mantrog

京大漫トロピーのブログです

新歓毎日投稿企画【4/6】

ここここここんんんんんんににににににちちちちちちはははははは。新2回生のラマです。

名目上は新歓担当ですが、ぶっちゃけ私も入トロして日が浅いので、むしろこちらが歓迎されたいと思う今日この頃です。


テーマは春ということで、春と言えば桜、桜と言えば(?)『夕凪の街 桜の国』ですね~。


作者は『この世界の片隅に』等でおなじみのこうの史代。出版当時は社会現象になるほどの反響だったとか(2004年のことなぞ知るわけないので、当然wiki調べ)。


丁度この前、鴨川沿いの桜が残っていたのでその下でこの本を読んでいました。

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お外での読書、気持ちよかったです。

話の大筋としては、前半の「夕凪の街」では終戦から10年後の広島のとある場所(原爆スラム)に住むメインキャラ・平野皆実の日常描写を中心に話は進んでいきます。表向きには元の生活に戻りつつあるのですが、被爆体験のある彼女は自身が多数の犠牲の上に成り立つ存在であることに苦悩しており、その葛藤が主軸となっています。

後半の「桜の国」においては、メインは皆実の弟・凪生の娘である石川七波に移って物語は展開していきます。被爆二世としての自身やその周囲の人々の生についての彼女の考えの変化が根底にあり、濃厚な読後感を味わえるでしょう。


今回は桜からこの作品に辿り着いたので、この作品における”桜”の役割やそれについて意図されることに関して、「桜の国」に焦点を当てて考えていこうと思います。


というのも、まあ作者に対するイメージもあるのですが、この作品について語る時にどうしても”原爆”というテーマに引っ張られてしまうんですよね。実際作者もあとがきで”ヒロシマ”(≠”広島”)がテーマだと語っていますし、これらを念頭に置いて読むのが一番正しいと言えるのでしょう。


しかしそんなものは過去に多くの人がやってきたということは想像に難くありません。そんなn番煎じを書評の素人がやったところで見るに堪えない駄文が一つできるだけなので、少し視点を変えてみよう、というわけで上記のテーマに決定しました。


※もっとも、ブログである関係上 “考察文としては”短めの文章になっており、検証や記述は不十分ではありますが、その点はご容赦ください。





前置きが長くなってしまいましたね。さっさと本題に入りましょう。


最初から見ていきます。なお、「桜の国(一)」は今回の本筋とはあまり関係ないので状況だけ軽く整理しておくにとどめます。この話において石川七波は小学5年生。祖母と父と弟の4人暮らしです。

亡くなった彼女らの母は被爆者、よって七波と弟・凪生の姉弟被爆二世であることがわかります。


七波は野球チームに所属し活発に生活していく中、友人の利根東子と交流を続けていました。彼女ら2人で凪生のぜんそくの見舞いに行ったりもしていました。

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楽しそう


その時七波の祖母の病院での検査結果が悪く、最終的に祖母は他界。加えて凪生の通院により七波の一家は引っ越しし、東子とは会えなくなってしまったというところで終わります。




そして「桜の国(二)」。七波は28歳になり、父親もだいぶ老けました。


場面は序盤~中盤のあたり。七波が父親のボケを心配し彼の外出を尾行していた時、小学校の旧友・利根東子と十数年ぶりに再会した箇所からスタートすることにします。

七波は表面上東子との再会を喜んでいるように取り繕いますが、実際は



「会いたくなかった。この人(東子)の服といい髪といい、あの桜並木の町の陽だまりの匂いがする」


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この直前のページに「会いたくなかった」って書かれてます

とのこと。

この時点では、東子という人物を介して、桜並木の街という自身の生まれ故郷を苦々しい記憶として封印していたことが伺えます。


ちなみに冒頭でも、七波が東子の話題を意図的に避けていることが確認できます。


また七波らの祖母が亡くなる直前、見舞いに来た七波を自身の被爆死した娘の友達だと勘違いし、生きていることを妬むような発言を浴びせられたことも判明します。

これに加えて母親もこの(桜並木の)街で失っていますから、彼女が先程のような認識をしていることも至極当然と言えそうです。



父親を追うさなか、凪生が東子の両親に交際を反対され、彼が致し方なく書いた東子への別れの手紙を七波は発見。

その中の「ぜんそくを…(中略)…持って生まれた」という箇所がフォーカスされていて、七波と凪生の姉弟被爆二世としての立場に苦しんでいることが示唆されています。


その後、東子が原爆資料館を訪れ気分が悪くなりながらも合流。彼女は帰りのバスで、



「ここ(広島)に来られてよかった」と七波に吐露。



そして七波は、

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と自身が桜並木の街での苦い記憶を忘れたいものとしていたことは、七波や凪生が原爆の影響でじきに死ぬかもと決めつけられていたことと同じであることを悟ります。

なお後者に関しては、先程の東子の両親の考えに表れています。

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ドイヒー(死語)


帰宅後、(七波の画策により)凪生と東子を会わせ、二人がいい雰囲気になっているところを見届けた七波は、凪生が東子に宛てた別れの手紙を破り捨て、最後に花吹雪とともに



「確かにこのふたりを選んで生まれてこようと決めたのだ」と改めて自身の生を肯定。



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親が被爆被爆二世として生まれてきて、死と隣り合わせなどと言われて苦労を強いられてきましたが、そうした周囲の冷たい視線を乗り越えて結ばれようとしている凪生と東子を見て、こうした未来への希望を抱いたのでしょう。

結果そうした境遇を受け入れて、前に進めると七波が確信できたからこその場面であることは間違いありません。


このように、この作品における桜(並木の街)の役割は、七波が母と祖母と死別した場所という苦い記憶として存在していることがわかります。

そして花吹雪と一緒に、この暗い過去に囚われた自身を開放しているのでしょう…。



そしてこの花(桜)吹雪にもちょっとした仕掛けが施されているのですが、ちょっとそこにも立ち寄ってみましょう。


通常“桜が散る”=“春が終わる”という図式が成り立ち、どことなく物悲しい雰囲気を醸し出しています。

しかし先程の考察で、七波にとって桜は暗い過去と共に想起されるものだとしました。そして花吹雪で負の思い出を払拭するとも。

このことから、この作品では桜が散ることが、未来への明るい希望として描写されていると言えるのではないでしょうか。


桜を負の存在として扱うことでこうした芸当が可能になり、花吹雪の印象と七波の明るくなった(吹っ切れた)感情が見事に合わさって、素晴らしいシーンとなる結末が出来上がるというわけです。


まあこじつけだと言われればその通りなのですが、あくまで私の一考察(感想)として軽く流して読んでいただければ幸いです。







終わりに

初回なのでそれっぽいことを書きました。考察と言っておきながら根拠もクソもない主観満載の文章ですが、文体がそれっぽいのでまともに見えるのではないでしょうか?実態は論理性の欠片もありません。これが2回生の実力だぜ☆

ちなみに最後の方にもう一度私の番が来ます。その時は好き勝手書く予定です。こんな堅苦しい考察(笑)を書くつもりは毛頭ないですね。めんどいし。