういう人たちと一夜かぎりのおしゃべりをするのはめちゃくちゃ楽しかった。九州にしか生息できない毎秒ハラスメントおじさんとレスバしたのは最高の体験でしたね。おじさん含め、生意気なガキをほどほどに受け入れてくれるあたたかい人たちだったのでマジ感謝っす。博多旅行では他にも土地所有権濫用大量違法建築公園で遊ぶとか、牡蠣小屋で意図せず口数多い人と少ない人でハッキリ卓分かれちゃって無限不必要おしゃべり人間としての申し訳なさを感じたりとか、日本各地にある万葉の湯になぜか行ってスーパー銭湯のすごさを実感するとか、いろいろやったけど全部楽しくて、大学時代の旅でいちばん思い出に残ってるなぁ。ちなみに激浅博多旅行者である俺のイチオシスポットは圧倒的にサンセルコ。「昭和レトロ」のラベルを貼ることはできるけど、それにとどまらない鵺的カオスがあって超よかった。願わくは賑やかだった時代を見てみたかったね。
サンセルコ内の雑貨屋にて¥800+¥60=¥500で買ったサイモンとガーファンクルとジェンマ
安全性にかかわるなにかに抵触している気がする公園。奥に見える回転しそうなやつ速度無制限で本当にありえなかったです。
 思い出終わり。叢雲先生の話をしよう。「Glow in the Dirty Rain」はそれ以前に樋口美沙緒が叢雲先生の「気分」と呼んだものを詳述する回だが、とはいえ話すのは結構難しいストーリーではある。叢雲先生は読み手にかけるキャラ読み強要圧がかなり高い(※79)し、本筋の「お前傾いでるよ」は礼光おねーちゃんが大体言ってくれてくれてっからさ。じゃあどうしようかな、ということなのだが、ここでは叢雲先生と礼光おねーちゃんの対比、それも背骨の有無から少しズラした(しかし関係の深い)対比に着目してみることにしよう。
 さて、その対比とはなにかといえば、他人とそれらで構成された社会とを2人がそれぞれどのように捉えているか、という目線における対比だ。そして俺らはすでに、ポイントを掴むために非常に便利な道具を公式様からいただいていた。2人が一夜のかりそめを演じる舞台、イマーシブシアターである。観る者をも劇中に取り込むことによって観客/演者という区分を曖昧にした、比較的新しい演劇形態。それは、そのまま今回の主役2人の心象世界だ。一方では、劇場の中にいる人々は全員、なにかを演じている=本当を隠しているのだが、他方では、劇場の中にいる人々は全員、なにかを演じている=意味ある役割を担っている。これがちょうど、前者のように社会を捉える叢雲先生と、後者のように社会を捉える礼光おねーちゃんの対比に相当する、というわけである。社会と自分と他人を一括りに劇場空間に放り込んでしまう見かたはそれはそれで2人の持つ極端さの表れではあるのだが、とにもかくにも「Glow in the Dirty Rain」ではこの2つの世界観の交錯が描かれている。したがって、その世界観とはいかなるものなのか、次はそこに向かわなければならない。
 叢雲先生とは、生育環境ゆえに弱肉強食の世界観を内面化せざるをえず、また自らが虚像のつぎはぎであるがゆえに他人が持つ虚実のありようを一目で見抜けてしまう生き物だ。だから彼は、人間なんか自分含めて嘘だらけで、一皮剥けば醜悪な中身が詰まっていると、そしてまた、社会とは弱いやつから死んでゴミになる無意味な茶番だと、そう考えずにはいられない(※80)。嘘のヴェールを取り去ったあとに残った偏在する無意味を叢雲先生が受け入れるのとは対照的に、世界にヴェールを被せることで偏在する有意味を標榜するのが礼光おねーちゃん。輪廻転生というあまりにもデカすぎる設定を背負った彼(※81)は、生き続ける者の責務として、意味なく失われる命を許容しない、そしてそのような命には意味が吹き込まれなければならないという確固たる信条(背骨)を抱えている。そしてストーリーが展開するなかで、意味なく使い潰されるモノ=自分であるところの花瓶(ニャンピエちゃんも同様)が壊れるのを防ごうとした叢雲先生は肋骨を痛めてしまうが、本当のことを見抜くのにも長けた礼光おねーちゃん(そろそろ6文字も追加するの飽きてきました)が肋を的確に打撃することで両者の交渉が始まった(※82)。
 そこで礼光さん(飽きたので変えます)が言及するのが叢雲先生の「傾ぎ」、つまりはたまたま気が向いたのでやってみる、という気分。それが束ねられることで叢雲先生は不条理を追認するだけではない、なにかを意味する主体になれるかもしれない、と示唆される。のだが、それが完遂されるのは未来のことだ。「Glow in the Dirty Rain」はまずその一歩を踏み出すお話(※83)なのだから、とりあえずはその歩幅を測ってみよう。ここで同時に言われるのが、叢雲先生からすればそのときの自分のために気分でやったことも、相手からすれば親切に見えたりすることもある、ということ。ダイレクトに「エスエス」に適用できる当の発言は、しかしここでは彼のシアター的世界観へ差し込む光明としても解さなければならない。つまり、無意味から有意味への引き寄せとして。
 ただもう一度目線を変えて、叢雲先生のパーソナリティがどのようなものであるかを考慮に入れたうえでこのくだりを読み直してみるのもよいだろう。上述したように、叢雲先生とは虚像のパッチワークだった。もちろん彼にも「これが本当かもしれない」と思えるような自分ー「彼女」に話しかけるときの自分ーは存在し、それはひとつの核だといえる。とはいえ、それで十分なのは、叢雲先生が自分の生のフィールドがそこだけだと心の底から思えているときに限られる。そして実際にはそうでないからこそ、(あってしかるべき)裏がないということにおいて自身の世界像からの逸脱者である西園先生や主任に、叢雲先生はーときに羨望まじりのー苛立ちを覚えるのだ(※84)。しかしながら、西園先生や主任との関わりは、もはや自分でも自己認識がおぼつかないほどに虚ろな彼が世界との紐帯を獲得するためのヒントになった。この点はこれまでの『18TRIP』のストーリー構造と比較してもなかなか面白いので、すこしだけ詳述モードになろう。
 叢雲先生が生のフィールドを適切に拡大するにあたっての最大の課題とはなんだろうか。それは、(私的な空間に隔離されたかすかな本当の自分以外には)彼が虚像しか持っていないために、そもそも世界とつながるための自己が用意されていない、という点に集約される。これは紐帯以前の問題だ。だから、叢雲先生はそもそも適当な自己像を作りあげるところから始めなくてはならない。しかしどうやって? かすかに残った本当の自分をダイレクトに使用することは禁じられている。彼は(まだ?)そこまで自己開示ができる状態にはないから。そこで叢雲先生は、外部に近づく、あるいはそのための自分を用意する……はずはない。彼が行ったのはむしろ、今持っている虚像の自分ーそれも残酷な「真実」と表裏一体のーを普遍化することで、外部を「嘘」/「真実」という歪曲された二分法に従った世界像に収め、そうして築いた世界と虚像の自分を同型とみなすことだった。これで先述したシアター的世界像の出来上がり。砕けたメガネ、花瓶、ロボット、西園先生などなど、叢雲先生は常に自分以外のものと自分を重ねようとするが、それはこのようなルートで構築された世界像の内部にあるアイテムに付与された(※85)意味を確かめることで、逆に自己の輪郭をなぞる営みだったわけである。しかし、これはどこからどう見ても一人相撲だ。だから、叢雲先生はこのやりかただけでは誰ともつながることはできない。
 さて、自分は冷徹に現実を見つめていると考える叢雲先生に不足しているのは、他人がこの世界を眺めている視線についての知識だろう(※86)。いまこそ、礼光さんの発言を思い返すときだ。「お前は気まぐれと言うが、受け取る側はそれを親切と感じる場合もあるだろう」……虚像しか持っていない叢雲先生は、自分以外から自己像を、世界における意味を、備給してもらうほかない。なら、それを逆手にとってしまえばいい。つまり、最初に本当の自分を外部に提示する必要などなかったのだ。気分によって演じられた虚像(※87)を他者が親切とみなすー西園先生や主任が「勘違い」するーことによって、叢雲添という人間像が創造される。そして驚くべきことに、外部からの意味補給を欲する叢雲先生が確かめることで、それは本当に自己像になってしまう(※88)のであり、そのとき、叢雲先生と他者とが共有する意味の空間が出現する……実行されたのがまったく新たな論理であることは明白だろう。これまでのストーリーでは基本的に、世界とつながるべき自己、自己とつながるべき世界はともにはじめから存在していた。しかし「Glow in the Dirty Rain」においては、演じることによって両者が遂行的に創出されてしまうのだ(※89)。イマーシブシアターという道具の真の含意はここに存する。なぜなら、劇場と演者は演技によってはじめて成立するのだから。
 なんか叢雲先生に向きあったら結構いい感じになったわ。ストーリーの本筋にあんまり触れていないという難点はあるんですけど……じゃあ失敗なんじゃないですか? ニョワ〜〜〜〜〜(※90)
 そういえば最近叢雲先生関連で感心したことがあって、企画部トークすごくないっすか? 経営配置めっちゃテキトーだからついこないだ見れたんすけど、クズキャラにこのセリフ言わせることで会社の飲み会嫌いな人の溜飲下げるの、ノーリスクローリターン(ローなのはこれで得られるリターンの最大値なんぞたかが知れてるから)でかなりテクい。でも僕は飲み会行きたいです。酒弱いけど。

※79:俺は「叢雲先生はまぁまぁ掴みやすいキャラだな〜」と思いつつも、(ずっと言ってるけど)彼の感じにどうノればいいのかよくわからなくて、にもかかわらず世間的にはクッソ人気キャラなのを「どのあたりがウケてんだろう?」と不思議に思っていた。のだけども、俺と現代キャラコンテンツ消費者のボリューム層との違いを加味したうえでなら、キャラ単体をちゃんと見るのを要求してくるという特性はこのふたつをどっちも説明してくれるかもしれないね。まぁ徐々に「おっ、取り持ちお疲れ様です」とか「ラノベモードきたああああああ」(基本ラノベモードではある)みたいな楽しみかたがわかってきたし、直近はフィーチャーを経て吹っ切れたのか傾ぎまくっててめっちゃおもろいっす。
※80:これだけ見ればただの中学生的ニヒリズムなのだが、まぁそれを採用するバックボーンは一応あるので、許します。
※81:初見時爆笑設定のひとつ。このゲーム大味な道具いくつ使えば気が済むんだよと思ったのを覚えている。そこがエンタメ的に楽しいんだけどね。
※82:この肋が衣川先生的な意味での肋であるのは言うまでもない。それはつまり演じるという面に重心を置いた劇場的世界像のことだが、礼光さんが指摘したように叢雲先生は自己防衛のために当の世界像を作り上げたという面もある。自己防衛のためとはいっても、「ニュー・シネマ・ダイナソーズ」における五十竹先生などのような現実から遊離したありかたとは異なり、叢雲先生の世界観は冷ややかな「現状」認識に基づいている。だから彼の肋は拳でこじ開けないといけない程度には堅い。しかしまた、肋である以上それが外から完全に打ち破られることもありえない。叢雲先生の認識が全面的に改変されるのは彼の意志によってのみであり、逆に彼の意志によってなされたならばそれは正しくなるにちがいない。また、そもそも今回の綻びも、そのきっかけは傾ぎによる自壊であった。要するに、最終審級はまたもや自律性なのであって、これこそ『18TRIP』の背骨だろう。
※83:Dirty Rainの中のGlowって雷じゃん! というツイートを発見した(https://x.com/477182ramen/status/1952338635006922849?s=20)。あーたしかにね、と思いはしたんだけど、雷はGlowって感じの光じゃねぇだろ感もあり(GLOW の定義と意味|Collins英語辞典)、でもこの事実推量は合ってる気がするので、だとすると公式が変なのかもしれない。でもCollinsでいうところの6.みたいなニュアンスでとるのは「エモい」かもしれないですね。
※84:2人への苛立ちは同じ場所に根を持つが、表出する形態には違いもある。雑にいえば、主任への苛立ちは「(世界と他人の)裏を知らないし知ったところで耐えられないのに踏み込んでくるなよ」であり、西園先生への苛立ちは「お前も裏を知っているのになんで知らない人間みたいに振る舞えるんだよ」だ。まぁ両者とも「俺が合わせてやってるのに」的なものを含んではいる。ちなみに西園先生が裏を知らないようなふるまいと自己認識を保っているのは展開されるべきところだったようで(まぁ、それはそう)、「痕跡」ではその点に動きがある。
西園先生は俺とちがって人の変化に気づけてすごい
※85:というより、世界像を構築する際に自分で付与したのだが。
※86:もちろん、叢雲先生の捉える「現実」もまた現実であるのは間違いない。ただ、世界は彼の視線だけで汲み尽くせるほど浅くはないのも明らかだろう。
※87:作中では、気分は叢雲先生の本当、として描かれている。実際そうなのだろうし、もしそうでなければ気分によって演じるということ自体不可能になるのだが、とはいえここは結構微妙なところ。というのも、礼光さんとの会話において「傾ぎ」という言葉が投げかけられたとき、叢雲先生の世界像は別の段階へ移行したのであり、したがってそのとき、「気分」という語が属する意味論も変質したにちがいないからだ。いったいこのときなにが「本当」なのか? 正直『18TRIP』とは一切関係のない難題です。
※88:ただ、その過程が一挙に実行されるなんてことは(実際問題として)ありえない。「このバカ犬、ま〜た勘違いしちゃってるよ」のターンもまだ必要にはなるだろう。というかそもそも、このプロセスによって叢雲先生が完全に塗り替えられるはずがない。先に述べたように、叢雲先生には(まだほとんど)隔離された自分も存在するのだった。だからなされるのは世界と仲介されるべき自己の創出、およびその自己と私的な自己のーそれがまさに同じ自己であるために行われなければならないー融合、ゆえに可能になる自己開示だ。練牙さんチョロすぎますって笑
※89:翻って、実は今までの物語も本当はそのような物語だったのではないか? と考えられるかもしれない。それはそれで楽しい。
※90:流石に叢雲先生の筋の通った怒り、および主任との会話に触れないのはヤバい気がするので触れる。俺が暴走気味に展開した論旨に沿うかたちでそのあたりを捉えるなら、大体次のような感じ。自分の世界像が「裏返しの駄々」の表れだと指摘されたときに叢雲先生が😡になり、それが礼光さんから高評価(たぶん星4くらい)されるのは、その世界像もまた自分の一部だから。で、礼光さんと一晩会話して「傾ぎ」のフィルターが叢雲先生に挿入されると、主任の行動もその相から捉えられるようになる。そして叢雲先生にとって他人とは自分(という面もめちゃある)なのだから、主任の行動をそのように眺めることを通じて過去の自分もそうだったのだ、という自己認識が形成される。クソ手抜きだけど、以上! ちなみに、「Glow in the Dirty Rain」で叢雲先生が自分から傾ぎ=気分モードになるときは、前段として「どうせこれ失敗したら死ぬんだし、なら気が向く方に行くわ」的な心理がかならず働いている。これは要するに叢雲先生の「現実」認識におけるマジで現実な部分に基づいた意志決定のジャンプだが、ある意味でニヒリスティッシュな態度から他者を益する行動が発生する経路には『18TRIP』みを(とりわけ※77的なそれを)感じておくべきだろう

鬼メラ祭囃子
 クソデカ囃子に影響されましたと言われても驚かない変なタイトル。あとこれ読んでちいおにーずがおじゃる丸のアイツらだということに気づいた。たぶん遅い。さてさて、究極的にはコミュニケーションがA面しか存在しない系ぶっ壊れ男子の來人さんが機微を学ぶぞ! と頑張る回なのだが、俺も他人の感情を読めずに意図しない破壊をしてしまった経験が何度かあるから自分を重ねちゃうっち……。破壊は意図してやるべきだっちね(DOMEKism(※91))。來人さんが機微に疎いのは、他人と自分を並列に扱ったことがないがゆえに内面の実例をひとつしか知らず、しかもその実例が嘘や隠しごとをほとんど持たない彼自身だからだった。そんな彼がメインストーリーを経て、他人と適切に横並びになるために、自分の不出来な面と正面から向きあえるようになったのだと、そしてまた相手の内側に本音や黙っておきたい秘密(※92)を想定するという基本的な(しかし奥深い)操作を学習できるようになったのだと示したのが「鬼メラ」だろう(※93)。そして、同じ物語を木ノ内先生の方から眺めると、來人さんが牛頭と同じようにお面(※94)を手渡してくれたことで、多くのマイナスと少しのプラスで縁取られた過去のなかから(もしかすると実際より多くの)プラスを抽出できるようになったということになる。もちろん悲惨な過去と自分を(そしてタイキを)切り離すことなどできやしないのだが、もし來人さんのような人があのときいてくれれば少しは違ったかも、という思考が成立する程度には理不尽は相対化され、世界とのつながりは回復された、ちゅーことよね。お盆の話はみなさんにお任せします。でもさー、きにゃりも欠陥を指摘する役割で來人さんをサポートしててよかったね。
 しかしこいつらキャワすぎる(n回目)。特に鬼メラは來人さんがめっちゃかわいいですね。そのためのストーリーなんだから当然だけど。明け透けな人の愛嬌というのはやはりあるなというか、「愛嬌」というのは明け透けなものに適用するはずだった言葉なのだなと思わされます。とはいえ、個人的なハイライトはまだ俺の知らない言葉(「だにん」など)を繰り出せる夏焼先生です。
Hans Zimmerのことだった場合、怖いですよね
でもやっぱりらいてぃんキャワしゅぎ!←ソレナ❗️👈👈(´∀`)<ゲッツ!
※91:KUGURismの場合、かなりホットアイマスク感が出てしまうのでこちらで。
※92:これはもちろん百目鬼先生が言う秘密のこと。ちなみに今回、自分の過去を無意識に隠すのに他人の過去は引き出したいと考える非対称性を示した來人さんを見て百目鬼先生は非常にイキイキしていたが(それを見る僕も嬉しいです)、これは來人さんにとって致命傷ではない。なぜならそれはたんなる自己矛盾(ダブルスタンダードと表現するのが適切だとは思う)であって(自己解釈の崩壊を招くような)自己欺瞞ではなく、まぁ言ってしまえば、直したらそれでおしまい、という問題だから。実際「鬼メラ」の來人さんは木ノ内先生に対し、秘密に深く踏み込まないという歩み寄りを実行することでこの矛盾を部分的に解消し、さらには「抉り出し」てみることなく秘密を手に入れた。まぁ、「あの來人さんが不安だから確認してくるなんて……」という初心者ボーナス、ヤンキー路上放置犬保護効果ありきではあるけどもそれはさておき、だから「鬼メラ」は「弔花」の逆なのよね。内容的にもまんま北風と太陽、つまりはストーリー間に生起するグラデーション的相補関係なのだ🌪️☀️。
※93:ただ、來人さんの変化で最も重要なのは、悩みを聞き出したいという胸の内が気遣いに包まれることで木ノ内先生から見えなくなっていたということ、つまり來人さんの内側に新規な明け透けでない部分が生まれたことかもしれない。もちろんこれは彼にとってよい変化だ。
※94:一応手持ちのカードと結びつけておくと、お面とは「PPC」的フェイクかつ「静かの海」的愛である。

ニュー・シネマ・ダイナソー
 「五十竹先生、ずっと防衛機制働かせてるなぁ」と全プレイヤーが思っていたわけだが、ついにツッコミが入る。俺がいまこんな駄文書いてるのもポジティブジャンプの可能性が非常に高いのだけど、それにツッコミは入れないでください。いえ、本当は入れられないとマズいんです。助けてください。
 んまぁ、ストーリーラインはシンプルでよいですね。朔ちゃん先生があれだけシナリオ講座をやっているのに複雑だったら意味不明なので当然だけども。五十竹先生がいつもやってる連想ゲーム、空からビビッと降ってくる隕石は、実のところ幼少期に置かれた劣悪な環境を生き延びるために必要だった「ビジョンの転換」(※95)で、それは彼が恐竜(=スーパーグレートな創作者)として卵(※96)から出ようとするときに白亜紀よろしく絶滅の原因になってしまう、これが基本線。現実から目を背けるために楽観的になる彼に必要なのは、現実に引き戻すための痛み(※97)と、現実逃避という同じ種からネガティブループという対照的な芽を出す衣川先生だ。五十竹先生の現実逃避は自分を大切にしていないことの裏返しであり、したがって主任の伝家の宝刀「もっと自分を大切にしよう!」が効果を発揮することになる(マジで水戸黄門の印籠くらいの頻度で出てくる)。ただ、五十竹先生がそれを得心するのは衣川先生とのやりとりのなかで、だ。自分が大切に思う相手もまた自分を大切に思っている、そしてなにかあれば自分を助けようとしてくれる(※98)という事実を経由して自分の価値を確かめることで、五十竹先生は過去と、それに由来する自らのありようと正面から対峙できる。用いられているのは徹頭徹尾2章的なロジック、とりわけ、「あく太くんが、どうしても自分のことを信じられないなら──あく太くんのことを信じてる、俺たちのことを信じてくれないかな。」である。
 ただ、(「言われんでもわかっとるわ」となるだろうが備忘録的に)一応言っておくと「ニュー・シネマ・ダイナソーズ」はポジティブジャンピングなありかたを完全に撲滅するお話ではない。それが五十竹先生の人間的魅力に貢献しており、もし失われれば彼のキャラクターとしての面白みはかなりの部分損なわれてしまう、というのは直観的に明らかなのだが、取捨選択されたモチーフを利用して同じことを(半ば「考察」っぽく)言うこともできる。上に述べたように、ポジティブジャンプとは恐竜を絶滅させた隕石だった。しかし、地球の歴史において小さな星(※99)の衝突がもたらしたのは、白亜紀末の大量絶滅だけではない。ここで思い起こすべきは、ストーリー終盤、前に進んだ五十竹先生から溢れ出す創作エネルギー/メッセージがマグマに喩えられていたことだ。俺とお前らの連想ゲーム脳はビビッと同じ場所に辿りつく。そう、マグマオーシャンだ。地球が今の姿になるまでの形成期、天体の衝突によって地表は灼熱のマグマに覆われていた……(合ってるよね?)しかし誰がマグマオーシャンは必要なかったと言うだろうか?(たぶん言わないよね?)当然それは地球がいい感じになるために必要な段階だった。ただ、ずっとそれじゃあ困るというだけで。つまり、ポジティブジャンピングな天啓(※100)とは創作者としての五十竹先生になくてはならない武器であり、とはいえ、それが生み出す莫大な熱はうまく冷まされなくてはならないのだ東尋坊の見事な景観をつくりあげる柱状節理もまたマグマが冷えて固まることでできた地形だ)。このようにポジティブジャンプとの和解という目線を持ってストーリーを見直してみると、同じような要素は否が応でも目につく。たとえば、『夜空のラヴ・コール』とはまさに、宇宙(そら)からやってきたライミン(※101)と接近し、しかし最後には友情を保ちながらお別れする物語であったわけだ。ポジティブジャンプとうまく付きあう、つまり自分を騙すための逃走ルートとしてではなく、現実を全力で駆け抜けるためのエンジンとして利用すること(※102)ができれば、五十竹先生は映画監督として大成する一歩を踏み出せる。その一歩一歩の積み重ねは、やがて人々をして偉大なる大恐竜の化石を展示させるにちがいない。あとあの〜、なんとかかんとか映画部、だっけ? の部室も残るぞ! よかったな!
 こっからは本当に個人的な感想なんだが、いや、俺もさぁ、ひとつのこと完成まで持ってくのほんとにできないっていうか、たぶんいままで「自分で完成させたぞ!」ってなったこと一度もないんだよね(この記事がちゃんと完成してたら褒めてほしい)。超絶飽き性で苦痛に弱いから忍耐力なくて、みたいな。身につけたスキルとかマジでゼロ。自分でもヤベーなって思う。だから五十竹先生には共感するところが多分にあるんすよね。俺がそんな感じなのにはエピソード的理由とか一切ないから五十竹先生みたいに解決するのは無理なんだけど、それでも励みにはなりました。応援してます。
これを寝転がりながら脳内で完結させて行動にすら移さないのが俺
※95:ここまで読んでくれた奇特な人なら、ものの見かたの変化がこの作品の(俺流)理解にとって本質的であることは容易に理解できるだろう。その点にかんする「ニュー・シネマ・ダイナソーズ」の新規性は、文脈を緩めるような営みだけでなく、自己欺瞞のようなマイナスもまた、ものの見かたの一例であることを明示した点にある。もちろん、生きるために必要だった自己欺瞞もまた五十竹先生の一部として蓄積されており、この物語はその事実を彼が自らの地層から発掘し、受け入れるためのものでもあるのだが。
※96:五十竹先生と卵との間にはアナロジーが成立するが、衣川先生によってそれがディスアナロジーであることも指摘される。化石の卵は生まれてないが五十竹先生の感情は生まれている、ということなのだが、卵も中で命芽吹いてたくね? と思わんでもない。
※97:まぁこの痛みは要するに彼の過去や無視してはいけない眼前のネガティヴな出来事と(その点では)等価であるのだから、現実に引き戻す手段というより現実それ自体かもしれない。
※98:衣川先生たちが仲間を大切にする方法とは相手を誰にも否定されない空想の肋(仲間との空間)に引き入れるというもの。だから五十竹先生にとって仲間とは包摂と痛みをともに与えてくれるリアリティ(およびリアルなフィクション)なんすね。あと読んでて気づいたんだけど、肋ってたしかに壁ではあるけど外↔︎内で相手を見る/相手から見られるという関係が成立するものでもあるんですよね。だから良くも悪くも折衷案を好む『18TRIP』に適したモチーフではあるし、衣川先生が他者(現状)観察能力に優れたキャラクター(↔︎これまでの五十竹先生)である部分的な理由にもなる。関連してストーリーラストで示唆される五十竹先生の新たな問題についても触れておきます。あれがなぜ問題になるのかといえば、それは現実/虚構二分法の崩壊を招きうる、つまり映画というフィクションが不可能になるから、さらには昼班が属する「空想の」肋が変質しうるからで、まぁそういう感じの展開になるんだろうね。正直な話、未来予想には一片の価値もないと思ってはいるのだが……。
※99:惑星関連の専門用語の定義を知らないのでチキっています。つかこういう要素の使い方って地学の人とか別になんも思わんのかな。俺がアリストテレスとかニーチェ引き合いに出されてピキるのとはちょっと話が違いそうではある。
※100:「ポジティブジャンピング」と表現しているのは、そのようなありかたとストーリー内の「ポジティブジャンプ」を完全に同一視すると誤読になるため。「ニュー・シネマ・ダイナソーズ」では、「ポジティブジャンプ」は不適切な場面でなされる現実逃避(による自己防衛)の意味で使用されており、だからこそ空から降る隕石と地球の内部から湧き上がるマグマという、価値的にはマイナス/プラスの対比が成立する。俺がここで扱いたいのは、連想力を発揮するべき場面での適切な連想、つまりはポジティヴな「ポジティブジャンプ」とでも言うべきもの。そしてこれもまた外からやってくる、しかし内なるマグマの発生に貢献するという点で有益なものだということであり、ポジティヴな「ポジティブジャンプ」を駆使することで(ネガティヴな「ポジティブジャンプ」も含む)「ポジティブジャンプ」とうまくやっていく、というのが直後に書かれた「和解」の意味するところだ。衣川先生も「ジャンプしちゃいけないときにジャンプしたら止める」って言ってたし、この補足があれば特に問題はないんじゃないかな?
※101:ライミンってたぶんホイミン、もしくはライアン+ホイミンですよね。「こいつホイミスライムに似てるなぁ……てかストーリー的にもピッタリやん!」からこのネーミングが生まれたのだとしたらかなりポジティブジャンプっぽく、心配です(俺がジャンプしている説もあり、その場合は心配してください)。
※102:これもまた自分を取り巻く文脈との距離を調整する、という『18TRIP』的な営みではあるものの、(卵の扱いを思い出してほしいのだが)五十竹先生を含めた一部のキャラがやっているのは文脈と同化するのを中止して外に吐き出し、文脈を真に外部から規定しようとしてくる文脈にしてしまうことなのかもしれない。たしかに、自己の内側にあるという意味で文脈でないものと適切な距離をとろうとすることはできない(そもそも距離をどのように測ればよいのかわからない)。だからそもそもそれを文脈にしてあげる作業が必要なときもある。ただ、それを自分の外に置かなくてはならないと思えるのは、やはりそれと距離が離れていると感じることができるからだろう。つまり、外に吐き出そうと思えるためにはそれはすでに外に吐き出されていなければならず、自己の内部に抱えられたなにかを文脈にするためにはすでにそれは文脈でなければならない。したがって、ここにはひとつの循環が存在することになる。いったん少しでも文脈がそれとして成立すれば、自分の力でそれと距離を調整することはできる。ただ、最初の一歩だけは、自分の意志によるのでない飛躍によって達成されなければならないように思われるのだ。もしかすると、『18TRIP』においてキャラクターたちが前に進むために常に他者を必要とするのは、このような事情に関係するのかもしれない。

痕跡 - 夢幻は宿縁となりて -
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
        !!    (※)CP表記の意図はございません。

あと無駄に長くてごめんなさい!


(かなり後追記) 
 もう公開から結構経ったし構造とります。さて、めっっっちゃおもろい! いやめっっっっっっっちゃおもろいのだが、その面白さは過去ストーリーを踏み台にした展開上のスペクタクルに依存しているような気もしており、テーマ面で劇的な進展があったのかというとよくわからない、というのが本音。とはいえ、仮にパッチワーク的側面が強かったとしてもその繋げかたが純粋に楽しいし、読解難易度(特に研修旅行中)はこのゲームの中ではトップクラスだし、前提ストーリーもかなりあるということを踏まえれば、これまで見てきたストーリーは(2026年1月現在では)「痕跡」への登山道として捉えることもできる。読む人がいないので別にする必要もないのだが、一応前提ストーリーを確認してみる。メインストーリーは当然として、まず事実関係を把握するためには西園先生と礼光さんの区長ノベル1部(余裕あれば1.5部も)までは必須。テーマ的には「Voyage」「エスエス」「Glow in the Dirty Rain」(この先ちょいちょい言及しそうなので以下「GDR」)、あとは一応大黒先生の区長ノベル1.5部、「静かの海」など夜鷹さん関係、「アストロノーツ」も抑えておければかなりいいかな。個人的には「GDR」のロジックを把握しているかどうかに「痕跡」の理解はかかっていると思う。(※103)めちゃ大事ストーリーだったんすね、さすがは叢雲先生や!
 おそらく「痕跡」についての語りをここからスタートさせた人はほぼいないと思うのだが、さっそく「GDR」との比較から入ろう。「GDR」においては、イマーシブシアターという道具を使用することによって、世界にどのようなフィルターをかけているか、という点から礼光さんと叢雲先生の差が描写されていたのだった。そしてそれは同時に、一見極度のリアリストに思える叢雲先生も、彼の「リアル」を世界に被せているにすぎないという事実の描写でもある。さて、ここで単刀直入に(というかいったん過度の単純化を施して)言えば、「痕跡」とは、「GDR」におけるこの二者関係を、礼光さんの立場を逆側に移し替えて再上映した物語だ。さらにちょっとだけ具体的に要約するのならこうなる。「痕跡」とは、輪廻という「リアル」を生きる礼光さんに「フェイク」を、今生という「フェイク」に囚われた西園先生に「リアル」を、互いが互いに与えあう物語である、と(※104)。研修旅行と、帰ってきてからのバカデカトラブル、それを経た2人の変化は、そのような中心的アイデアの実践として読まれることが想定されている。
 というわけで、この線で「痕跡」を読んでいく(※105)ために、ざっくり状況を整理しよう。礼光さんにとっての「リアル」とは、すぐ上で触れたように輪廻転生、およびそこにつきまとうキバとの宿縁であり、それは必然的に彼にとって極度に個人的かつ後ろ暗いものになる。だから、廻り続ける世界はこれ以上ないほどに「真実」であるにもかかわらず、「巻き込む」のをきらって(※106)、礼光さんはそこにキバ以外の他者を招くことはしない。ここに表れているのは平穏な「フェイク」を守るという目標だが、「GDR」でそうしたように、極めて自覚的に意味を世界に付与する礼光さんは、そうであるがゆえに虚実の境目を厳格にしなければならない。逆に(厳密に)いえば、虚実の区別がこのうえなく堅固だからこそ、自覚的に世界を意味の集まりとして把握することができるのが礼光さん。要するに、自分は他者とまったく違う世界を生きていると確信しつつ、だからこそそれを表には出さない、みたいな。はい次、西園先生。「痕跡」の西園先生は徹底的に、礼光さんの考える「フェイク」な世界の住人だ(※107)。自分が定められた因果という究極的な真実どころか、キバの「本当の」パーソナリティしか知らないのだから。しかしながら、徹底的に「フェイク」に溺れている彼にしかできないこともある。ま、それが「痕跡」の筋書きなわけですね。状況整理終わり。
 雑に準備を終えたところで、「リアル」/「フェイク」から「痕跡」を考えるために、ストーリー中に繰り返し用いられる「間違え」に目を向けてみよう。たとえばそれは礼光さんが過去の生と現在の生を取り違えることに代表されるのだが、ここではちょっとわかりづらい例として、西園先生の言い間違いを取りあげてみる(※108)。「どうせ2人の好みが一致することなどないのだから」と、姉と妹に渡す用の(温泉を入れて持ち帰る)スプレーボトルの柄など気に留めない礼光さんに対して、西園先生は次のように言ったのだった。礼光さんは「木を見て森を見ずのことなら、意味も言葉も逆だ」と返すのだが(※109)、実は(というか明らかに?)、この指摘こそ、礼光さんに最も必要なものだった。というのもこの言い間違えは、輪廻という大局=「リアル」を念頭に置きすぎるあまり、目の前の一回一回の生という小局=「フェイク」を軽視してしまう彼(※110)の実情を見事に言い当てているからである。最新ストーリーまで俺の文章を追ってくれた人ならば理解できるはずだが、ここでなされているのはまたもや「リアル」への「フェイク」の侵入、世界と相対するときに必要な皮膜の挿入だ。
 ただし。「痕跡」が既存ストーリーのパッチワークでない可能性が残されているのも、こうした「間違え」の空間内部なのだ。これから2つのポイントに沿ってそのことを展開するぞ! がんばるぞ! まず一点。ついさっき「リアル」への「フェイク」の侵入と書いたが、この「リアル」はリアルで、「フェイク」はフェイクなのだろうか(※111)? そうとは言い切れない、と強調されているのが、上述した礼光さんの勘違いというわかりやすい例だ。大黒先生アンドゆきのんと老木を見ながらの会話中、礼光さんは彼らと夢で見た「誰か」を取り違えてしまうが、これはどのような出来事だったのか。輪廻を本質的だと考えるなら、一連の流れは過去生=リアルの今生=フェイクへの流出でしかありえない。この場面の礼光さんが取り違えの原因を過去生に見出していたなら、導き出されるのはこの認識だろう。しかし、輪廻が存在することなど知りもしない大黒先生たちからすれば、礼光さんの間違えは夢や過去の経験=フェイクを現在の現実=リアルへ誤って適用したものでしかない。二者のせめぎあいが存在するかぎり、さきほどの引用符は解除できない(※112)。「痕跡」に見出しうる新規性のひとつは、いままで散々使ってきたリアル/フェイクという対立自体も、「リアル」/「フェイク」という虚実入り乱れる運動なのではないかと示唆した点にある。このように考えると、「森見て木見ず」が実情を言い当てていることの意味もよく見えてくるし、もっといえば、「GDR」はフェイクがリアルとして創り出されるプロセスを描いていたという点において、「痕跡」の観点の存在を予示していた物語だった、とかもいえるのかもしれない。
 次に2つ目のポイント。たぶんこっちのほうが面白い。注目すべき事実は、「痕跡」に登場する一群の間違え行為は、意図的に行うことができる類のものではない、ということ。礼光さんを引き合いに出してみるとわかるのだが、意図的に記憶違いをするなんてことは不可能だろう。西園先生についてもそうで、意図的に言い間違うなんてことはできない(※113)。なぜこの点に注目すべきなのか? 第2段落に配置した「痕跡」の筋書き、および上述したひとつめのポイントを鑑みると、このストーリーの目的とは、礼光さんと西園先生それぞれが独立に持つ「リアル」と「フェイク」を交換し、複数人が所有できる「リアル」と「フェイク」を構成すること、これに尽きる(※114)。そしてまたみなさんは、ちょっと前に「極めて自覚的に意味を世界に付与する礼光さんは、そうであるがゆえに虚実の境目を厳格にしなければならない」と書かれていたのを覚えているだろうか? 覚えていたらワタクシとしては望外の喜び。さて、礼光さんが(彼にとっての)虚実の区別を厳格につけているなら、共有されうる「リアル」と「フェイク」(というフェイク)の構成、というストーリーの目的は果たされえないだろう。だからここで必要になるのは、厳格な区別の原因である自覚的なフェイクの適用という行為に含まれる「自覚的な」を切り崩す、という戦略だ。いまこそ、「間違え」に付随する非-意図性を活用するべきだろう。礼光さんは高い能力を持つがゆえにほとんどのことを自分の意図の射程に収めることができてしまうキャラクターとして設計されている。それはたとえば、彼がほとんどのことを覚えていらえることなどに表れているが、しかしいまの彼に必要な物語内事実は、呪いによって封印された記憶といった意図を超越するものだ。したがって、失われた記憶を掬い上げるための手段は、礼光さんの意図を超えたそれー突発的な記憶の想起や他者からの触発ーでなければいけない。
 非-意図性の強調。このポイントは『18TRIP』全体のテーマ、つまり俺の言う基本構造とも深く関連する。なぜならば、個人の意図を超越した統制不可能なものとは、すなわち文脈だからだ。そしてまた、他者もその人にとっての文脈でありうるという点を想起するならば、「痕跡」は、他者を含めた文脈に身を委ねるありかたを強調した物語だったということになる(※115)。礼光さんにとって最も制御不可能な存在である西園先生が「フェイク」(=「リアル」)を彼に与えなければならない理由はここにあった。もちろんこうしたテーマ描出はこれまでのストーリーでもなされてきたのだが、「痕跡」は本格的にその切り口に基づいた読解を許容する点で、既存のストーリーと差別化できる、と思う。とはいえ、なぜそもそも文脈という考えと関連させたうえで非-意図性に力点を置くことに価値があるのだろうか、という疑念は生まれるかもしれない。俺が思うにその意義は、問題解決のプロセスがひとつだけではないことを明示的に示したことに求められる。各キャラクターがそれぞれの文脈と適切に向き合うという最大の課題に対して、既存ストーリーは主に文脈の外に自分を置き、直接文脈を緩めることによって対応してきたが、非-意図的アプローチによって達成されるのはむしろ、自分の境遇や他者といった複数文脈の交錯の成り行きに身を任せることによって、意図的な移動(旅)だけでは到達しえない領域にたどりつくことだった(※116)。文脈の弛緩は意識的で意図的なアプローチのみではなしえないことを、各種の能動/受動モチーフを用いながら描き出した点に、「痕跡」の妙味がある、と、思うよ。  
 しかしながら、いったん非-意図によっていままで立つことができなかった地平に立ったあとは、意図を超越したもののなかを漂い続けるわけにはいかない。それはやはり自律性の失調を意味するからである(※117)。だから礼光さんは、非-意図領域での経験を踏まえたうえで再び意図を復活させなければならない(※118)。そして、いま実行されなければならないのは(ちょっと前の内容を思い出してほしい)、「リアル」に「フェイク」を挿入し、他者と共有可能な意味の空間を構成することだった。その要求に応えるためのルートを照らすのはやはり、呼び名というツールだろう(ようやく普通の読みに戻ってこれた!)。「痕跡」で耳(目?)にタコができるほどプッシュされるのは、同一のものを指示するが、しかし語としては異なる言葉たちとその派生系の存在だ。大国主にもスセリヒメにも出雲大社にも、それぞれ異なる呼び名がある……そして最たる例はキバ、というより礼光さんと西園先生がそれぞれ捉えるキバの像。西園先生に手を差し伸べた太陽としての像も、記憶を取り戻す前には礼光さんと親友だった小牙としての彼も、輪廻のなかで必然的に礼光さんと対立する彼も、それぞれ「リアル」かつ「フェイク」な等価物だ。このような「ちがうけどおなじ」名前について最も重要な事実は、それらが成立するためになんらかの名づけが要求されることだろう。というのも、名づけるという行為は、原則的に意図的なものでなければならないからだ
 さて、概念こねこねパズルがひと段落したので、礼光さんと西園先生の関係の変化について述べて本筋は終わりにしよう。「ちがうけどおなじ」なものを自己と実在との間隙に差し挟み、実在を一意に規定しないこと。それによって礼光さんと西園先生は、そもそも同意や対立が成立可能であるために必要な共通のフィールドに立つことができた(※119)。常にいがみ合っているように見えた2人は、実のところ異なる世界を生きていたためにいがみ合うことすらできていなかったのだが、キバの像という媒介項を経由し、同じ視線を獲得できたわけだ。互いの想いを交換したり約束をしたりするのも、このような均しが前提されてこそ可能になってるんだわさ。
 ということで「痕跡」は以上! 誰も言ってないこと言うかと意気込んだけど相変わらず概念こねこねパズル&一発書きなのでかなり難しい感じになってしまいました。本当にすいませんでした。というか、マジでストーリーの具体的な点に触れていないので、注で各論的に扱おうと思います(※120)。    

※103:ストーリー序盤、自分から見た礼光さん像を本人に伝えるゆきのんは当然これから述べるところの本筋に回収されるが、そのときの2人の関係は「GDR」の枠組みでも捉えることができる(やってみてね)。ちなみに「痕跡」の次に開催されたイベント「セレブ格付けロワイヤル〜年末SP〜」(「痕跡」でイベント報酬SSR/SRが礼光さん/西園先生だったのにガチャSSR/SRに西園先生/礼光さんを配置したイカれローテーションで悪名高い。まぁ俺はサクッと引けたが。)では「痕跡」を経由した「GDR」ロジックがフル活用され、それが西園先生や夏焼先生のキャラクター像の再提示にもなっているので要チェック。キーストーリーではないがまぁまぁ重要ストだと思う。もうちょっと最近の関連ストーリーを挙げるなら、ゆきのん区ノベ1.5部も「Voyage」×「エスエス」×「GDR」的な感じで読めば一定の理解には至れる。
※104:12話でなされる勾玉の交換は、あまりに感動的な(具体的には俺が読了後数時間放心状態になるほどの)両者の変化、および2人の間に交わされた愛の表現だが、抽象モードに切り替えて読むならばこのことを示した行為でもある。あ、愛っつってもカップリングのやつじゃないよ。
※105:通常の切り口とはちょっと違う(が、まぁ結局は同じ話だ)ので、普通に読むやつも一瞬やっておこう。フィーチャー楽曲のタイトルに従って、勾玉的な二元論の連続としてストーリーを捉えるのが普通に読むやつ。つまりは礼光さんと西園先生という正反対の二者と彼らが持つ世界像が相補的に機能するお話として考えるっつーこと。まぁ実際のところ勾玉的関係は彼らの間にだけ成り立つものでもないんだが、とりあえず頭を完全に二元論モードにしたら全部読めるようにはなってます。
※106:しかし、「エスエス」で礼光さん自身が予告したように、実際には礼光さんも「フェイク」に巻き込まれざるをえない。キバが開戦の狼煙をあげた後に叢雲先生からの助力が期待できないと理解したときの落胆とはつまり、HAMAツアーズという「フェイク」のコンテクストに根を下ろしていたから発生したものだしね。本文で触れる余裕がないのでここで「巻き込み」をもうちょっと展開しますね。巻き込む/巻き込まれる関係は、巻き込まれる側に相当程度の受動性を強いる関係だが、当然これは「Voyage」的な視点からも捉えるべき事柄だろう。つまり、ある人が別の人にとっての文脈になる(その逆もありうる)という、「Voyage」では貞雪や雪風パターナリズムとして顕在化した事態。これをもっと拡大解釈していくと俺が散々言ってきた自己と文脈の調停というお話になるわけだが、このゲームに変な親と変な家庭環境がやたら存在するのは、親子関係、ひいては命がこの世界に誕生させられるという関係が、人間の営みのなかで最高度の強制性と、その裏返しである受動性を携えているからにちがいない(最近、ガチで実感しています。あーーーーーーーーーーー)。こういった点は本論でものちに触れる。ちな、「痕跡」では出雲大社を舞台に国造りの神話が何度も語られるがこれもその一例。なにせ神とは世界の親だから。なので神話は自らに文脈を課す神のありようを描くものなのだけど、それに対する各キャラクターの反応を見てあげると、彼らがどう文脈を捉えているのかがより見えてきて楽しいですよ。
※107:西園先生自身、実際何が真実かは知らなくとも、自分が「フェイク」の住人だということに自覚的な面もある。ストーリー冒頭、いつものように礼光さんに叱責されて回避率を上昇させた西園先生は、それでも受けた指摘が圧倒的に正しいと認めるが、そういう態度は自分がどこまでいっても「西園練牙」の文脈に接ぎ木されたフェイクでしかないという自覚に裏打ちされている。「痕跡」は、このような礼光さんと西園先生がともに持つ真偽の二項対立を解体するためのストーリーなのね。
※108:『18TRIP』最序盤から使われていたものの再利用なのがニクいね。付け加えると、デカすぎて逆にわかりづらい例には西園先生にキバ用の基準を課してしまう(西園先生とキバの取り違え)もある。気づきにくいって思ってんの俺だけかも。
※109:この「逆」に、勾玉やその他のアイテムが象徴する二元論と、そこに出現する二項の相補性を見出すのが王道。だがまぁ、さまざまに展開される二元論のうちひとつに絞ってやったほうが今回は面白いことが言えそうな気がするので味変ルートを選択している(よく考えると、ここでの分析方針はメインストーリー3章の逆だ)。
※110:もちろん、礼光さんはすすんでそのように振る舞っているわけではない。彼が庇護するべきものたちに見せる態度や、「痕跡」での「一度きりの縁ならば、その向き合い方がある」という心中の宣言を考えればそれは明らか。(すすんでそのように振る舞えてしまうのがキバなんだがそれはともかく、)しかしそれだけではうまくいかない、というのがこの先の本文の論旨(の一部)。じゃあこの注はなんのための注なんですかというのが俺の疑問。
※111:こういう引用符やるにしては使いかたが下手すぎるなと自分でも思う。ソーリー。
※112:「いやいや、そうはいっても輪廻転生してるっていうのがマジのやつなんでしょ? 対等なわけなくね?」と思った人は、「痕跡」までの6万ウン千字を読み直してください。まぁそこで明示的に言われていない別の根拠を挙げるなら、『18TRIP』において心持ちが持つ重要性あたりになるだろうか。基本構造と※3、特に後者で示唆し、各ストーリーの俺流解題でも手を替え品を替え仄めかしたように、この作品においてキャラクターたちの(こう言ってよければ)主観的な心持ち、およびその変化の持つパワーは絶大。なぜ絶大なのかといえばなんかそうなっているからなんだけど、もはや遡行不可能な地点にこそ世界観というのがあるわけよね。自閉的な主観性に世界への干渉力を持たせることが逆説的に外向性の招致につながり、それが各主観(とそれらの間)で同時多発的に進行した末に、巨大な間主観性ー客観には届きえないにもかかわらず誰もが共有可能な「リアル」ーが成立しうる土俵、という壮大なフェイクが成立する_____俺からすると『18TRIP』がこれ以上自らを疑うことができなくなってしまうような原始世界観はこういうものなのだが、やはりゲームに対するプレイヤーという立場から見れば、これもまたひとつの神話にすぎない。にもかかわらず、俺はこの神話が告げる世界観に従属することを、そしてそれを介して世界と接続することを、選択した。これもまた『18TRIP』的構造の一例なのだが、まぁとにかく、俺にとって究極的に重要なのはこの事実だけだ。接続できたかどうかについては、聞かないでください。
※113:さすがにみんな「は?」となると思うので弁解させてもらうが、もちろん言い間違いとされる領域を広くとれば意図的に言い間違うことも可能ではある。ただ、西園先生がやっている言い間違いはそういったタイプではない。そうなると当然なにがそういったタイプでなにがそういったタイプでないのか、つまり両者を分つ基準とはなにか、というのが気になりだしてしまうだろうが、マジで今する話ではない(とはいえさすがに、「西園先生は言い間違うつもりなんてなかったから」と主張するのはかーなーり問題含みでしょうね)。
※114:わかると思うんだけど1組目の「リアル」/「フェイク」と2組目のそれにおける鉤括弧の意味は(超絶極端に言葉にすれば「妄想」と「共同幻想」として捉えることができる感じで)異なる。
※115もちろん同様の関係が西園先生側から見ても成立する。
※116:この二義性自体は、「静かの海」における夢の取り扱い(「うまく待つ」)に表現されていた。
※117:非-意図、あるいはコントロール不可能なものを経由して自律性に至るということは、換言すれば自己でないものの自律性を通じて自己の自律性の輪郭を確かめることでもある、かもしれないね。「間違い」は虚心坦懐に眺めればたんに間違いなので、西園先生の言い間違いがちょくちょく正される、というのもあと、一点だけ注意兼予防線。非-意図からそれを踏まえた意図へ、というアプローチの順番は、かならずしも物語内でそのままの順で実行される必要はない、と俺は思っている。テーマ的には礼光さんにまず与えられるべきなのが非-意図性であることは明らかなのだから、その点が動かなければそれぞれに対応するモチーフは同時に並走させてよいはずなので。
※118:この構造は意外にも(マジで意外にも)執筆時点での最新ストーリー「のん活讃歌」においてほとんどそのまま反復されている。むーちゃんの休息探究は、まず高度に体系だった意図に依拠したために行き詰まり、百目鬼先生と子タろの肉まんという他者(=文脈)の力によってその行き詰まりを打破しつつも、しかしそのせいで世界から遊離しかけ、そこにさらなる他者(ハイスペクラスメイツのおふたり)が干渉することで、非-意図を踏まえた意図、自律性を確保したうえでの成りゆきまかせに達する。ちなみに、「のん活讃歌」における百目鬼先生の役割はなかなか面白いのでそこにも触れておこう。彼は多数の子羊たちに身の回りの世話をさせているが、彼らの百目鬼先生への奉仕は百目鬼先生の支配下にありながらも、奉仕欲求と具体的な奉仕内容は百目鬼先生に規定されているわけではない。ここでは、百目鬼先生にとっても子羊たちにとっても意図と非-意図が両輪で駆動しているわけだ。さらに、彼らの関係は同時に支配-被支配でもあるが、それは両者の合意によって形成された関係でもある。合意に基づいた支配関係、あるいは力の行使は「のん活讃歌」において乗馬が表象する……が、しかしそれ以上に、そのような力のありように3章的な非対称性、ひいては「重さ」や、「Voyage」/「アポトーシス」……的パターナリズムなどなどとの連関を発見しておくのが、よい読み手になるための第一歩だろう。ただまぁ、このゲームはこういう論理を即座に消費産業の諸現象に転用するので、そこは微妙だと思っちゃうけどなぁ。
※119:媒介項を明確に用意して自分以外との関係を形成するのが『18TRIP』の常套手段なのは繰り返すまでもないが、「痕跡」で強調された意図というファクターに注目してこれまでのバッファたちを眺めてみるのも楽しいかもしれない。たとえば4章で触れた花言葉構造とは、自分の意図とそれを超えた他者の意図とを調停するためのものであり、ジンクスや怪異の類とは、そこに願いを込めたり解釈を見出したりする自らの意図と、それに沿うこともありうるし逆らうこともありうる統制不可能な外部との関係の描写だ、とかね(「痕跡」におけるお守りにも注目!)。さらに「痕跡」に関してちなんでおくと、「ちがうけどおなじ」な媒介項のなかで目をひくのはやはり神話。日本神話と中国神話の類似性がストーリー中で語られるけど、これはまさに「ちがうけどおなじ」。しかも、2人が神話を解するのは構造としてはキバ解釈とパラレルなのよね。ということはつまり、2人にとってキバは異なる意味で神(話)的に自己を規定する文脈だといえる。
※120:っつーわけでね、簡単に。
 キバってなに?:俺のフレームワークに収めるなら、キバとは輪廻という「リアル」を知っているがゆえに「フェイク」に無価値どころかマイナスを振り分けるマンということになりそう。が、まぁ全然情報不足なのでなんとも……ずっと言ってるけどあとで明かされる情報をいま推理する気もないしなぁ。ただ、ここで勾玉的二元論に沿う普通の読みにおいて、キバを含めた3人の関係がどうなっているのかを簡単に確認しておいてもよいかもしれない。本論で述べたようにキバに対しての2人の認識が相補的二項対立になっているのはいいだろう。次に西園先生から見るとキバがポジで礼光さんがネガ(しかし同時にポジであることも認めることができる)、でも実は異なるレイヤーがもっと奥に隠されていることは知らない。礼光さん視点ではキバが本質的で西園先生が非本質的、でも実は異なるレイヤー(略)。2人とは違ってキバはめちゃいっぱい知ってて(だから「痕跡」で礼光さんが抱えていた問題の強化版を患っているのかもしれない)、その視座からすると礼光さんがポジで自分がネガ、かつ自分にとってのポジである西園先生が礼光さんに惹かれることを宿命づけられている、これがウニョ〜って状態やね。もちろん上記は「痕跡」開始時点でのことで、こういう膠着をゆっくり動かしていくはじめの一歩が踏み出されたのが読み手としては嬉しいのよね。まぁ、この先どう動くかも「痕跡」では予告されてるし、みんなあとはわかるよね⁉️(丸投げ)
 記憶とか水とか砂とかうにゃうにゃ:これめっちゃダルい。マジで考えたくない。とりあえず、海辺の砂に刻みつけられる足の形がエングラム(痕跡)として残る記憶ね。OKOK。ただ、それは波によってかき消されてしまうよ〜と。OKOK。しかし、そもそも足形がかたどられるためには波が必要なのね。そして、海や温泉は純粋な水ではない(「静かの海」も参照すべき?)。たぶん俺的にはこの2点が重要。このあたりは二元論の枠組みにも合致するし、意図/非-意図とか、人為/自然における後者の(有益にもなりうる)外部性、みたいなものとも親和的。あとは記憶を自己解釈の基盤とするならば、輪廻組の3人の生は記憶取り戻し以前と以後で二重化(あるいは三重化以上)されているわけだけど、そこにも俺が述べてきたような構造は適用できるし、他にも……あーーーーーーームズイ!!!!!!パス!!!!!!!
 叢雲先生動きすぎでワロタ:動きすぎでワロタとしか言いようがない。いやそんなことはない。叢雲先生のムーブを見ると、西園先生においても意図と非-意図の運動が起こっていたとわかる。「リアル」を教えてあげたい叢雲先生は西園先生にとって意図の埒外にあるのだが、そんな彼に連れられてキバの居場所付近にやってきたとき、西園先生は「ほんとうのこと」を知りに行くかどうかという選択を叢雲先生から迫られる。この流れはもちろん礼光さんに起こったのと同型。で、「エスエス」の項で述べたとおり、叢雲先生とは西園先生にとってキバ以外と成立した対の関係(輪廻とたぶん関係していないという点で礼光さんとも異なる)にある存在であり、つまりは西園先生がもともと置かれていた文脈を揺さぶるまた別の、しかも相対的に偶然的な文脈だ。そんな彼がこの役割を担うのは、まぁ当然のことといえる。そしてもちろん、今回の叢雲先生のふるまいは「重さ」の表出なのだけど、これに関連して他の朝班メンバーの役割も瞥見しておこうかな。「重さ」と直接関係するのはたぶん大黒先生。西園先生の純粋さを利用してゴチャゴチャやってるキバに憤りながらも、キバ捕獲作戦のときに大黒先生は西園先生の純粋さを利用して作戦を実行に移す。これなに? って話なんだけど、たぶん大黒先生的に両者を分かつ基準は、行為の外形的形式じゃなくて、行為の意図や結果がなんらかの「よさ」に適うかどうかなのよね。しかも、作戦の結果西園先生に戸惑いが生まれてるのを見ると、その「よさ」はある程度自分(大黒先生)の視点から計測されたものでしかない。「Voyage」的パターナリズムとか、同時に言われてた望みが云々みたいな話と呼応するのはこのあたりなんだと思う。次に、叢雲先生や大黒先生みたいな荒療治組とは異なる方向の「重さ」を発揮するのがもちもちでぺったんな人たち。ゆきのんはわかりやすく追及しない姿勢をとってくれてるので省略。で、礼光さんはホテルで西園先生に助けてもらったときに意図せず嘘をつくけど、これはいきなり弩級の「リアル」に触れさせるのはまずいかも〜っていう逆方向のパターナリズムなわけですね。それは水に浸かるというモチーフを利用しても表現されていて、足湯とか夢で出てきた浜辺とかでは、西園先生(レン)は常に全身を水に入れてはいない。これに対してホテルの湯船でキバに溺死させられそうになったのは礼光さんで、ここに「リアル」との向き合いや「重さ」に関連したアプローチにおける対比を読みとらないといけないと思う。(かなり後追記終わり)

 さて、宣言どおり重要なストーリーをほぼ全部振り返ってきたわけだが、(感想・コメントというよりは)ひとつのフレームワークを採用したうえでそれにしたがって物語を要約し、(主に注で)自分の読みと意見を付け加えるという感じになってしまった。しかしこれはしょうがないというか、俺がしたかったのは、今後自分に意味あるかたちで『18TRIP』の物語を読むうえで役に立つような自分用の地図の作成だったのだ。徐々に更新されるスマホゲームのストーリーを把握する関係上、各地の地図を作ることによって全体を見通す構成にならざるをえず、俺の文体もあいまってリーダビリティ0になってしまったのは申し訳ない。あと、細かなキャラクターの感情表現や関係の変化(樋口美沙緒先生、休養沢ライチ先生、キャラクター・シナリオ部門の皆様、いつもありがとうございます♡)、そこかしこに散りばめられた視覚的意匠(およ先生、デザイン部門の皆様、いつもありがとうございます♡)などについての言及も省くしかなかったし、そのせいで変なこと言ってるときもあると思う。まぁそのあたりはSNS上でいろんな人がゲリラ的によい仕事をしている気がするし、ある程度リテラルな読みに基づいて、一個の観点から、なるたけマクロに、シナリオ全体の輪郭を与えようとしてみる、みたいなのをまとまった分量でやった人はこのゲームにかんしてはほとんどいない気もするし、自分がやるに値することは多少やれたのかなと思っています。その点でも片手落ちになってるところはいっぱいあるけどね〜。あと、「狂想曲」みたいなキーストーリーになってないだけで普通に大事なやつにも触れたかったし、区ノベもしっかり読み直した状態で書きたかったなとは思ってます。ただ締め切りがですね……なので許してくれ〜。てかこれ、ノベルモードとかいう神機能なかったら絶対期限までに書けませんでした。その他諸々、制作に携わっているみなさんにマジで感謝。
こんな感じで読めてチョー便利!
 それでは最後にもう一度、俺にとっての『18TRIP』を確かめておきたい。俺がこのゲームから受ける印象は、ある種の「軽薄さ」とでも呼ぶべきものに尽くされる。キャラクターたちはそれぞれ切実に悩みを抱えているが、それらは概して、整合的な自己解釈をどう維持するか、周囲とどのようにかかわるか、とかいったごくごくローカルな便益、すなわち個人的な生の利益に関わっている。そして彼らが苦境と付きあう方法とはなんらかの意味での自律性の確保ーこれは往々にして身近な他者とのコミュニケーションと象徴的な共有アイテム、それに伴う思考様式の変化によって達成されるーであり、そのためにはときに意図的なフェイクすらも必要とされなければならない。人生を「都合よく」生きるために暗いものさえ飲み込み、そもそも問題が存在するための条件を複数個人のマインドセットに分解してしまうこの姿勢は、よく言えば(世間に流布した意味で)プラグマティックかもしれないが、同時に、そこには偏り、ないしは浅薄さが感じられるかもしれない。また、自律的な選択によって、付随する事態が(少しずつであれ)結果的に改善するのだとすれば、それはやけに楽観的な見立てだ、とも。その感情はおそらく、正しい。しかし。繰り返し述べてきたように、実在を知りながらタッチしない感じ、とも表現できるこの手触りこそが、そしてそれだけが、俺が生きるために必要なものだった。『18TRIP』の物語に触れているあいだ、俺はときに強く励まされ、ときに自らのダメさ加減に酷く打ちのめされたりするのだが、そもそも俺はそのように心を動かすために必要な価値を捨ててきたわけで、だから『18TRIP』は、そんな俺への甘辛い薬だったわけで、そして、その事実は、この作品が「軽薄な」物語としての強度をたっぷり蓄えていることの、これ以上ない証拠だ。と、思います。
てゆーかみんなもエイトリ始めてみませんか⁉️ こんなに(マジで、こんなに)ハマってるのに誰とも話せないのはちょっと、結構、いやめちゃくちゃ寂しいんです‼️
 いや〜、それにしても、「痕跡」すごかったですね。コンセプチュアルな次元とキャラクターどうしの関係性とを相互作用させるという課題を完璧にこなしつつ、俺がゴチャゴチャ言ってきたような主題・モチーフも朝班どころか全班ぶん回収&新たなつながりを付加し、そのうえで(過去のストーリー内事実と連関した)純粋な展開上の起伏も楽しいからファン心理も充たされるという、1年半の歴史を総覧するような最強ストーリーだった。ついでに、みたいな感じでイベントスポットも最強にしなくていいです。今の時期に俺がなんか書くのは野暮だなと思ったので感想はこの程度にしておきますけど、いやはやはらほろひれはれ、キャラガチャ系スマホゲームのストーリーを追う快楽の極、ひさびさに味わったなぁ……。最初「二w元w論wwwwwww ル?☆えみゅう。☆石王?サト★UnK-now/37X❓(笑)」とか言っててごめんな。でも今も思ってる。

*22:公式ラジオ「18TRIP Talk Studio」(通称「エイトーク」)で梅田修一朗が変なUIを変に擁護していて面白かった。本当に彼の言う通りなのだとしたら制作時の優先順位が明らかに間違っていたことになる。

*23:俺ら30年後もスマホ使ってるらしーよ。

*24:各キャラの掘り下げノベルだけ読むのにちょっと手間がかかる。普通にやってたら全解禁に2ヶ月くらいかかるだろうから、まぁまぁ大変。俺は百目鬼先生と琉衣先生のやつが好きです。後者は「禁書目録」読んでた中学生のときをちょっと思い出せるという意味でも。

*25:9月にマジでHAMA NICE TRIPしてきた。変なアクティブさを手に入れるというかたちで行動が変化してきている気もする。ちなみに夕陽に同行してもらった。ガルフェスといい今回といい、いろいろ付き合ってくれてマジで感謝してます。てか今年は集英社切り離して「ちゃおサマーフェスティバル」になったのウケる。

聖地巡礼をしてみたり、
景色を楽しみながら西園先生に思いを馳せてみたり、
観覧車に乗ったりした。
ラーメン博物館は純粋にめちゃ楽しい施設だったのでオススメ

*26:俺みたいな楽理などなにも知らないバカでもわかる初歩的なポイントともいう。こっから先に間違いがあれば俺の不勉強が悪いだけなので、遠慮なく指摘してほしい。

*27:この曲の構成はイントロ→Aメロ相当部→サビ→間奏→Aメロ相当部→サビ→間奏→イントロのフレーズを再利用したCメロ相当部→ラスサビ、として俺は認識してしまうのでこんな優柔不断な表現をしているのだが、これで通させてほしい。ただ、イントロをAと捉えたらA→B→B→Aみたいな構成ともとれる? ツイートされてるライナーノーツにはAメロ・Bメロとの記載があるので、それが正しいのかもしれない。

*28:「こころがずきずきするから」に関しては、「こころが」「ずきずき」「するから」のそれぞれが3拍ぶんを占めている。

*29:「絵の具振り撒く」の歌い出しが6拍目に重ねられており、後半24拍のボーカルは5+7+12で分割されているようにも聴こえる。どう考えればいいんすかねこれ……いや、もしかして衣川先生のおともだちっち5人と昼班+朔ちゃん先生+主任の7人ってこと〜⁉️ と思ったが、俺の頭が溶けているだけすぎる。こういう意味に寄せすぎる聴きかたは絶対にやめたほうがいいです。本当に。

*30:衣川先生の名誉のために付け加えておくが、その内向性だって大切なのだということは作中で描かれている。それは大変なときでもそこにいれば安心できる肋のひとつだし、むしろ外向性を増すということはそういう肋を増やそうとする営みでもあるわけだから。でもそうやって形成された肋の中にずっと安住するんじゃダメっちゅーこと。

*31:自己を世界に開く、というのとは少し方向性が異なるテーマも含まれてはいるのだが、衣川先生のフィーチャーイベントストーリー「極彩色イマジネヰション」はかなり先生度が高かった。身につまされすぎて「いや〜、そうだよなぁ、ほんとに……」って言いながら読んでた。

*32:まぁ実際はわからない人に真面目にプレゼンするのとかが大事らしいので、ただズレときゃいいってもんでもない。ちなみに衣川先生はプレゼンにも挑戦している。弟子は手抜かりのなさに平伏するほかなかった。

*33:とはいえ、関連のさせかたにも程度はある。同じく『18TRIP』のキャラクターソングである"夜明けのポラリス"(注20内部の注で登場したむーちゃんとうーちゃんのデュエットソングだ)の2番(また2番! おそらく作曲者としては「なんかやらんとな……」という気持ちになってしまうんだろう。)では「触れたいよ」と「ねぇいつの日にか」を重ねるギミックが展開される。どのようにキャラクター像と関連しているかはゲーム内事実のちょっと詳しい説明を要するので割愛するが、これは二者を関連づける仕掛けとしてはあまりに露骨かつ短絡的で品性に欠けると思う。そもそも"夜明けのポラリス"自体がポタクを雑に感動させるための曲、という感じで俺としてはあまり評価したくならないのだが。あ、いい声の男性がやる歌モノとしては好きだからおうちでちょくちょく歌ってるのはナイショね。open.spotify.com

*34:まだ伝わっていない人用に言うと、"決戦!N"の素数云々のやつのキモさね。

*35:なぜ嫌な感じで解釈されるのにそのようなものとして創造されるかといえば、ほとんどの人は俺が感じるような嫌さを感じないから、それがどこか下品なものであるとは思わないから、だろう。それ自体は嘆かわしいことではある。しかし、この前新萬に「小説の情景が想像できない、曲を聴いてもイメージが浮かばない、歌詞で聴けない……といったことはなめしさんのなんらかの欠如を示す兆候のシリーズ(要約)」と言われたので、そこから憶測するに、こういうどこかいやらしい感じの解釈も俺には必要なのだと思う。

*36:"白昼夢"だけでなく、『18TRIP』にはいいキャラソンが多い、と思う。俺が曲として好きなのは"ガラスワールド"、"Falling Into Eternity"、"夢煩い"、"パーチータイム"、"雨が止んだら"、"永遠のねがいごと"あたり。楽曲提供者の権威に反応してんのか! と思う人も多いだろう。いやまぁ実際そういう面も間違いなくあるんだろうけど、多分ちゃんといい曲だって! あと、主題歌の"グッドラック"もスルメ曲でよい(スルメ曲だと思ってる人はあんまりいないと思うけど……)。 open.spotify.com open.spotify.com open.spotify.com open.spotify.com open.spotify.com open.spotify.com open.spotify.com しかしなんというか、いろんな人が楽曲提供してますよね。職業作曲家という感じでもない、自分も舞台に立っているアーティストに楽曲制作を依頼すること自体は地味にキャラソン界で行われ続けてきたのだが……(この記事と近すぎる例を挙げると、『18TRIP』の制作会社であるリベル・エンタテインメントの代表作『A3!』には、大石昌良、sasakure.uk、北川勝利、沖井礼二(←マジ? と思ったが結構そういう仕事してるんですね)などが楽曲を提供している。全然職業作曲家だけどPowerlessとかもちょっと意外だったわ。Dynamixの"Catastrophe"が初見だったからそのイメージ強くて、というレアケース。で、以下に貼るのは普通に好きな曲。。 open.spotify.com open.spotify.com open.spotify.com open.spotify.com open.spotify.com 近年そういうコンテンツの一部が「楽曲派」として自らをパッケージングすることが容易になったのは、「ヒプノシスマイク」の成功をロールモデルにできるから、というのがまぁまぁデカい気がする(『A3!』は「ヒプマイ」以前だし、そもそもそういう売り方ではないのにLantis(どう考えてもポニーキャニオンである。どういうミスですかこれ?)のおかげでいい曲多いだけなのだけれども。じゃあなんで引き合いに出したん?)。曲も面白いし、ちゃんと偉大なコンテンツである。まぁHipHopの人から見たときに云々というのはあるんだろうけど、そこはチェチェケチェケチュワ〜ということで。むしろキャラソンくんとしては、アニメ/ゲーム文脈と、HipHopを含むがそれより広い音楽カルチャーとの結び目を作ろうという試みのひとつとして理解したい。TDDのみなさんはEVIL LINEの仲間たちとのコラボアルバム出したうえでライブやってたし、歌モノお祭りアルバムの”The Block Party”ではHipHop/ラップの領域にとどまらないビッグネームがクレジットされてたわけで。「要はここジャンルのスクランブル」らしいよ。 open.spotify.com open.spotify.com open.spotify.com open.spotify.com open.spotify.com open.spotify.com ずっと思ってるんだけど、"DON'T TEST DA MASTER"の練習してるときに一番できないのってGOCCIのバースじゃないですか? とはいえ、元ネタゲームみたいなのってしょーもねぇよなぁとなるときは結構ある。サンプリング文化ってどうなってるんすかね?(構造への純粋な興味) open.spotify.comなかなかRETURN OF THE LIFE open.spotify.com

*37:2人の劇伴仕事で有名なのは「GQuuuuuuX」だろうが、実はそれより前にリリースされている。蓮尾理之に(アニメ・ゲーム関連に限らず)もっといろいろ曲作ってもらいたいんだけど、どうにかなんねぇかな〜。TRIGGERにおろしてたやつとか超好きなんすよね。open.spotify.com

*38:SNSを見ると俺と思考様式が一切重複していない人間が多数存在していて本当に怖い。でもちゃんとペンラ振ったりコールしたりするつもりです! 自分いけます!(今年観たのがBUCK-TICKとGeordie Greepとムーンライダーズのやつにできんのか? みたいな思いは常にちらつくが、そこで没入できなかったら先生方からなにを教わったんですかということになってしまうわけで、やるしかないんです、やるしか。)あとライブって抽選を友達(相互(相互?))に頼んでやってもらったり友達(相互(相互?))と一緒に行ったりするんすね。俺は完全ソロプレイなんだが……。まぁそれでよく2日目通しで見れる状態にしたなと思うべきなのかもしれない。ストーリーと楽曲への向き合い度だけなら超上澄みだろうからそのあたりの功徳が効いたという説もある。いやしかし友達(相互(相互?))……。

*39:菊田が男性キャラソンをガッツリやるのは俺としては新鮮だった。まぁ「うたプリ」とかあったんだけど、通ってなくてですね。

*40:『「テクノ」ロイド』というコンセプトの時点で楽曲に縛りがかかっているのを差し引いて考えないといけないのはその通りだが、二者のバランスがとれるキャラクターコンテンツというだけで評価に値すると思う。というのも、その点で微妙なコンテンツも数多く存在するからだ。たとえば「Paradox Live」のキャラソンは、楽曲群の統一性・ディレクションの基盤を強く感じる一方で、各楽曲間の距離が近すぎるとも思う。うーん、俺の耳が悪いだけなのかなぁ? でも全曲聴く作業中にいきなり倖田來未とかISSAが乱入してきて面白かったよ。でも「KUMI KODA」とかいう歌詞この世に存在していいわけないだろ。 open.spotify.com

*41:遺書アルバム以前の曲も良質なオタク・ダンスミュージック(マジ無意味な括り失礼します)という感じでよかった。自分が好きなのはこのあたり。 open.spotify.com open.spotify.com open.spotify.com open.spotify.com 「オタクっぽくていい」みたいな観点だと今年は『Toxic-a-Holic』の曲もよかったんだけど、統一感では『テクノロイド』に軍配が上がるし、「オタクっぽくていい(嘲笑)」で聴いてるところも2割くらいあるなと思ったので大きくは取り上げません。でも最初と最後の曲はちゃんと好きですよ。 open.spotify.com

*42:そもそも「近未来」と「戦国」が北風と太陽に相当するのに、ホームページを見に行ったらメフィスト(!?!?!?!!?!!????!!?!?!??)がいて爆笑してしまった。まぁ、「本当にありえない」ところにV系を感じないこともない。最近だとAve MujicaがV系的なものを取り入れた上で成功を収めたが、『マガツノート』くんのことも忘れないであげてほしい。ただ、Ave MujicaはV系的解釈も(あくまで「も」よね?)経由させたゴシック要素やメタル要素などをきわめて現代風の2次元ガールズバンドコンテンツ楽曲に昇華させたわけで、ほぼV系ピンポイント、しかもたんに懐古的色彩の強い『マガツノート』より偉い気もする。というか"顔"、いい曲ですよね。それこそ自分はリフ感の面ではdeadmanとかgibkiy gibkiy gibkiyの一部の曲に触れるときのノリで聴いてます(形式的な特徴はそんなに一致してないかも、あと流石にメリゴとはテンション違う)。和田信一郎がMORRIE(DEAD END, Creature Creature)の系譜との類似性を指摘していた(https://x.com/meshupecialshi1/status/1905294439591059678?s=20)のでそう言うほうが正しい感じもするけど、MORRIEに影響受けてないやつおらんしどれと質感が近いって言ってもええやろ!(放言の正当化)つか今年聴いた音楽は和田信一郎に影響を受けすぎている。俺は別にメタルっ子じゃないんだけど、レビュースタイルが好きなんですよね。 open.spotify.com

*43:まずこれを見てほしい。 www.youtube.com 本当に意味がわからない。これを初見で処理できる人はたぶんマルチタスクが得意だから出世が早いと思う。こういうふざけたことができるコンテンツが短い寿命を全うするのは悲しいっちゃ悲しいが、納得感だけはあるよね。

*44:単純な快では以下の2曲がオススメ。今年は西園先生に出会ったりGYROAXIAのライブ映像を見たり(『from ARGONAVIS』も逝去なさっており、なんか、、、難しいね!)するなかで、完全に小笠原仁のファンになってしまった。生歌浴びて〜(2月に浴びれます) www.youtube.com てか知らんうちにアルルカンの表記変わっててワロタwww.youtube.comオリジナル楽曲もいい感じの雑居性があって好き。 open.spotify.com open.spotify.com open.spotify.com

*45:俺の好きなV系? う〜ん、V系(超広義)だと、BUCK-TICK"SEXY STREAM LINER"/"Six/Nine"/"No.0"/"スブロサ SUBROSA"、SOFT BALLET(なんかソフバってすげー好きなアルバムがある感じしなくて、なんか全体的に好きだわ)、hide"PSYENCE"、L'Arc〜en〜Ciel"REAL"、DIMLIM"MISC."とかが特に好きかな〜(自語り失礼w)

*46:アンジェリーク」シリーズも大体聴きました。全体通していい曲すごく多かったのですが、この、ルヴァさんという方の曲は非常にアヴェレージが高いですね。 open.spotify.com open.spotify.com open.spotify.comこのあたりも好い感触でした。う〜〜ん、私の好みが反映されすぎていて、なんだか気恥ずかしい感じも😹 open.spotify.com open.spotify.com open.spotify.com open.spotify.com open.spotify.com いや、マジでいい曲多いな……。

*47:ほんとだとしたら、この人の力も大きいと思う。Tumblrのプロフィール2行目に"金沢明子 HOUSE MIX"のレコーディングに参加したことを書く人は変すぎるから(My ScrapBook - profile)。

*48:たとえば星野架名の「緑野原学園」シリーズのイメージアルバム"緑野原座フライト・プラネット"には上野耕路戸川純鈴木さえ子といったビッグネームが参加していた。楽しいアルバムなのら。 open.spotify.com自分もこの前『ハイスクール・オーラバスター』のイメージアルバム買ったし(GRASS VALLEY経由)、そういう結びつきをじわじわ実感しつつある。感じてるだけともいう。つか「MOTHER」だって鈴木慶一だしなぁ。

*49:当時、「和っぽさ」と男性キャラ/声優音楽の調停ってどれだけ進んでたんだろう? みたいなのもある。

*50:アニーメのやつだと、『ガッチャマン クラウズ インサイト』がすごくよかった。岩崎琢信者になりそう。 open.spotify.com 男性キャラコンテンツだと、元音響遊戯遊戯者として『ブレイクマイケース』のサントラにびっくり。Dirty Androids、good-cool、Feryquitous……もうしれっと金獅子さんとかいてもバレないんじゃない⁉️ 俺がリクエストしていいなら、高田雅史にCubeシリーズ的なのを作ってほしかったり……これまでの参加作品的に「ブレマイ」プレイヤーにもハマるかも(予備学科思考)。 open.spotify.com現状リリースされてる曲なら以下が一番好き。 open.spotify.com あと、『魔法使いの約束』のサントラもよかったです。ところどころに往時のスクエニリスペクト(スクウェア寄り)を感じた。アツかったぜ! open.spotify.com

*51:そんなこと言ってたら綿菓子かんろのほうで出た。 open.spotify.comとか言ってたらこの記事の公開日に出ました。 open.spotify.com

*52:ここらへんからマジでコメントテキトーになっていくが、疲れてるし話すための語彙ないのよ。みんなも飽きてきたでしょ?

*53:これが一番好きなのは間違いないのだが、今回のアドカは選曲にかこつけて漫トロとかその他の話題に繋げられるという観点で選んでおり、単純に気持ちよすぎてワロタみたいなやつは入ってないんすよね。なので、今年聴いた数少ない新譜の中から印象に残ったものをとりあえず羅列だけしておきます(そこ、意味なくね?とか言わないの)。旧譜は名盤ばっかに触れてるのもあって多すぎになっちゃうからね。アーティスト名のみ、名前順、今年複数枚リリースしてた場合は何枚目かを(n)で指定します。
明日の叙景/梅井美咲/君島大空/想像力の血/蓮沼執太/星野源/山口美央子/ワールドスタンダード/BABYMETAL/cali≠gari/Coroner/Deftones/Disiniblud/downy/Dream Theater/Duval Timothy/Erika de Casier/Evilgloom/Fabiano do Nascimento/Guiba/Home Counties/Honningbarna/keiyaA/Mckinley Dixon/Mizore/Mom/motoki tanaka/Nazar/Pot-pourri/Pulgas/Sault/Surgeon(1)/Thornhill/Todos Mis Amigos Están Tristes/YHWH Nailgun……なんか素人くせーっつーか、こいつTwitterしか見てなくねーか⁉️ ちなみにこの中から1枚挙げろと言われたら明日の叙景です。"心"に"響く"んや……open.spotify.com

*54:いうてサイバーグラインドとかはたまにFire-Toolzを聴かないでもないくらいだったので、流石にその状態でこんなこと言うのもなと思い、The BerzerkerとかBlind EquationとかBlind Equationが2年前にツイートしてたアルバム群(https://x.com/BlindEquation/status/1727345187415007595?s=20)のうち何枚かとかを聴きました。案の定、好きと言えないこともないが「うおー!」とはならん絶妙な感触。あと、グラインドコアからの派生とはいうものの、もうその要素まぁまぁどっか行ってない? 下のultimateらしいプレイリストでなんとなく雰囲気見ただけなんすけど。ultimateて。 Ultimate Grindcore - playlist by Spikerot Records | Spotify

*55:最近知り始めた身としては、(5年も前の記事になるが)「俗流アンビエント」概念の提唱者でもある柴崎祐二がジャパニーズ・アンビエント/ニューエイジ/……発掘活動を整理したコラムがほどよい入門になった。natalie.muあと、今年聴いた再発系のやつで特によかったのはNADJA。80年代後半の清水靖晃作品("DEMENTOS"周辺)のノリが濃いのだけど、作編曲メンバーが変わってくる後半はそこから逸脱する面もあって面白い。とりわけラストのパーカッションとかは異彩放ってるし、地味にちょっとだけ小沢健二が参加しているというクレジットの楽しみもある。open.spotify.com

*56:でも、日本人の俺らがこういうのに触れるときの視線ってどういう感じになってんだろとは思いますよね。

*57:なんか全体的にニューウェーヴくんの感じが出すぎてしまうのもアレだなということで注に流すが、新譜で超よかったのはやはり想像力の血。サポートでも関わりのあるムーンライダーズの筋を感じるのはもちろんだが音楽性はまったくそこにとどまらない。でも俺はこのアルバムのよさを言葉にする技術持ってないなぁ。まだの人はぜひ聴いてみてください。 open.spotify.com

*58:本当にEDかどうかは経験がほぼゼロなのでわからない。まぁ、セックスのコツは没入だと勝手に思ってるから、人生ひとごとがちな俺はEDになりやすいだろうとは思う。でも没入と俯瞰の問題なら『18TRIP』と向き合うことで改善していくんじゃないの!?

*59:アリなのは間違いないんだけど、やっぱりちょっと「(当然アリなのは承知したうえで、そのうえでの)アリ(?)」感が漂っている。

*60:クラシックジャズはもっと知らないのがミソ。流石にデイヴィスとかコルトレーンとかエリントンとか(知らなすぎてこの名前の出しかたでセオリー感が出せているのかもわからない)をちょーっと齧ってみたことはあるが、ちょーっとじゃ全然ノリかたわかんないんだよなぁ。"The Black Saint and the Sinner Lady"とかは露骨に聴いたことない感じで面白かったけど、これを楽しめるからといってジャズの舌を持っていることにはならないわけで、むしろこれだけ楽しめるのは馬鹿舌の証拠っぽいわけで。 open.spotify.com やっぱちゃんと理論を勉強してたりすると、どういうジャンルに対しても、ある程度普遍的な面白さ(主に技巧的なそれ)を見出して、そこからそのジャンルの舌を作っていく、みたいなのがやれていいのかもね(想像)。ボキも勉強すべきですね……。

*61:アルバムの売り文句によれば、メルドーはプログレフュージョン→ジャズという経路を辿ったらしい。

*62:以下の記事が技巧的な側面の一端を解説してくれていた。俺は知識不足で読めないところ多々だが、読めるところは参考になった。 ヒロ・ホンシュクの楽曲解説 #79 Brad Mehldau <Tom Sawyer> – JazzTokyo

*63:アルバムの選び方が功を奏したと思う。

*64:ジャズの人が作ったそこまでジャズって感じじゃないアルバムは他にもちょっと聴いてて、たとえば以下。José Jamesがドラムに起用して有名になったらしい。そこまでジャズって感じじゃないとはいうものの、そこまでジャズって感じじゃないやつも包摂するジャンルになってんだろうなぁ、多分俺が思ってるより昔から。 open.spotify.comドラムプレイヤーが自分名義で作る曲ってなんか楽しいという偏見がある。Makaya McCravenとかLouis Coleとか……鈴木さえ子もそうか。

*65:かなりの長期間執筆なので、この部分を書いた後にAmbrose Akinmusire経由でRoy Hargroveを聴いてなんか楽しいじゃんとなるなど、ほんとにひとつずつやっていっています。他ジャンルとあわせて本もちょっと買ったりしたぞ!

*66:音作りエンジョイ枠としては、(こちらもガチ偉大枠で恐縮だが)Wire"154"もめちゃよかった。いやなんで聴いてないねんというのはあるのだが、"Pink Flag"だけ触れてあんまよくわかんなかったの! ポストパンクにおけるオルタナやシューゲイズの萌芽(というかWireがそれらを準備したのだろうけど)が明確に音像に表れてるし、なによりめっちゃカッコいい!マイブラがカバーしたのも頷ける。 open.spotify.com

*67:大体は慣れで聞こえかたと評価が変化するみたいなボトムアップだと思う。

*68:ラジオで梅田修一朗がラストのラップパートのインスパイア元について話していた(有料区間だった気がするのでここでは言えない)のだが、驚きと納得とワロタがちょうど1:1:1になるラインだった。こういう話が一番聞きたいですね。追記なんですけど、バリ男の子の夏焼千弥くんに恋してしまいました。これは「彼」ですね。俺いま死んでもいいです。意外と嘘で、畔川幾成くんと木ノ内太緒くんの雑誌表紙もはやく見たいです。

この千弥見たあと、音楽聴いて情景浮かぶようになったし歌詞の意味に目を向けることができるようになりました。すごい。あとイメソン文化も知識じゃなく自己の内なる現象として理解しました。明日の叙景の"歌姫とそこにあれ"はイメソンでもあり自己投影曲でもあると気づき感動です(ボーカル&作詞の布によるライナーノーツも参照のこと 【【 詞 と 詩 】 歌姫とそこにあれ|明日の叙景 / Asunojokei】 。なんでこんな全部書いてるんだ?)。 open.spotify.com だから、ありがとう、明日の叙景。ありがとう、『18TRIP』。ありがとう、夏焼千弥。では。