目標……『放浪息子』はなんかすごい!人間が描けてるぞ!でもなにがすごいのかわからん!ていうか人間が描けてるってそもそもなんやねん!
手段……『放浪息子』じっくり読むぞ!
登場人物
二鳥修一:にとりん。主人公。女の子になりたい男の子。
高槻よしの:高槻くん。男の子になりたい女の子。
千葉さおり:千葉さん。デンジャラスビューティー。
佐々かなこ:ささちゃん。心優しき苦労人。
有賀誠:まこちゃん。にとりんの親友。この世界で一番の乙女。
二鳥真帆:お姉ちゃん。修一の姉。怖いけど優しい。
瀬谷理久:瀬谷。真帆の彼氏。いいやつ。
末広安奈:あんなちゃん。真帆のともだちで読モ。
二宮文也:キザでおしゃべりなヤなやつ。
二鳥ママ:二鳥姉弟の母。
やまぴ :アドカを書いている。でもなんか忘れてるような……。
注意事項
・この作品に限らない話だけど、概ね自分の興味は作品の登場人物と、登場人物が織りなす人間関係の方に向いており、今回の理解試みもその辺が中心になる。テーマ性の深い話とかはできなさそう。
・ネタバレしかないので未読の人は注意!
といいつつも、人間関係のネタバレってどこまでふぇーたりてぃなんですかね。自分は知らない作品の感想とかよく読むけど、知らない作品のキャラの名前とか覚えられないからネタバレにならないんだよね。
本文スタート
目標にも書いたけれど、自分は『放浪息子』に対して、もう少し広く言えば志村貴子作品に対して、「なんかすごい!」「なんて人間が描けてるんだ!」という感想を漠然と持っている。
でも冷静に考えたら「人間が描けてる」ってなんだよ。意味わかんねー。だからどうにかして、『放浪息子』のすごさ、つまり「なぜ放浪息子は人間が描けている」と読者(自分)に思わせるのかを知りたいと思った。
この文章はそれを何とかして知るための試みであり、だからこそ対象読者は「なんで放浪息子(志村貴子)ってこんなに人間が描けているんだ!」と漠然と感じている画面の前のあなたである。うーんせますぎる。
さて、こういう場合まずは「人間が描けている」の定義を考えるのが定石だろう。えーと、えーと、えーと……。
なんか、難しいかも……。
もしかしたらこれは定義がある問題ではないのかもしれない。条件ならいくつかあげられるかもしれない。例えば、
・登場人物がストーリーに動かされていない
・登場人物の多様な側面、人間ドラマを描けている
・登場人物が内面を持っているように見える
・登場人物の変化(≒成長)を描けている
この辺は、ドンピシャの答えとはいかずとも、「人間が描けている」のある程度重要な要素を占めている気がする。自分でてきとーに考えたやつだから妥当かはわからん。まあ上から順番に考えていってみるかぁ。
①登場人物がストーリーに動かされていない
うん。これはわかる。事前に決めたストーリー、物語の筋に沿うために、登場人物が「らしくない」行動をするときにストーリーに動かされるとよく言う。あんまりひどいとストーリーの奴隷になってるともいう。放浪息子に関しては、これは全く当てはまらないだろう。これは人間関係より描きたいストーリーがある場合の話であって、ファンタジー物とかバトル物とか、そういうジャンルによくみられる問題だしね。加えて、志村貴子はインタビューなどで公言しているように、話の筋は事前にはほとんど考えずその都度悩んでひねり出しているらしい。だからこそ、登場人物たちがその場でどう動きたいかに耳を傾ける時間とかが多くなるのかもねぇ。後は、関連する話で物語の本筋の側道みたいなところのの登場人物の行動で深みが出るとも思う。物語の本筋を「必然」とするなら、ある意味「偶然」ってやつかな。
好きなシーンに、ささちゃんと千葉さんの交換日誌の話があってさ。本筋としてはにとりんと高槻くんが2人のジェンダーに関する「秘密」を共有するための交換日誌があるんだけど。2人の交換日記のやり取りを見てこれまで4人でいたささちゃんと千葉さんは仲間外れにされた気がして寂しくなってしまう。だから、2人は自分たちも交換日誌を始めることにしたんだよね。それをきっかけに、今までさん付けで呼び合ってた2人の関係があだ名呼びになって、いつの間にか親友になっていく。こういう「偶然」が大切な人間関係につながっていく感じすごくリアルだなと思うし、本筋と絡めつつもさらっとこれができるのは上手いなぁと思う。
②登場人物の多様な側面を描けている
これに関しては、放浪息子は結構すごいことをやっていると思う。主に2点ね。
1点目は「読者」/「登場人物」で情報量の操作がとても巧みなところ。言いかえると、『放浪息子』には「読者だけが知っているあの子の言動」と「読者が知らないあの子の言動」が存在している。
まず、「読者だけが知っているあの子の言動」の方は、これは冷静に考えると当り前の話。だって、読者は物語を読む「神の視点」が与えられてるんだから。でも、これをうまく活用できるかが分かれ目。好きなシーンはお姉ちゃんが弟を傷つけないために嘘をつくやつ。でも、嘘をついたそのシーンではそれが嘘とは全く思わないんよね。ちょっと後くらいに回想であんなちゃんの本心が見れて、実はお姉ちゃんがあの時は弟を守るために嘘を伝えてたってのがしれっとわかる。普段は弟をボコボコにしてるお姉ちゃんの優しさが垣間見えるいいシーンだし、それを何より読者だけに、しかもちゃんと読んでた読者だけにわかるようにさらっと流して描くのが憎いね。「俺だけが知ってる」っていう感情が、キャラクターへの愛着と直結してるんすよ。
で、「読者が知らないあの子の言動」の方は、これはかなり志村貴子節というか、真骨頂という感じはする。『敷居の住人』のミドリちゃんがお父さんと一週間旅行に行くけど、「行先は二人しか知らない」みたいなはぐらかされ方するシーンとか特に顕著だけど。読者の知らない部分でも物語は続いていく、とはよくいうものの、これをここまで地でいって、しかも成立させてしまうのは作風とセンスの神がかり的な噛み合いというほかない。『放浪息子』ではここまで直接的なのはなかったけど一個笑っちゃったシーンがあってさ。それが、知らない間に(1話間に挟んだくらい)にとりんとあんなちゃんが実は交際してたってわかるシーン。マコちゃんめっちゃびっくりしてたけどこっちもびっくりや!!!いや、確かに1話前でちょっと仲良さそうにしてたけど、でもずっと仲悪かったやんけ!てか、にとりんのここぞの行動力がすごすぎる……。こういうドッキリがあると登場人物と同じ気持ちで楽しめるし、自分たちに見えてるのは一部で、後ろで彼らの物語はちゃんと動いてんだなってわからされちゃうよ。
で、2点目は、多様な側面を見せるための「場」を用意することに長けてるところ。
一番わかりやすいのは劇中劇かな。文化祭で男女の性別が入れ替わった世界の「倒錯劇」をやるんだけど、『放浪息子』の題材を活かすためにこれほどマッチしたものはないよね。漫然と学園群像劇のテンプレをなぞるわけではなくて、この題材ならこれをやるべきっていう嗅覚がすごい。ただ、「倒錯劇」を提案する先生の内面描写が志村貴子自身の願望とか若干漏れてない……?って感じで、なんか変に浮いてるキャラクターになってるのはちょっと不自然で面白い。
「場」選びの巧みさはテーマに関わる重大なところ以外の日常描写でも発揮されてる。なんか、冷静に考えると変な「場」で笑っちゃうんだけど、当人たちはいたってまじめで、しかもそれで普段見れない面白い人間関係が描けちゃうやつがいっぱいある。例えば、真帆と瀬谷のデートに弟のにとりんが着いていく回とか結構印象に残ってる。
そもそも、2人のデートはダメで、そこに弟がついていったら許すっていうお父さんの判断がそもそも面白い。で、お姉ちゃんは弟をどっかに放置して2人のデートにしようと画策するけど、瀬谷がそれを「いや、かわいそうでしょ……。」ってとめる。いいやつや。そしたらそれで2人が喧嘩して電車で弟が間に座ることになるわ、ビーチついたらにとりんは瀬谷の足の毛を見ることしか考えてないし、かと思ったら今度は「女の子ごっこ」のためにふらっといなくなっちゃう。そしたら、お姉ちゃん「あいつ可愛いから連れていかれたんだ」って焦って必死に探して、何とか見つかって最後にはゴツンと一発。いやー、この回ほんまに読んでて楽しいけど、こんなにキャラの魅力が立つ回になってるのは「場」選びの巧みさのなせる業よね。ここから得るべき教訓は「少しぐらい導入が不自然でも、登場人物が一番魅力的に見える『場』を用意すべきだ」ということなんでしょね。
③登場人物の内面を描けている
うげーーーー。ここにきて強敵だ……。「内面」とか「人間が描けてる」並みに扱いにくいよ……。内面って心ってことでいいんかな……。
少しづつ考えていくかぁ。まず、「内面」を描くこと自体は難しくない、と個人的には思う。例えば、ドラゴンボールの栽培マンって確か内面とかなかったと思うんだけど、そのうちの一匹が「オレハ……イヤダ……!」とか言い出したら、まあ、そいつだけは突然変異で内面持ったんだろうなとは思う。でも、別にそれで「人間が描けてる」とはならんよなぁ。
まあ、だから内面とか心ってのはあるように見せればいいってもんではなく、どういう風に見せるかの次元に問題はあるっぽい。その次元の話でよくあるのは「葛藤」とかだろう。実際『放浪息子』でも性のゆらぎの話はもちろん、千葉さんと高槻くんの恋敵と親友との間での葛藤とか見るべき部分はとても多い。かつ、それらが自分が「人間が描けてる」と感銘を受ける理由のある程度大きい部分を占めているのは間違いなさそう。
ただ、ここでやっぱり見落としちゃあいけないのは、「葛藤」自体は別に2つの相反するものを対立させたら簡単に生まれはする。だから多分、どういう過程で葛藤が生まれて、生み出された後どうやって折り合いをつけていくかという部分に芯があるということだ。つまり、いかに「葛藤」を演出するかがカギだ。
さて、ようやく本題。
『放浪息子』における葛藤のカギは「衝動」と「自己嫌悪」だろう。まず衝動から。この作品では、というか、志村貴子の作品では衝動で動いてしまうキャラクターがたくさん出てくる。そもそもこの物語は衝動的に、にとりんが女の子の服を着てしまい、それを見られることに喜びを覚えたところから始まっている。デンジャラスビューティーな千葉さんや文字通り弟泣かせなお姉ちゃんはもちろん、ちーちゃんなんか衝動の塊だし、高槻くんやまこちゃん、あの優しいささちゃんですら時には衝動的に行動する。
これは衝動的な性格、とかではなく、もちろんグラデーションはありつつも、登場人物全員に見られるもので、多分志村貴子の人間理解に基づくものなんだと思う。
「衝動」は人間の弱みだ。心が抑えきれなくなる。単なる好奇心の時もあれば、やっちゃいけないと頭ではわかっている時もある。「衝動」の結果は、まあ、色々あるけれど、概ね面倒ごとをもたらす。でも、「衝動」は人間の弱みだけど、人間らしさでもあると個人的には思う。完全に統制された人間なんて、それはもはや人間ではないし、むしろ、そういう衝動的な言動こそが本心を表すことも多いだろう。そう、「衝動」は本心と繋がっている。だから、僕は衝動に身を任せて動いてしまった登場人物たちを見る時に、「ああ、人間らしいな」と親近感を覚える。
そして、衝動の後に来るのが「自己嫌悪」だ。誇張とかじゃなくて、マジでみんなずっと自己嫌悪してるんよねこの漫画。高槻くんと千葉さんはずっと互いを思っているのに素直になれない自分のことを自己嫌悪するし、マコちゃんは親友の「かわいさ」を妬んだことを自己嫌悪する。どうしようもない自分に振り回されて、どうしようもなく自分を嫌うその姿が愛おしいんよ。ところで、登場人物たちが自己嫌悪する場所は大体ベッドの上なんだよね。にとりんとお姉ちゃんはずっと二段ベッドの上下で怒りと自己嫌悪を繰り返し続けてるんだよね。この二人の関係がなんだかんだで一番好きかもなぁ。
さて、衝動と自己嫌悪は
④登場人物の変化(≒成長)を描けている
にも結構関わってくるからこのままいきましょか。変化≒成長としてるのは、成長は変化の一類型というか、変化をどういう側面から見るか、という話でしかないからね。
そもそもこの漫画は変化の最前線、小学校~高校の話なんだから、そういう話は欠かせない。この年代の思春期の子どもをノンストップで描くのって意外と珍しいというか、そこに挑むだけでただものじゃないなって感じはするよね。有名漫画でパッと思いつかんなぁ。メジャーとかそうなの?NARUTOは一部そうだけど、ノンストップではないもんなぁ。
話を戻すと、衝動と自己嫌悪がどういう風に変化に関わるかって話やったね。
端的に言えば、衝動と自己嫌悪は変化のパロメーターだ。例えば、小学生の頃は登場人物たちの多くは衝動に身を任せている。その極北がにとりんたちの交換日記を奪ってクラスの中で読み上げた岡っちや土井くんだろう。
そして、小学生の段階では、衝動の後に自己嫌悪がこないやつらもいるんだね。おかっちとか土井くんはこの時点ではそう見えてた。もちろん、衝動を抑える子もいるけどね(多分マコちゃんが一番冷静だろう)。そういう意味で小学校編が終わる4巻の終盤はすごかった。性の目覚めとともにやってくる恋愛の初期衝動の嵐がクラス中に吹き荒れて、人間関係を根こそぎさらっていく。あの辺りはすごすぎて圧倒されっぱなしだったし、この漫画で一番面白いところはどこ?って聞かれたら多分小学生編の最後って答えるかなぁ。
でも、年が上がるにつれて少しずつ変わっていくんよね。衝動は徐々に収まっていくし、その過程で自己嫌悪を覚えたりもしてさ。しかしそれにしても、最終盤で、土井くんがにとりんと仲良くなるのはびっくりしたわほんま。最初の方にした「偶然」の話もそうだけど、ホンマにこの漫画人間関係が読めないんよね。登場人物の変化についていけないというか、それこそ10巻以降は子どもの成長を見ている気分で、少し寂しかったよ。それも含めてこの時期の子どもの変化をよくかけてるんだと思うけどね。
変化に関連して作画の話とかもちょっとしとくか。ねとはさんがカメラの固定と背景トーンによる心情表現が初期にはあって、それが画力の向上に伴って少なくなっていった、という話をしていてなるほど!となったんですが、これに関しては少女漫画への接近という側面もあるとは思う。3,、4巻あたりから、表情とかを描こうとする姿勢がより鮮明になるんだけど、この時期は大体『青い花』の連載開始時期とも重なる。
で、実際この作風の変化は狙ったかはともかく、作品で描くものの変化ともかなりマッチしてると思う。小学生ってそこまで複雑な表情しないし、無邪気な顔してなんでもするってイメージがあるのよね。で、それが自然なんだと思う。でも年齢上がるにつれて、多彩な表情を学習して、相手に何かを伝えるってことに自覚的になる。つまり繊細な表情を使い分けてコミュニケーション手段として効果的に利用するようになる。で、そうやって泣き顔とか笑顔とかのバリエーションが色々描かれるようになるのが、ちょうど小学生編が終わって中学生編が始まる時期ってのはピッタシだなって。後、個人的な好みだけどカメラ固定したやつかなり好きなんやけどね。突き放した感じと自由に読める感じが気楽というか。表情ってコミュニケーション手段って言ったけど、読み取る負荷がやっぱりかかる部分があって。少女漫画に慣れてないのもあるし、豊かな表情じゃないと描けないのもあるから一長一短やけどさ。
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個人的に変化の話で好きなのは、まあ、二宮文也かな。文也ってヤなやつなんだよね。一番初めににとりんをおかま野郎って呼んだのもそうだけど。千葉さんにずっと付きまとうし……。で、一番アレなのは、こいつは自己嫌悪しなかったのよね。多分そういう回路が存在してないタイプの人間。だからずっと千葉さんにアプローチしてもふられ続けてきた。でも、にとりんが本当にまずいなってなったときに側にいてくれたのってなぜかこいつだったし、文也が見せた「誠意」のあり方がすごい好きだった。
高校2年になった文也はバドミントン部を辞めたかったんだけど、その為には部員を集めて来いって言われて。だから1個下の新入生のマコちゃんとにとりんを引きずり込んだのよね。ここまではヤなやつだけど。でも、その時マコちゃんに「人を陥れといて辞める気?」って聞かれて、そこで千葉さんとのやり取りを思い出したのよね。「この性格を変えるよう努力するから付き合ってくれ」っていった時のことを。
そこで、一拍おいて、悪かった、て謝ったのよね。そんで部活に残ることを選んだのよね。驚愕したよ。え、あの文也がって?さっき回路が存在しないって言ったけど、それなのに、千葉さんとの約束を守ろうとしたのよね。千葉さんには見えない、関係ないところで。これさ、約束した人から見えないところで、関係ない奴の前でも「誠意」を見せようとしたのに心底驚いた。結局さ、今まで生きてきた癖って治らないから文也は簡単にはいいやつにはなれないわけよ。今回みたいに衝動的に「ヤなやつ」の部分が出て来るのは止められないし、この作業って自分のダメなところを見つめる苦しい作業で自己嫌悪の極みみたいなやつだと思う。正直本音を言えば文也が「ヤなやつ」のままでも別にいいと思うよ。でも、今までやってこなかたそんな茨の道を、文也が自分で選んで歩もうとしてる瞬間を見て、「あ、こいつ本気で変わろうとしてるんやな」って。正直カッコいいと思ってしまったよ。みんな変化してんねんな。
そんなこんなで、まあまとめると、
・登場人物がストーリーに動かされていない
・登場人物の多様な側面、人間ドラマを描けている
・登場人物が内面を持っているように見える
・登場人物の変化(≒成長)を描けている
この辺の4点について、『放浪息子』がほんまよくできてることがわかったし、「人間が描けてる」(自家中毒)に対するモヤモヤも若干取れた気がする。でもやっぱり文章にすることでこぼれ落ちてしまった部分がかなりあるなぁというのは否めない。読んだことない人いたらぜひ読んだらいいよ!シェアハウスにあるからさ!
あと、カラオケボックスの修羅場の話とかめっちゃ面白いし、さおりんと高槻くんの関係とか、二鳥ママの話とか、最終巻でのにとりんの告白とか、まだ色々話したいことはあるんだけど、さすがに眠いねん……。ほなおやすみ……。
おい!寝るな!卒論をかくの忘れてるぞ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!