mantrog

京大漫トロピーのブログです

「藤野」「京本」=「藤本」論で読み解く『ルックバック』

(著:みかんばこ)
ジャンプの無料マンガアプリ「少年ジャンプ+」で「ルックバック」を読んでます! #ジャンププラス https://shonenjumpplus.com/red/content/SHSA_JP02PLUS00020183_57

さて、『ルックバック』です。藤本タツキ久々の読切です。読切のくせ146pです。146pも描いたからには、どうしても146pで表現したいことがあったんだろうと考えるのが妥当です。きっとそれは一つではなくて、一本の論理的な筋道に沿って語れるようなモンでもないんでしょう。でもやっぱり内部に芯として通っている骨格じみたテーマは存在して、俺はそれが巷でも囁かれてる「藤野」「京本」=「藤本」論なのではないのかと、思ってならないのです。以下はその論拠を示していきたいと思います。ちなみにガッツリネタバレします。

まあ下品なほどわかりやすいですね。「藤野」はタツキ先生の漫画家としての人格の投影です。学級新聞で4コマ漫画を連載し、周りからその(小学生にしては)高いクオリティに評価を受けています。実際作中で出てくる藤野の4コマ、面白いんだよ。明らかに面白い漫画を作るセンスに溢れている。だけど、絵は稚拙なんです。
f:id:mantropy:20210719133550j:plain
この「絵が稚拙」というのは、京本がいない環境下で藤野は大して漫画に対して真剣ではないということです。天才的なセンスを持ちながら、彼女にはまだ漫画を描く理由がない。

彼女に漫画を描く理由を与える存在、それが「京本」です。京本が藤野に提供したものは主に2つ。「読者」と「理想」です。そしてそのどちらも、藤本タツキ自身が内部に抱えているものだった。先にあったのは「理想」としての京本です。同じ小学四年生で抜群に絵がうまい女の子がいる。藤野はそいつに追い付くために必死に絵の練習をするんだけど、そいつの描く緻密で繊細な絵はどうにも描けない。ある時ふと気付く。「ああ、こりゃ敵わねーや」と。そうして藤野は筆を置いてしまうわけです。だけどその後、京本は自分の熱烈なファン(=藤野の作家性の理解者)であり、自分が絵を描き始めたのも藤野がいたからだ、ということを告げられる。その言葉を受けて藤野は、再び漫画を描く決意をする……。
京本の絵が「こんな絵が描きたい」という「理想」であったと解釈すると、藤野が筆を置き、再び取るまでの過程が驚くほどするすると頭に入ってくる。「自分の理想」を、最初は自分の敵だと錯覚してしまうわけですね。俺から作家性を、意味を奪うものだ!と。しかしある時、それは自分の内部から漏れ出たものであったと理解するんです。俺の作品を心から面白いと思っているもう一人の「俺」がいて、そいつが俺に理想を与えてくる。ならば俺は、その「俺」に応えなければならない。俺は「俺」のために漫画を描くんだ!と……。タツキ先生はこの叫びを、自分から「京本」という存在を分離させて描くことでわかりやすく示したのです。

藤野と京本は中学生になり、二人で沢山読切漫画を描きます。この「二人」というものが重要です。藤本タツキは、研鑽の末「自分の理想」である京本を自分のものにしつつあった。自分の理想に応えているんです。物語の中で、彼女たちが最も幸福なのはこの期間です。つまり、(あくまでこの作品中では)自身の理想を正しく成就させているときが、何よりの美徳であった、という一本のテーマがまず見えてくるわけです。だからこそ、クライマックスでこの作品はそれを壊します。
藤野キョウはついに連載を勝ち取ります。しかし、自由に描いて自由に載せることができた読切と違い、週刊連載で絵に拘っている暇はありません。絵を描きたい京本は、美大へ進学してしまいます。京本が得意とした背景作画は「藤野」「京本」でない別の人間に頼らねばなりません。作家性を保ちつつ、絵を極めるという彼女の「理想」を、殺さねばならないときが来たのです。そしてその喪失は心の準備なんてものを待たず、通り魔のごとく唐突にやってくるのです。これが、作中あまりに唐突な「京本」の死の理由です。
f:id:mantropy:20210719133853j:plain

京本は、「理想」は、漫画を描く原動力でした。あんな表現がしたい、こんなことを試してみたい。そういったものを失い、漫画を描く意味というものがわからなくなり、藤野キョウは長期休載に入ります。
f:id:mantropy:20210719133830j:plain
ここらの藤野のモノローグは一見分かりづらいけど、これまでの話を踏まえて読むと驚くほど単純な感情表現であるとわかります。
間に挟まれるifは、(妄想かパラレルかという議論はどうでもよくて)「京本」が生きて漫画の連載を始める=理想を体現したのちに漫画の連載を始めていれば、私の理想を殺さなくても良かったのでは? という反省を、そのまま都合の良いifとして反映しているものなのです。
f:id:mantropy:20210719133906j:plain

しかし、先に話したとおり、京本が藤野に与えたものは「理想」だけではありませんでした。「読者」として藤野の作品を見ていた京本、すなわち「俺の作品」を楽しむ「俺」という存在は、消えていないのです。藤野は、京本が藤野の4コマを模した描いた漫画を読んで、京本の背中に書かれた自分のサインを見て、それに気付きます。
f:id:mantropy:20210719133917j:plain
それは、俺の作品を読んでくれる京本のために、俺の作品を読んでくれる「俺」のために描くんだ。これは藤本タツキ自身の宣言でもあります。死んだと思っていた、だが確かに自分の中に残っていたモノに再び語りかけるのであります。

理想に押し潰される苦悩、どこかで理想を手放さねばならない苦悩、それでも表現せずにはいられない。これは、そんな創作者としての在り方が詰まった作品なのであります。「理想」の背中を追うだけでなく、俺の中の「読者」が、俺の背中を見ている。そういうものに俺は突き動かされている。そんなことに気付けたら……。これが、「ルックバック」というタイトルに込められた意味なのではないかと、そう思うのであります。