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京大漫トロピーのブログです

【12/9】他力本願

今年漫トロピーに入会したへっどです。

今年のアドカレのテーマは「セイ。」ということで、主人公・富士動機子の体が急「成」長し巨大化してしまうフェチ系漫画『ジャイアントお嬢様』について語りたいと思います。

この作品では巨大化するお嬢様という要素のみに焦点が当たっています。なのでお嬢様とそれを補佐するセバスチャン以外の登場人物の顔は一切描かれていません(一巻時点では)。また、ストーリーや設定なども必要最小限のものしか提示されません。これによって巨大化するお嬢様という要素だけを堪能できるように作られています。

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巨大化したお嬢様と一般人

といっても私が語る必要ってあまりないんですよね。と、いいますのも、
www.sunday-webry.com
と、原作者本人が巨人化の魅力について長々と文章で語っています。実際のところ、私がここで何か付け足したところで蛇足にしかならないと思うんですよ。

ということで本記事はこれにて完結です!

……というわけにもいかないので、少しだけ続けます。
正直なところ、私は『ジャイアントお嬢様』をあまり楽しめませんでした。初めの数話はその題材の物珍しさと「巨人化の何が魅力なんだろう?」という疑問から興味を持って読み進められました。しかし私はそもそも巨人化それ自体にはあまり関心がないことと、それ以降の展開が同じ事の繰り返しのように感じられて飽きてしまったことが原因で楽しめませんでした。もちろんそれだけフェチに特化しているということで、巨人化フェチの人ならこの漫画の良さを存分に読み取り、高い評価を付けるかもしれません。

それではこの作品は巨人化フェチではない人間には無意味な漫画なのでしょうか? 私はこういった「自分には良さが理解できない」作品にこそ、読むことの意義があると考えています。
一人で面白そうな作品を探したり、鑑賞することには限界があります。自分の好みの作品だけを読んでいても、自分の感性を肯定するだけで、その繰り返しに人はいつか飽きてしまうものだと思うんです。

かといって、自分の感性からかけ離れた作品を受け入れるのは一般にはそう簡単ではありません。そういった作品を目の前にすると、驚き、拒絶してしまうのが普通だと思います。しかし、その驚きにこそ読むことの意義が秘められていると思っています。自分の価値観の外側にあるもの、一見して理解しがたいもの、そういったものの存在を認識し、理解しようとする。その行為の繰り返しこそが私たちが様々な作品を読み続けることの意義なのではないでしょうか。

何かを好きになること自体を本人が自由に選ぶことはできません。例えば好きな性別も、どんな年齢の人を好きになるかも、そもそも誰を好きになるかだって私たちは気付いたらそうなっているだけです。そんななかで好きになれなかったもの、魅力がわからないものを理解不能なままにしておくということは、それだけ自らの「読み」の可能性を狭めていることに他なりません。わからないからこそ、読むのです。

自分の感性の外側にある作品を理解するために、自分一人で考え抜くという方法があります。一つの作品をその作品だけで読み取り、その解釈を自分の中で完結させることにも意義があるとは思います。ですが私は、作品を他人と語り合うことや、他人の批評に頼ることにこそ生まれる可能性があると思います。自分が作品を読んで受け取ったことや、作者が伝えたかったこと、それだけではなく、それらを超えるものを発見する契機が他者との語らいのなかにこそあると私は思っています。

とはいうものの、自分自身は普段、漫画を真面目に読んで感想を言ったり考察をしたりはしていません(大変なので)。どちらかというと批評を楽しんでいる人たちを眺めて楽しんでいる気がします。他人任せですね。