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京大漫トロピーのブログです

【12/18】何のために誕生(う)まれて、何のために呼吸(い)きる

 みかんばこです。早いものでもう6年目。ワイ史上最後の漫トロアドベントカレンダー。普段文字を書かない生活をしているので、アドカや漫トロ会誌は自分の中にあるものを形として吐き出す数少ない機会だったわけです。能動的にこういうことできる性格じゃないので、こういった機会が失われてしまうことは寂しいですね。

 最後なので、俺が漫トロで得た最も大切な財産である、『カードキャプターさくら』と『おジャ魔女どれみ』をはじめとする90~00年代女児向けコンテンツについて、備忘録的に書き散らそうと思う。

カードキャプターさくら

 去年の春頃、清盛(1コ上の先パイ)とシェアハウスで駄弁ってるときに「なんか適当にアニメでも流すか~」って流したのが始まり。例会でレニや146Bが「さくらって実は変身ヒロインやなくて、友達が自作の服をさくらに着せてるだけやねんな~」みたいな会話をしていて、なんかキモそうなアニメやね~と思い興味はあったんだよね。ふたを開けてみると実際えっちアニメだった。日常描写で丁寧に動かされる生活の細やかな所作、格好いいアクションシーンに挟まれる少女らしい仕草は小学生女児の実在のエロスを掻き立てる。大道寺知世が仕立てるコスチュームの数々はあからさまに彼女の、ひいては彼女を通してさくらにまなざされる製作陣のキモチワルイ性欲フェチが伝わってきた。丹下桜の甘ったるいロリボは脳に効いた。丹下桜の声、本当にリラクゼーション効果が高いんだよなー。最近はずっと丹下桜の曲を聴いてる。
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 そんな感じで、「肩肘張らず観れる良質な萌えアニメ」としてさくらは俺たちの生活にいろどりを齎してくれた。一日3~4話くらいのペースでちまちま観るんだけど、なんか、16話くらいまで見たとき、「あれ?このアニメ、実はめっちゃすごい……?」

 正直少女漫画って完全にnot for meだと思ってたし、善人しかいない優しい世界観も女児にショックを与えないための虚構だと舐め腐っていた。けど、『カードキャプターさくら』の、特に木之本桜の発揮する優しさというのは、子供だましの域を完全に超えていた。

 これはCLAMPのうまさでもあるんだけど、さくらの優しさって自然なんだよね。作者に言わされてる感のない、彼女自身の人格から漏れ出た優しさ。これは、規範ではなく共感ベースの優しさだからなんだ。人の哀しみや寂しさを敏感に感じ取り、自分にできる方法で寄り添おうとする。ミソなのは、彼女は人の感情そのものに共感はできるが、感情を「理解」しようとはしない。その人の感情の発露プロセスを理解しないままに、自分なりのやり方で相手が幸福な気持ちになってもらえるよう努力する。この塩梅は正しい。人の感情を完全に理解することなんてできなくて、相手の感情を理解した"気になって"寄り添おうとするとメサコンに近づくし、理解できないのだから触れぬが仏という態度はあまりにも冷めている。

 ここまで「人間が本来持つべき優しさ」みたいなものの解像度が高いキャラなかなかいないんですよ。いても、「優しさ」がある種キャラクター性として記号になりがち。さくらは違う。割と中盤まで「フツーの子ども」って印象なんだよね。明るくて無邪気、友達想いで優しい、けれど利他的な精神かといわれるとそうでもなくて、自分を蔑ろにされたらきちんと怒るし、所々で芯の強さも見せる。とはいえ勉強が苦手だったりピーマンが嫌いだったり年相応な部分もちゃんとあって、別にその辺の公園で遊んでても何の違和感もないコモンっぽさが、むしろ彼女に神秘性を与えているんだな。なんてことない顔してるけど、あーた実はUR(ウルトラ・レア)級の人間じゃない?

 回が進むにつれさくらは「フツーの子ども」から「なんだこの聖人!?」と評価が改められていく。それに伴い、さくらたちが住む友枝町も「おハイソな高級住宅街」から「なんだこの楽園!?」と認識が改まる。クロウカード編終盤くらいになると、さくらが優しさを発揮する対象(すなわち、彼女が「愛」する対象)は何も身近な人だけでなく、世界全体であることに気付くんだよね。木之本桜の愛情は、身内にも、友人にも、その辺で出会ったオッサンにも、自らを敵視してくるライバルにだって、等しく降り注がれる。その中には当然、さくら自身も入っている。帰納的に木之本桜の愛情は実存する世界のすべてに適応されることになり、俺たちはただ存在しているだけで木之本桜の愛情を受け取ることができるってワケ。だから俺にとってクロウカード編のさくらは「神」なんだな。

 一方、このさくらの博愛精神が何に支えられているかというと、それは間違いなく「友枝町」という管理された箱庭にある。父親はある程度放任しつつ継続的にめいっぱいの愛情を注いでいて、兄や友人等周囲は当たり前にさくらを愛してくれる人に溢れている。何より友枝町はどう見ても所得の水準が高く、気品と余裕のあるお嬢様・お坊ちゃましかおらん。するとどうなるかというと、「差別」や「悪意」といったものをうまく隠せるわけ。だからさくらには「愛する」「愛される」というだけのシンプルな世界を見せることが出来て、結果彼女の生来の気質である博愛精神を存分に育むことができた。清盛はさくらを理想の「娘」としていたが、恐らくこれは「友枝町」という理想的な子どもの育成基盤への憧憬という面もあるのだろう。

 さて。本題に入る。
 
 「クロウカード編」終盤から「さくらカード編」、及び「クリアカード編」の物語というのは、すべての存在の魂の救済者であるさくらが、成長と供にその神格を剥奪され凡人へと堕していく話なのだ。

 というのは大袈裟なんだけども、肝要なのは『カードキャプターさくら』のテーマって、さくらが今まで当たり前に与えて、当たり前に貰ってた「愛」ってものの存在を、カードの試練(「クロウカード編」クライマックスで最後の試練としてさくらは「誰も木之本桜を愛していない世界」に飛ばされる)や小狼との出会いと雪兎への失恋、小学生4年生から6年生という時間の中で得る様々な経験を通して、「これってすごく尊くて、かけがえのないものだったんだ……」とさくら自身が自覚的になる、という話なんですよね、ということなんですよね。これに自覚的になった途端、今まで世界に開かれていたさくらの内面世界は、閉じていってしまうんだよな。いや、俺が一方的にそう感じるだけなんだけども。

 なまじ雪兎への恋心が「特別な愛情」というよりさくらの恋に恋するおしゃまさにフォーカスされていたのもあって、安心して信仰できていたんだけど、小狼はねぇ……。ゲボ吐きそうになりながら見てたねぇ。「さくらはオメーだけのモンじゃねーヨ!」でも小狼小狼でかわいいんだよなあ。

 上記テーマのキーワードは、さくらを支える魔法の言葉「絶対、大丈夫だよ」。大川七瀬はこの言葉を「さくらを読む子どもたちに、こういった根拠のない自信を持ってほしい」という意図で用いたと発言していた。ここでいう「根拠のない自信」とは、「周囲から与えられる愛を無批判に受け入れること」。自らを取り巻く外部への絶対的な信頼が、精神を安定させるんだと言ってるんですね。この「根拠のない自信」が、自らを鼓舞するものとして機能することを知った瞬間というのが、さくらが「愛」の存在を知ったときと言える。実際、「クロウカード編」以降さくらは要所でこの言葉を使い自らを鼓舞しているし、「クリアカード編」に至ってはこの言葉(の類似品)をエールとして秋穂に送っている。

 なんか話が逸れたな。カードキャプターさくら』が描いてるのは成長に伴って、「ああ、ワイって愛されてるんやなあ」ってことを自覚する物語なんだよね、ってのが俺のある意味さくらに対する結論。で、俺はこういうテーマがめっちゃ好き。で、これは少女漫画で死ぬほど擦られてるテーマでもある。それは当然な話で、愛こそが子を育むという言説が(少なくとも90年代では)支配的だったから。俺自身そうあって欲しいと思うし、というか、

あー。

 俺はマジで大学3年生くらいまで誰からも愛されてなくて寂しいなあとか思ってたんだけど、というかみんな俺んことなんてどうでもいいんだろうなーとか思ってたんだけど、その頃留年を巡って親と顔突き合わせて話し合う機会があって、意外と親って俺自身の幸せ、みたいなの考えてくれてんだなってわかって、そこで俺の

 なんていうんだろう 他人に求める「『俺のこと気にかけてほしい』度」みたいなのがグッと下がって 今まで微小量だからって無視してた対人コミュニケーションで生まれる俺への興味のベクトル みたいなもんが 価値を帯び始めてきて あいや 俺って自分が思ってるほどどうでもいい奴じゃないな ってなって なんか自信持てるようになったっつーか

 そう言う経緯があるので、俺にとって「愛に気付く」というテーマはとても大事で、だからさくらやどれみに、こんなにもハマれたんだと思うんですよね。

おジャ魔女どれみ

 そんなこんなで『カードキャプターさくら』はすごいアニメだったので一時期シェアハウスのトレンドと化した。傷心のちろきしんに無理やりさくらを見せたら思いのほかハマり「俺はさくらや!……いや、さくらにならないとアカン!」とか言い出したのだった。ホリィ・センはなんとCCさくらリアルタイム世代で、「ゼロ年代として……」とか語り始めた。

 「CCさくら」がこんなにすごいのだからCLAMPはさぞかし素晴らしい作家なのだろうと思いありったけ金出し合って著作を揃えた。結果クロス「CLAMP班」が爆誕した。実際CLAMPはすごかった。『XXXHOLiC』>『カードキャプターさくら』>『東京BABYLON』『ちょびっツ』『こばと』>『20面相におねがい!!』『聖伝』『Wish』>「ツバサ」『X』>「探偵団」「春香伝」『ANGELIC LAYER』「デュカリオン」「レイアース

 で、そんな感じで俺たちがCLAMPに熱狂してると、ホリィ・センが「さくらが好きならおジャ魔女も見るべき」と言い始めたのだ。俺は「え~でもおジャ魔女じゃブヒれないしなあ」なんてことを思った。でも世代ど真ん中の年季入ったオタクの言は信頼がおけるものがある。曰く、2期(『おジャ魔女どれみ#』)が神懸ってるらしい。まあ2期までは見るか~。

 1期6話あたりですげーアニメかもしれんと思い始めた。『カードキャプターさくら』に比べ、各話が寓話としてわかりやすく纏まっており、得られる教訓も実践的で明快である。子どもが抱きがちな等身大の悩みを真っ向から丁寧に描こうとしてくるのが伝わってくる。クラスメイト回は当たり外れこそあれキャラクター一人一人にきちんと向き合っており(モンゴル?知らない子ですね……)、単体のドラマとして非常に出来が良い。4期17話は電車の中で見ながらガチ泣きした。

 でもやっぱり、本筋のMAHO堂回こそ『おジャ魔女どれみ』の真骨頂だよね。

 「さくら」では友枝町という街全体が、さくらに与えられる愛を担保するものとして機能していた。ではMAHO堂メンバーは……先も述べたように、観念的な「さくら」と違い『おジャ魔女どれみ』は実践的な作品。「家族」「大親友」「教師(及び公共物)」「魔法界」「ハナちゃん」と、それぞれの機能の違いを明確にしながら、彼女たちがいかに愛を交換しあい、それを自覚するかという話を丁寧に紡ぐ。

 2期はMAHO堂メンバーが赤ん坊を育てる話で、育児体験を通じて自らが母親から受けた愛を知るというあまりにも「これよほど自信ないと作れないプロットだな……」と思わされる内容で、実際本当に素晴らしかった。ホリィ・センはいつだって正しいことしか言わないな!あいこ編は両親の離婚という辛い現実に対峙するあいこと大親友としてあいこを支えるMAHO堂という居場所のバランスが完璧で、特に1期34話で、あいこのお母ちゃんが再婚していた(誤報)ことを知りショックを受けるあいこに構いなしに、あいこの辛さに共感して号泣してしまうどれみとはづきに、あいこの心がちょっぴり救われるという一幕があるのだが、これもまた交流によって他者からの愛の眼差しを自覚するという話で、なるほどだから俺はこの話めっちゃ好きなんやね~となる。

 俺は『おジャ魔女どれみ』ではダントツでどれみ好きなんですよ。なぜなら、どれみはさくらと似通った博愛精神を持っているから。どれみの優しさも共感ベースで、「構ってあげないと気が済まない!」ってタチなおかげでナチュラルなんだよねー。惜しむらくは、俺がどれみのこの博愛精神に気付いたのはもう2期の後半で、その時点でどれみにはハナちゃんという「特別」が出来てしまっていたから、俺の神にはなれなかった。それはそれとして、どれみのような子が愛されているのを見るのはとても気持ちがいいから、どれおん二次小説とかどれあい二次小説とか一時期めちゃくちゃ漁っていた。あの頃は精神が高校生に還っていた。

 ワイの好きなどれおん二次小説
「どれみとおんぷ ♪ 春夏秋冬」
https://syosetu.org/novel/63025/

 ついでにワイの好きなおジャ魔女二次小説
ルピナスの子守唄 上 | ゆめはな* #pixiv https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=9397170

 ああ、あとおジャ魔女は演出も凄かった。山内重保っていう演出家の担当回は毎話異常で、だけど演出の意図はきちんと計算されていて……この辺の話はおジャ魔女座談会で語ったからいいか。

こどものおもちゃ

 「どれみ」を見終わり、「魔女さが」を見、吉田寮おジャ魔女同好会の人たちとATEKKOで遊び、清盛は卒業していった。次の「どれみ」を探して「ナージャ」観たり、「少女コゼット」観たり、あと普通に「プリキュア」観たり。就活もひと段落した夏休み、じゃあ古い少女漫画でも読んでみようかしらと手を出したのが『こどものおもちゃ』。

 いやー。痺れたね。この漫画は、「さくら」や「どれみ」で描いていたテーマを踏襲しつつ、二作品で描けないところを補完している。「さくら」や「どれみ」より1世代くらい前の作品だから、踏襲したというのは実はヘンなのだけれども。読んだ順番が順番なので仕方ない。

 この作品は、「優しさ」が微塵もないんだよな。

 主人公・紗南ちゃんにはマネージャー兼ヒモである玲くんという恋人がいるのだが、実態は玲くんが紗南ちゃんの恋人ごっこに付き合っているだけだという、(少し違うが)さくらと雪兎みたいな関係性がある。
 紗南母が紗南→玲への気持ちは実のところ恋でもなんでもないのよ、という指摘をするシーンと、雪兎がさくらの告白を丁寧に、さくらをなるべく傷つけないように断るシーンを見比べるのが一番わかりやすいだろう。
 「こどちゃ」の該当シーンで母は紗南に「あんたはおもちゃを1人じめしたがってるただの子供よ 恋する女にはほど遠いわね」「そーよ!恥ずかしい!あんたは子供なのよ!お子様ランチだ!」とまあ煽る。煽りまくる。そして紗南を泣かせた挙句、これが紗南の恋愛に対するトラウマを植え付ける結果になる。

 ……とまあ。この母は、藤隆さんやはるかママを見習え!と言いたくなるほどよくやらかす。普段は紗南と一緒にいる時間をきちんと取って、愛情自体は注いでいるからいいものの。
 
 でもこの「優しくない」というのは、あえて厳しくしているわけじゃなくて、ただこういう接し方しかできないんだろうなと感じさせるところがリアル。作中でも母親の行動は肯定的に演出されつつ、否定的なツッコミも入りつつ、後にいい結果を齎すこともあれば悪い結果を齎すこともある、と描写が非常に中立的。少なくとも作者は自覚的にやっているのだろう。

 この作品は「さくら」や「どれみ」よりよほど現実志向だ。ストーリーの展開はたいぶファンタジーだけど。この作品に木之本桜春風どれみみたいな聖人君子はいない。紗南は家・学校・芸能活動の3足の草鞋を履き、3つの居場所を転々とする。ここで、芸能活動はいわずもがな、学校ではコミュニケーションを少し間違えるとギスりだすし、家はたまに母親が問題を起こす……そう、友枝町、MAHO堂といった「安定した居場所」というものが存在しない。

 だから、この作品の登場人物はみんなとても不安定。不安定ながらどうにかバランスを取ろうと頑張って立っているから、どのキャラクターにも張り詰めたような強さがある。だけどそれは一見強く見えているだけで、事実紗南は終盤プッツンして表情筋が全く動かなくなる「人形病」という精神疾患に悩まされることになる。

 安定したければ依存先を増やしましょう、というのが「こどちゃ」の結論な気がする。

「生きていれば明日が来る 苦しみにのたうち回って 喜び見つけたら大笑いして 強くなって生きて行く」
「私達は… 強さと弱さを両方抱えて支え合っている… 私にはたくさんのすてきな「支え」がある」

 かなり違う作品のようでいて、結論として得られたこの辺の解が、「さくら」や「どれみ」とそう相違ないというのが面白いと思う。

 「愛に気付く」というテーマに加え、「そもそも絶対的に信頼できる愛情が、子どもの頃に受け取れなかったら……」という問題提起も立てているあたり本当に容赦がない(とはいえこういう見方でキャラクターを読み解いていくのはナンセンスだと作中で批判されているが)。とはいえ、結局、「さくら」も「どれみ」も「こどちゃ」も、そして俺も、子どもたちに賭ける願いってのは一緒なんだろうな。だから、この3作品は深いところで共鳴しているんだと思うよ。

 生まれたんだから、生きてくれ。

 以上。

 

 

*1:丹下桜「Bright Shine on Time」が使われているkey作品MAD。なぜか途中で木之本桜が出てくる。