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京大漫トロピーのブログです

【12/17】みんながそうやって大人になってもわたしは子供の頃の事を忘れない

みかんばこです。奇数日なのでテーマは「赤」。「赤」は"終わり"を想起させる色だ。日暮れの夕焼け、落ちる間際の赤紅葉、星の晩年の赤色巨星。"終わり"そのものではないけれど、「ああ、終わっていくんだなあ」という感傷を齎してくれる。"終わり"に向かう時の流れに対しては身を委ねることしかできず、されど"始まり"の輝きには胸を焦がされる。"始まり"の輝きとは、「白」だ。明け方の空が白むように、一等星が青白い光を放つように。希望と可能性に満ち溢れた「白」が、時の経過によって徐々にその様相を変え、「赤」によって終末に誘われる。「赤」の美しさはこの魔性を孕んでいるように感じる。

小さい頃から未来を想像するのが好きだった。高校生の自分はどんな人間になっているだろう。大学生は、社会人は、あるいは老後は?それは他愛ない子どもの空想でしかなくて、つまらない現実から逃避するための幼稚な手段であったけれど、幼少の時分だからこそ信奉できる「可能性」というものに希望と価値を見出していたのも確かだ。しかし、ひとつ歳を重ねるごとに「可能性」は減っていく。代わりに自分が取り零してきたものばかり目につくようになる。あの頃に戻りたいと強く願う。やり直しの希望ではない、ただ可能性に満ち溢れ、未来を夢想することを許されたあの頃への純粋な憧憬。それは転じて、「子ども」の神聖性への崇拝と妬みに昇華する。

子どもが大人になる話が好きだ。とりわけ、成長とともに喪失を描いている話が好きだ。成長に伴う喪失の示唆は、俺の子どもに対するルサンチマンを和らげてくれる。大人になれという強迫的なメッセージに幾分かの納得も与えてくれる。特に好きなのは『ディスコミュニケーション』内宇宙編の一編、「天使が朝来る」だ。

「この日だ…… この日子供のわたしたちは死んで…… 大人の男と女になったんだ……」

初めて着る中学生の制服、夕陽が差し込む廃墟に佇む大人びた幼馴染、「美紀にキスしてもいい……?」、触れ合うふたり、降りてくる天使、身体を撃ち抜かれ、血と内臓をぶちまけ、体内から「リンガ」と「ヨニ」が生まれる───

第一に、すべての絵が美しすぎる。人が自然に惹かれ合うことを艷美的に示唆し、天使による祝福から一転、子どもの彼らはグロテスクに殺され大人へと生まれ変わる。ペニスとヴァギナを象徴する「リンガ」と「ヨニ」を携えて。

たいていの人間は、この光景を観測できない。恋に焦がれるままに、何もわからぬままに、いつの間にか大人になって、そのことを受け入れている。けれど美紀は違った。彼女には男女の持つ「リンガ」と「ヨニ」を視る力があり、その力のせいで子どもの自分たちが殺される瞬間を見てしまう。子どもから大人になるにつれてはっきり失われるものがあるということを認識してしまうのだ。だから彼女は成長を拒絶する。ここでいう成長とは、子どもの頃の平等な関係を捨て去り、男と女の関係を受け入れることだ。

「子供の頃の──男や女なんて関係なくて、一番 気が合う 一番 仲良しだった行彦が好きだったんだ」
「どうして大きくなると押し倒したり押し倒されたりする関係にならなきゃいけないの」

恋愛はどうしても傷付け合うことから逃れられない。子どもの「仲良し」にそんなものは必要なかったはずなのに。けれど大人の恋には子どものそれとは比べものにならないほどの輝きと、快楽がある。無邪気に可能性を追求する子どもたちは、この輝きには抗えない。「みんなこれから大人の世界ではじまる──今まで経験した事のない新しい出来事への期待を抑えられないんだよ」 だから、永遠に子どものままでいるには、自分の可能性を自ら閉ざすしかない。だけど、可能性を追えない子どもはもはや子どもとしての役割を果たさないし、完全に可能性を閉ざした人間は死人と変わらない。結局子どもは自らの可能性を追求する限り、色々なことを忘れながら大人になるしかない生き物なのだろう。俺はどうしても、やるせなさとともに「ざまあみろ」とも思ってしまうんだなあ。