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京大漫トロピーのブログです

【12/5】性の聖性についての省察

 漫トロピー新規副会長となりました、一回生の蔦屋と申します。以後よろしくお願いします。
 さて、今年も「聖なる夜」、またの名を「性なる夜」Christmasが刻一刻と近づいてきました。従ってアドベントカレンダーのテーマの解釈ですが、王道の「聖」「性」について考えてみたいと思います。というのも、性的な文脈(Twitterでいう「センシティブ」ではなく、もっと広義の)においてしばしばそれらが聖なるものとして美化して語られている(あるいは私が語っている)ように感じることがあるからです。本日はこの点について、極めて主観的な省察をしようと思います。
 ほんの少し身の上話をすると、最近Twitterで呟き始めました。あれがなんとも不思議な気分で、私は元来自分のことは覆い隠していたい性質なんです。だから当然自分の呟きは誰にも聞かれたくないし、以下の文章もできれば読み飛ばしていただきたい。……とは言いつつみんなが私を少しでも知ってくれることを考えるとそれはそれで快感なんです。これはもはや精神的露出狂ですね。とりあえず今日のところは若輩の戯言程度に聞いていただければ嬉しいです。

 本題に戻ります。最近、自分はロリコンなのでは?と思う瞬間がたまにあります。それは自分の文学的嗜好を省みた時です。私の好きな漫画をここで紹介しておくと、『のんのんびより』『よつばと!』『干物妹!うまるちゃん』『炎炎の消防隊』『放課後ていぼう日誌』などです。いずれも言わずと知れた名高きものではありますが、あえて共通点を見出すとすれば……Mädchen! 女の子なんですね。女の子たちが純粋。清廉。無垢。私はロリコンを、その無垢さゆえにあどけなき少女に心をときめかせる存在だと思っているので、私は自らのロリコンの範疇に入ることになります。そして我が家(ここでは真の意味で)ではロリコンは異端審問の対象になるので、いつバレるかと戦々恐々としているのです。
 以前、ひょっとしてこれはまずいことなのでは?と思い、ロリコン(以下、紳士)についてpixiv百科辞典ニコニコ大百科で厳正に調査をしたことがあります。そこで知ったスローガンがこちら。
「Yes!ロリータ No!タッチ」
 私は今のところこれを叫ぶほどの情動を心に萌したことはないのですが、いざという時の自決用の毒薬として常に首からぶら下げています。ところでこの言葉からは、紳士たちがロリータという欲求の対象を不可触なものとして、禁忌の領域に置いていることを見てとれます。彼らはロリータを神聖視しているとも言えるでしょう。
 ここから少し真面目な話になりますが、なぜ紳士が白い目で見られる風潮にあるのかという問題について、その嗜好が犯罪に通ずるからとは単純には言えません。なぜなら性犯罪は年齢差のある関係に限らず起こりうるからです。紳士がその他の嗜好に対して決定的に問題なのは、対象であるロリータに十分な判断能力が備わっておらず、欲求が実体化したならば力関係が必ず非対称になってしまう点だとされています。つまり、正しい性的関係には「対等な合意」が必要であるといえ、これは精神の問題になります。こうした社会的通念の中、実現しない恋にひとしきり悩んだ紳士から、「十分に判断能力を備えたロリータならば、愛でても問題ないではないか!」という発想が生まれます。これを可能にするのがロリババアです。彼女たちは外見的には無垢にもあどけなさを残しつつ、精神的には豊富な経験を積んできたのですから。この感覚はそれなりの賛同を得るでしょうが、一定数の紳士は精神的無垢の喪失をもって「もはやロリータではない。」と主張するでしょう。(私はロリババア推奨派です。)

 ここで今回のテーマ、性の聖性を論じたいのです。手始めに私は、紳士らの訴えに対してこう言いたい。私たち紳士から見えている大抵の少女像はロリババア的だ、と。これについては『のんのんびより』の少女たちが明らかに年相応の知能と機転を超えていることが例として挙げられます。

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かわいすぎる、が…… (『のんのんびより』2巻より) 

 方法論的にあえて逆の立場から論じるとすれば『鬼滅の刃』のキャラクターたちが挙げられます。本作における男性キャラたちは大変魅力的です。真面目で家族思い、正義感に溢れているが天然の炭治郎。臆病で劣等意識を持つが、いざと言うとき頼りになり女の子には積極を極める善逸。美しい容姿でありながら盲目的な戦闘狂でやがて情に厚い一面を露わにする伊之助など、多様なキャラの溢れる魅力に作品人気が裏付けられていることは疑う余地がありません。しかし人格的リアリティに関して言えば、「鬼滅」は仙人たちのコンツェルトといえます。等身大の青少年は、正義と友情であんなに一意専心、百折不撓を体現できるはずがありません。

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仙人のごとき言葉の重み (『鬼滅の刃』10巻より)

 本当の青少年はいい意味でもっと短絡的で卑小で怠惰だと言ってしまいたくなる。これに比べるとまだ女性陣の「添い遂げる殿方を見つける」や「姉を殺された復讐」の方が現実味があります。多少ゾッとはしますが。この漫画では、男性が聖なる性、ショタジジイとして描かれており、対して女性は多少リアルなのではないかと思います。これと同じことがおそらく大抵の少女および女性像にも起きているのではないでしょうか。すなわち大抵の少女および女性像は、彼女たちがあの年齢では到底到達できない、愛でたき性質を備えているのではないでしょうか。
 しかもこれは既婚者、未婚者の作品に関わらず言えることではないかと私は感じています。というのも今、授業で夏目漱石の文章(『彼岸過迄』)を読んでいるんですがやはりこのような女性像を反映しているんです。しかし彼はやはりすごくて、女性が永遠の謎であり、魔性であり、男性には決して核心に触れられないものだと分かった上でその技巧に翻弄される男たちを描いています。これは彼の文学者としての素晴らしき素直さと洞察だと思います。ただ、既婚者の漱石ですらこの調子であり、また多くの既婚漫画家も同様だろうと思うので、男性にとって女性像は聖なるものになる必然性を含んでいるといえるのではないでしょうか。そしてその逆もまた然り(というのは私の女性像ですが)。異性の認識とは聖性を備えざるを得ないものである気がします。
 大抵の人は、自分はこの聖性に自覚的だと言うでしょうし、実際大きな問題がない程度にはわきまえているのでしょう。しかし、聖性は理性の枠に収まらないからこそ聖性たるのであって、実は気を抜いた瞬間に恐るべき事態を招いているのかも知れません。例えば、「同性がやっているとムカつくけど、(かっこいい、かわいい)異性が同じことをやっていると許せてしまう」と感じる機会は意外によくあると思います。極論で言えば、ヒトラーを女性として描いた小説でも読めば、私もヒトラーに同情的になってしまうかもしれないし、それが私の総合的ヒトラー像に影響を及ぼさないとも限らない。正直に言ってこれは避け難いことだと思います。異性は聖性を備えながら、理性を超えて認識そのものを歪めてしまうことさえありうるのです。
 さて、結論ですがまず我々は、異性は根本的に聖なるもの、無限の努力の先にも辿り着けるかどうかわからないものであることをはっきり認めなくてはなりません。さもなくば、わきまえのない紳士たちのように、この歪で不可解でされど美しい等身大の世界を聖なる世界に押し込めた末、その罪を償う羽目になりかねません。しかも十分に聖性を自覚した上でなお、聖性による世界の歪みを覚悟しなくてはなりません。ここまでくると、もはやまともに異性と喋れる気がしませんね。
 ……ということで聖なる夜は性なる夜などではなくて、性の聖なることを孤独のスパイスとともに噛み締める楽しい夜にしましょう!\(^o^)/

 と、己の非リアなることと、それゆえのルサンチマンとを盛大に暴露したところで本稿の結びとしたいと思います。それでは皆さん、良い年末をお過ごしください。