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京大漫トロピーのブログです

『まちカドまぞく』全話読破RTA、開幕。

芳文社の漫画アプリ、コミックFuzくんが『まちカドまぞく』二期放映にかこつけて全話開放企画を行ってくれるようです!

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4/7 19:55 ~ 4/8 1:27の333分限定公開!

……ん?

333分!?

 やまぁ、全話無料公開ってだけでもだいぶ思い切った判断だとは思うけどさ、333分……しかも木曜の夜から深夜にかけてのみって。最低1日くらいは取るもんじゃないの。こういうのって新規参入を目途に企画されるモンだと思うけど、「よーい、ドン」で一気読みを強要されるこのシステムについて来れるヤツ元からのファンくらいなもんじゃないか。

 しかし、この作品を無料で(しかも単行本未収録話まで)読めるのは実際破格である。まだ読んでいない諸兄はこの機会に是非読んでもらいたい。日常系のテンポ感を保ちながら、緻密に練られたプロット、類稀な作者の言語センス、やけに情報量の多いコマが脳味噌に叩きつけられる読書体験はこの漫画独自のものだ。きっと今まで見えなかった世界が拓けることだろう。ただ、4コマ漫画かつコマ単位のカロリーが異様に高いこの漫画は、ぶっちゃけ一気読みには向かないと思う。以下は作品紹介がてら、僕なりのこの作品の読み方というものを、さらりとしたネタバレを含みつつ解説していきたいと思う。

comic-fuz.com
↑ここから読める。

「動」の「日常系」、それが『まちカドまぞく』

 漫画は「静」と「動」という二種類の属性に大別される……と言っても、日常系に慣れ親しんだ人でないとこの表現はわかりづらいかもしれない。簡単に言えば、物語を通して大きな変化があり、その変化を楽しむ漫画が「動」であり、物語に起伏がなく単話でオチのつく漫画が「静」である。「静」の漫画は、『ドラえもん』を思い浮かべてもらうとわかりやすいと思う。「まんがタイムきらら」をパイオニアとする萌え日常系は、常に「静」の漫画を出発点としてきた。日常系漫画の根幹にある「永久に続く幸福な日常を尊ぶ」という思想は、動かない物語を描く「静」の漫画から見出されたものであるはずである。それは『キルミーベイベー』や『平成生まれ』のようなギャグマンガに大別されるような漫画からも読み取れ、読者に安心を齎してくれる。

 日常系といえど、全く話が動かないわけではない。『ひだまりスケッチ』は高校三年間の寮生活を通して出会いや別れを体験し、人生の岐路に思い悩みながらキャラクターたちが成長するさまを描いているし、『ご注文はうさぎですか?』は香風智乃が友人たちとの交流を通して社交性を身に付けていく物語が筋として存在している。こういった緩やかな変化に喜びや、時には痛みを伴いつつも、それでも彼女たちの幸福な日常が続いていくことに僕は安心感を覚えるのである。この安心を支える屋台骨は、「彼女らのキャラクター性は大きく変化しない」ことである。暮らしを通してたくましさを身に付けることもある。新しい気付きを得ることもある。考え方に変化も生まれる。けれど根本の属性は変化しない。それは翻って、読者に対しても「己の人格の連続性」を保証してくれる。自分が絶対的な「自分」という土台にしっかりと立てているという信頼感。この信頼感こそ僕が「安寧たる日常」の最も重要な要素と考えるからこそ、それを示してくれる日常系漫画を好ましいと思う。日常系漫画はこういった「静」の要素を主にしている。

 さて、『まちカドまぞく』は「まんがタイムきららキャラット」で連載されている4コマ漫画であり、例に漏れずきらら漫画の系譜を引き継いだ作品である。しかし、この漫画の主は「静」に非ず。「静」の日常ではなく、激動するせいいき桜ヶ丘の物語を根底で支える地としての日常が主体となっている。

 この漫画は「魔族」とそれを討伐する「魔法少女」が緩やかに共存する町・「せいいき桜ヶ丘」を舞台に、魔族の主人公・シャドウミストレス優子が魔法少女・千代田桃や町の人々と共に日常を守っていく物語である。この漫画を読む際に注目してほしいのは、主人公である優子と桃のキャラクター性の変化だ。序盤、二人は互いに欠落を抱えたキャラとして描写される。優子は長い闘病生活から何も知らず、何も経験を得ていない透明な、無垢なキャラとして。桃は姉の失踪と、魔法少女として挫折したトラウマから幸福を喪ったキャラとして。この両極端が二人が出会い、密なコミュニケーションを通して互いの欠落を埋め合い、人間的な成長を遂げ、強さを獲得していく。この「欠落を埋める」という作業─────自分のなかに今まで無かったものを取り込むということは、人生の方向性を180度回してしまうほどの変化である。80余年の生の中で幾度あるかという大イベント。これを真正面から、「日常系」を冠しながら描いているというのがこの作品のキモである。

 1巻時点の優子・桃と、最新巻時点の優子・桃は、キャラクターがまるで違う。優子は桃や周りから与えられる経験を貪欲に吸収し、自身にある魔族の力を自覚し、町を守るボスとしての責任感に目覚めていく。桃は優子と共にある日常にささやかな幸福を覚えることができるようになり、失踪した姉との思い出に縋るのではなく、優子を守ることを人生の指標とする。

 この変化が、物語を通して二人が愛を紡いでいく過程(※「絆」、ではなく「愛」である。)と共に描かれる。優子の持つ生来の優しさや子どもっぽさ、桃の脳筋思考など、根本の人間性は揺るがない。しかし主は「動」のキャラクター性である。
 
 キャラクターの変化は、彼女らの日常の在り方も変容させる。優子の交友関係を通じて吉田家の住む「ばんだ荘」には人が集うようになったり、優子がスマホを手に入れることでSNSでの交流が生まれたり。だからこそ、『まちカドまぞく』は「動」の「日常系」なのである。変化しながらも、変遷が丁寧に描かれるから、また住人や町の雰囲気のおおらかさが時間の緩やかさを感じさせてくれるから、日常が地続きであると感じられる。尊ぶことができる。日常に幸福を感じる彼女たちを微笑ましく見ることができる(稀に日常の変化を千代田桃が露骨に嫌がる描写が見られ、ニヤリとすることもある。)この日常の描き方は、嘗てのまんがタイムきららにはなかったものではないだろうか。(『ステラのまほう』は少し近いかもしれないが、あの作品は変化してしまうことの切なさに一定の比重がある気がする。)

確固とした思想、丁寧な心理描写から描かれる成長譚

 「動」の漫画はその変化を楽しむものと述べた。ではこの漫画の「動」の楽しみ方に目を向けてみよう。優子と桃が互いの交流やせいいき桜ヶ丘で起こるイベントをどのように享受し、結果どのような成長を遂げていくか、これらの描写が非常に繊細であることがこの作品の魅力の一つだ。何も知らない一人の少女であった優子が自身のパーソナリティ、桃の秘密、町の謎を知るにつれて生じる「この町で自分は何をすべきか?」という問いに真摯に向き合って答えを得ていく成長譚。過去に囚われ半ば余生のように日々を過ごしていた桃が優子との出会いを通じて心を解きほぐしていく清算の過程。この絡み合う二つの物語が並行して描かれることで、ストーリー全体の深みが増している。

 両者の物語の根幹にある思想は「自身の無力さと向き合いつつ、今自分にできることに目を向ける」ということである。それが、優子は大魔族の末裔という使命に対し足りない力量を補うために、桃は自分の生きる理由を取り戻すために、と全く逆のベクトルから描かれているのだ。

 強い言葉を使えば、優子は強者の理論で、桃は弱者の理論で動いているといってもいい。とりわけ優子の物語のプロットは秀逸だ(この漫画の視点は基本優子なので当然なのだが)。巻単位で彼女が目指すべき目標を彼女自身が定め、それの成就にひたすら邁進する。時に無力さを痛感し、時に自分の意味に思い悩みながらも、折れず、経験を通して人間的成長を遂げていく。優子のこの強さが、俺にはとても眩しくて、跪きたくなる。

 両極端な二人の物語には、互いの存在が必要不可欠になっている。優子が自分自身で決めた彼女の歩く道は、常に桃が指針となっている。桃が過去を乗り越えるための贖罪は、常に優子が赦す形で行われる。なんと完成した二者関係だろうか。『まちカドまぞく』という作品は、どの角度から読んでみてもこのような美しい話の筋が見えてくる。それが読者に「読み」の楽しさを与えてくれるのだ。噛めば噛むほど味がする、スルメ漫画と呼ばれる所以はここにある。6巻~最新巻にかけては、優子と桃のほかにもうひとつ、優子の妹・良子の話も動き始めており、彼女がどのような成長を遂げてくれるのか楽しみに読んでいる。ショートだった良子の髪が伸びてウェーブがかったセミロングになってるの、良いよね……。

「愛」から「恋」、そして「性」。

 この作品は聖書をベースに世界観が構築されている。魔法少女のナビゲーターは大天使の名を冠しているし、物語中盤ではもろ契約の箱をモチーフにしたアイテムが登場したりする。作中に登場する魔族は日本神話や中国神話からの引用であったり、作者の引き出しの深さには脱帽させられるものだ。小ネタレベルでコマに散りばめられているモチーフもあったりするので、そういったものを探し出すのもこの漫画の楽しみ方の一つである。しかし、この作品で語られる「愛」は、聖書的な価値観を前提としながら少しズラしている。そして、この作品の「愛」の描き方が、僕はたまらなく好きだ。

 聖書で語られる「真の愛(アガペー)」とは自分以外のすべてに向ける自己犠牲的な愛である。そして主人公である優子は、この愛の体現者だ。彼女は物語当初から「無自覚な博愛主義者」という資質を持っており、作中ではそれが「優しさ」と形容される。誰とでも分け隔てなく接し、淀みのない好意をまっすぐに向け、他者のために動くことができる。優子以外のキャラに打算的な人間関係の描写が多いことから、優子という存在は意識して超越者として描かれていると考えていいはずだ。優子の父・ヨシュア(=イエス?)が過去に隣人愛を説いていた、という描写もある。
 
 とはいえ優子は15歳の少女。常に聖人然とした振る舞いをしているわけではない。何よりこの物語の導入は、魔族として覚醒し一族にかけられた呪いを解く使命を背負うことになった優子が、同級生の魔法少女・桃にちょっかいをかけあしらわれるというドタバタコメディだ。だからこそ、優子は「恋」もするのである。先に述べた優子の成長譚の一端である「桃と対等な存在になりたい」という欲求から芽生えた恋心は、桃との交流を通じて膨れ上がっていく。博愛を本質としたはずの彼女が、ただ一人の少女に対して重い愛を募らせるようになるのである。この倒錯は意図して描かれているものだと解釈している。この作品の「愛」のテーマは聖書を離れ、心理学的な側面が強くなっていく。

 特徴的なのは、この作品は愛の形の多様性と、その順序をきっちり意識しながら描いていることだ。相互理解の果てに、互いが互いへの好意をはっきりと意識するのが3巻時点なのだが、この頃の二人の関係性は姉妹愛の側面が強い。同じ部屋で時間を過ごし、優子の作ったご飯を一緒に食べ、相手のことをもっと知りたいと願う。共に生きることの居心地の良さとささやかな幸福、これが出発地点である。その後、桃から優子へは無償の献身愛が、優子から桃へは性愛が生まれていく。

 そう、この作品は性愛を描くのである。それは、「優子は桃のへそを見ると問答無用で触りに行く」という描写に代表される。

 これは完全に性愛のメタファーである。愛の対象が、その人格から肉体へと広がっていく。これをさも露骨に、しかし日常系の範囲内でさらりと描写してくる。『まちカドまぞく』はこういった本来内面的であるはずのものを、行動やイメージに移すという視覚的な描写で描くことが多い。精神分析的な思想が根底にあるように感じる。桃から優子への性愛も描かれるのだが、それが「優子に(物理的に)食べられる夢を見る」というド直球もド直球な描写で笑ってしまった。

 こうして育まれていった二人の愛は、やがて強い執着、独占欲を生む。この描き方も大胆というか、「相手の交友関係が広がることについ渋い顔をしてしまう」、というかなり面倒くさい愛情に帰着している。ジョン・アラン・リーのラブスタイル類型論から言葉だけ借りれば、ストロゲー(友愛)→アガペー(献身愛)→エロス(性愛)→マニア(狂愛)という一つの愛の育ち方というものを、この作品が意識していることが伺える、と僕は思っている。


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 さて、「作品のこの要素に注目してもらえれば、初読かつ一気読みでも楽しく読めるのではないか」というポイントを僕なりに紹介したつもりだ。しかしこれはあくまで僕個人の読み方であり、この漫画の魅力は到底語りつくせていない。語りたいポイントはまだあるのだが、正直つらつら語るより読んでもらった方が面白さを解しやすいだろ、と思う部分が多い。この記事を最後まで読んでピンと来なかった人でも大丈夫。楽しめるはずだ。神漫画だから。ではまた。

comic-fuz.com

(文責:みかんばこ)