mantrog

京大漫トロピーのブログです

【12/10】生きねばねばぎぶあぷ。


皆様ご無沙汰しております。


今年漫トロに入部した新入部員兼幽霊部員のやまぴです。


例会等に顔を出してはいませんが、大学とは適切な距離を保ちつつ、心身共に健康的に生活を送っているのでどうか御心配なさらず。


年の瀬も迫り寒さも日に日に厳しくはなっていますが、皆様も体調の方お気を付けて、新しい年をつつがなく迎えられることを心より願っております。


敬具



……。



あれ、これで終わりではダメ?でも漫トロに一応所属してるけど漫画とかこの一ヶ月何も読んでなくて……。



……え?漫画に関係することでなくてもいい?なんでもいいから締切があるから早く書け?




なるほど、分かりました急いで書きます。長々と茶番失礼しました。



えー、今年のアドベントカレンダーのテーマは「セイ。」ということで、色々な受け取り方ができるテーマではあります。


自分はシンプルに「セイ=生」として、「生きねば。」のキャッチフレーズ?でも有名な宮崎駿監督の映画作品『風立ちぬ』について少し書いてみようと思います。


(注意!この文章は映画『風立ちぬ』の大いなるネタバレを含むので、未視聴の方は是非とも作品に目を通していただきたし。その後この文章を……うん、まあ、見る必要ないです。)



f:id:mantropy:20211210220826j:plain





この作品の主人公は零式艦上戦闘機の生みの親である実在の人物、堀越二郎と、小説家堀辰雄が実体験を元に執筆した『風立ちぬ』のの主人公「私」がミックスされた架空の人物、堀越二郎です。


ややこしい設定ですが、個人的には実在した人物を小説の人物と混ぜて、しかもそれをかのジブリの、しかも自分の引退作(詐欺)の主人公に据えるというのが中々すごいなぁと思います。



そして作品の構造も少し複雑です。基本的には史実に基づき堀越二郎の半生を描いていくのですが、最初と最後、そして途中の要所要所では夢のシーンが描かれています。



その夢のシーンでの二郎とともに登場するのが、イタリアの設計士であるジョヴァンニ・バティスタ・カプローニ、通称カプローニ伯爵です。


f:id:mantropy:20211211004631j:plain



カプローニ伯爵は自分の夢の中に入ってきた二郎に対して「飛行機は美しい夢だ」と語り、二郎を飛行機の設計へと導いていく役割を果たしています。


しかしながら、この時代の飛行機とは戦争の道具となる運命は避けられず、実際二郎が美しい夢として追いかけ生み出した零戦は敵味方含め多くの人を死へと追いやります。



夢の中で甘い言葉で二郎を戦争の道具である飛行機設計の道へと誘い、国を滅ぼし人を殺める道へと引きずり込む、そんなカプローニの役割はある意味で悪魔メフィストフェレス的とも言えます。宮崎駿自身もカプローニ役の野村萬斎に対してその事は伝えていたようですが。



そもそもこの作品自体が、「戦争は嫌いだが兵器は好き」という宮崎駿のある種矛盾を孕んだ思いを何とかして形にしたい、という意図を持って作られた側面もあるそうで、そういう意味では二郎とカプローニはどちらも宮崎駿の写しで、夢の中での二人の会話は宮崎駿の自己対話のようなものなのかもしれません。



このように、『風立ちぬ』という作品は設定や作品構造1つをとっても中々に複雑で色々と考察しがいがある作品です。



ここからはアドベントカレンダーのテーマ、「セイ。」に沿って、作品のもうひとりの主人公とも言える、二郎の妻であり、結核を抱えながら賢明に生きようとする菜穂子の「生」と、そこに関わる二郎との関係について少し考えてみようと思います。


f:id:mantropy:20211211004649j:plain



そもそも二郎と菜穂子の出会いは、まだ菜穂子があどけない少女の頃、汽車の中で飛んでしまった二郎の帽子を菜穂子がキャッチするところから始まります。



二郎の帽子をキャッチした彼女は二郎に対し「「Le vent se lève(風が立つ)」と声をかけ、それに対し二郎は「lève, il faut tenter de vivre(生きようと試みなければならない)」と返答します。これは小説版『風立ちぬ』の冒頭にも引用されるポール・ヴァレリー詩『海辺の墓地』の一節であり、その後映画内でも何度も登場する重要なキーワードとなります。こんなオシャンティーな会話憧れちゃう。



この後汽車が地震で立ち往生し、二郎は怪我をした女中共々菜穂子たちを助けるのですが、この時点で菜穂子と女中は「白馬の王子様(菜穂子談)」の二郎に心底惚れてしまっています。



対する二郎と言えば「美しいもの以外興味がない」といった感じで、まだあどけない少女である菜穂子の事は後に再会して指摘されるまですっかり忘れ、美しい女中の方しか頭にありません。



別にそれは構わないんですが、何年も先、菜穂子に対して二郎は「君が帽子を受け取ってくれたときから惚れていた(意訳)」のような歯の浮くような戯言を抜かしており、当該シーンでは何いってんだこいつはと真顔になること請け負いです。



そもそも二郎君に関しては少々気になる部分があり、菜穂子が「大好きよ、二郎さん。」と言っても返す言葉は殆どが「綺麗だよ。」の一点張です。(例外のシーンもありますが)。


先程も説明したように、二郎は美しくなる以前の菜穂子には一切興味がなかったのに対し、成長して美しくなった途端にそちらに惹かれるようになります。


もちろん同じ男としてそういった気持ちは理解はできるのですが、それにしたって露骨すぎないかしら。勿論こういったシーンを敢えて宮崎駿は書いているのだと思います。



美至上主義とも言える価値観を持つ二郎が菜穂子の他に作品内で綺麗と称すものは飛行機や、その飛行機の骨組みの元となるサバの骨等ですが、一体菜穂子とサバの骨の間にどれ程の違いがあるものか……。

f:id:mantropy:20211211004743j:plain



最終的に、菜穂子が結核の病が酷くなる前に二郎の元を、「美しい所だけ好きな人に見てもらって」サナトリウムへ去っていく感動のシーンがあるのですが、よくよく考えてみれば、本当に愛し合う二人ならどんな状況でも最後まで支え合うのが筋のような気もします。



このシーンも穿った見方をすれば、菜穂子は二郎が求めているのは「美しい自分」であることを自覚しており、二郎の気持ちが冷めてしまう事を恐れ去っていった、とも言えるでしょう。



そもそも二郎は時代柄仕方ないとはいえ、仕事、そして自分の夢を追うことを前提として、それに病弱の無理矢理菜穂子を付き合わせる形になっています。


そして、更に問題なのはそれを上司に「エゴイズムではないのか?」と指摘されたときに真正面から答えず「僕達は一日一日を一生懸命生きている」というある種逃げのような返答をしています。どうも二郎は相手の質問に真正面から答えることが苦手なようで、同僚に自分達の飛行機設計の費用と子供の貧困について問われた時も(無自覚に)逃げの返答をしています。はぁーーーーーー(クソデカため息)




あら……。菜穂子について書くつもりが気づいたら二郎への文句でいっぱいに……?



あー、えー、なんだか色々ぶつぶつ書いてしまいましたが、これはあくまで露悪的に二郎について書いただけであり、映画内で天才として描かれる二郎は基本的にとても魅力的です。


悪口も色々言いましたが、そんな部分も含めて自分もとても好きなキャラクターです。


そして、重要なのは、二郎の存在こそが菜穂子の生きる意味となっていたということです。(ここに来て無理矢理ようやく本題)



二郎と結婚の約束をした菜穂子は父親に「病気を治したい。私二郎さんと一緒に生きたい。」と、山奥のサナトリウムへ一人で治療へ向かうことを決意します。


これは、裏を返せばこれまでは寂しい山のサナトリウムに行ってまで治療を無理に受けようとは思わない、そこまでして生きる意味は見出だせていなかったと言えます。



どれだけ二郎が少しニブチンな仕事人間で夢追い人だったとしても、その二郎と一緒に生きること、それこそが菜穂子の生きる意味であり希望だったのです。



そして、最後の夢のシーンで風と共に消えていく菜穂子が二郎にかける言葉も「生きて。」でした。菜穂子は自分に生きる意味を与えてくれた二郎に対して、感謝と共にこのメッセージを伝えたのです。自分はこの世を去るけれどあなたには生きていってほしい、と。

f:id:mantropy:20211211004958j:plain



ところで、「風が立つ、生きようと試みなければならぬ」の「風」とは、世の中における困難や人に降りかかる災難であるという解釈もあるようです。


震災や、結核に苦しめられた菜穂子や、戦争の影に付きまとわれる二郎やその他の人々、沢山の「風」が吹くけれど生きようと試みることを止めてはいけない。菜穂子の二郎に対する呼びかけは、視聴者への呼びかけでもあり、とにかく「生きねば。」というメッセージこそ、宮崎駿が伝えたかったものなのでしょう。



自分も大学という「風」に負けないように精一杯生きねば。なぁ……。