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京大漫トロピーのブログです

『空の青さを知る人よ』を見ろ

こんにちはファービーです。先日、醤油とばいたるとの関東出身の3人で『空の青さを知る人よ』を見てきました。埼玉の秩父が舞台だからね、しょうがないね。(なぜか)映画の上映前に面白かったら感想をブログに書くと醤油と約束してしまったので、感想を書きます。ネタバレを含むのでまだ見てない人は映画館へGO!
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あらすじ

あらすじは公式サイトから引用します。

山に囲まれた町に住む、17歳の高校二年生・相生あおい。将来の進路を決める大事な時期なのに、受験勉強もせず、暇さえあれば大好きなベースを弾いて音楽漬けの毎日。そんなあおいが心配でしょうがない姉・あかね。二人は、13年前に事故で両親を失った。当時高校三年生だったあかねは恋人との上京を断念して、地元で就職。それ以来、あおいの親代わりになり、二人きりで暮らしてきたのだ。あおいは自分を育てるために、恋愛もせず色んなことをあきらめて生きてきた姉に、負い目を感じていた。姉の人生から自由を奪ってしまったと…。そんなある日。町で開催される音楽祭のゲストに、大物歌手・新渡戸団吉が決定。そのバックミュージシャンとして、ある男の名前が発表された。金室慎之介。あかねのかつての恋人であり、あおいに音楽の楽しさを教えてくれた憧れの人。高校卒業後、東京に出て行ったきり音信不通になっていた慎之介が、ついに帰ってくる…。それを知ったあおいの前に、突然“彼”が現れた。“彼”は、しんの。高校生時代の姿のままで、過去から時間を超えてやって来た18歳の金室慎之介。思わぬ再会から、しんのへの憧れが恋へと変わっていくあおい。一方で、13年ぶりに再会を果たす、あかねと慎之介。せつなくてふしぎな四角関係…過去と現在をつなぐ、「二度目の初恋」が始まる。

「空の青さを知る人」とは

本作のタイトルにもなっている「空の青さを知る人」とは誰のことなんでしょう。おそらくひとり目は、相生あかねです。
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本作ではしきりに井の中の蛙大海を知らず、されど空の青さを知る」という言葉が使われます。これは井戸にいるカエルは大海を知ることはないけれど、一つの場所に止まり続けたからこそ、知っていることもあるという意味です。妹のために地元に残り成長を見守り続けたあかねこそ、この「空の青さを知る蛙」なのでしょう。
もう一人は13年前の慎之介こと「しんの」も「空の青さを知る人」です。
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本作の主題歌であるあいみょんの『空の青さを知る人よ』の歌詞にこんなフレーズがあります。

赤く染まった空から
溢れ出すシャワーに打たれて
流れ出す 浮かび上がる
一番弱い自分の影
青く滲んだ思い出隠せないのは
もう一度同じ日々を
求めているから

様々な解釈ができると思いますが、この歌詞を大人になって現実の厳しさによって自分の無力感が明らかになった時に若い頃の自分を思い出しているのだと僕は思いました。
青二才という言葉があるように、青さというのは若さの象徴です。主人公のあおいは妹であり、あかねは姉です。若者は根拠の無い自信をを持つものです。それが若者の特権と言わんばかりに。しんのの持つ「空の青さ」とは「思春期の全能感」に他なりません。主要人物4人の中でこの「思春期の全能感」を持っているのはしんのだけです。
以上のこと踏まえると、本作はあおいが二人からそれぞれの「空の青さ」を受け取る話だと考えることができます。
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あおいはあかねに対して、当初、複雑な感情を抱いていました。これまで育ててくれた感謝を持っていると同時に、自分のせいで地元に繋ぎ止めてしまった罪悪感、あるいは大海に出て行こうとしなかった若干の失望感。あおいが地元から出ていきたいと思っているのは、ベースで成功したいという思いからではなく、どこかぎごちなさの残る姉との関係に踏ん切りをつけたいという思いからでした。しかし、物語の終盤であかねが書き続けてきた自分の成長を記したノートをみて、あかねがいかに苦労して生きてきたか、そしてあかねは決して不幸ではなかったことをあおいは知ります。一つのことに向き合い続ける大変さと、そして一つのことに向き合い続ける価値をあおいはあかねから学んでいきます。
また、作品を通してあおいはしんのに惹かれていきます。それはしんのが自分にないものを持っているからです。それこそが「思春期の全能感」です。あおいは両親を事故で亡くし、姉に迷惑をかけてこれまで生きてきました。そのため、どこか擦れていて現実から目を逸らすためにベースを弾いているような面があります。だからこそ、天真爛漫に楽器を奏で希望を持って前に進もうとするしんのの姿が魅力的に映るのでしょう。

本作のメインテーマ

本作のメインテーマは「思春期の全能感」の肯定です。一般論として、若者の根拠なき自信というのは空虚なものであり、やがて若者は現実に叩きのめされ、自分の限界を知っていきます。それを象徴するかのように13年後の慎之介は現実に打ちのめされた存在として登場します。またしんのが蔵から出られないという設定も「思春期の全能感」が現実に影響を与えることは出来ないのを表しているのでしょう。だからこそ、物語終盤であおいとしんのが手をとって蔵から飛び出すシーンは、「思春期の全能感」が現実を変える可能性を持っていることの提示に他なりません。しんのとあおいが共に空を舞うシーンは観客にカタルシスを与えると同時に、「なんでもできる」というのを端的に示した素晴らしいシーンであると個人的に思っています。
「思春期の全能感」は大人たちにも影響を与えます。しんのの思いに触れた慎之介は、空は飛べないながらも現実的な手段であかねの元へと走り出しますし、あかねはしんのとのやり取りでどこか諦めていた慎之介との恋愛の最初の一歩を踏み出します。そういった意味で、「思春期の万能感」というのは空虚なものではあるけれど、外へ一歩踏み出す勇気を与えてくれる存在である、だからこそ無価値ではないというのがこの作品の伝えたいことなのでしょう。
最後のシーンであおいは空に向かって思い切りジャンプします。しんのと一緒に空を飛んだことを思い出すかのように。しかし、そのジャンプは空は愚か、地面からわずかに離れただけのように描かれます。このシーンは、あおいが「思春期の全能感」をしんのから受け取ったこと、世界にはどうしようもなく現実が存在すること、それでも一歩進むのは出来たことを全て同時に描き切った儚くも希望のあるものではないでしょうか。


最後に

本作はどちらかと言えば大人に向けて作られた作品であると思っています。私自身、学生の身分であり「思春期の全能感」を失いつつも現実に打ちのめされる経験はまだしていません。なので本作が心の奥にまで響く作品であったかと言われると難しいです。ですが5年後,10年後に見返したい作品であることは間違いありません。だからこそ、今大人の人に見てもらいたいと思っています。
今回、映画の絵、音楽、演技などに関して詳細に書くことはしません。ですがどれも高水準で素晴らしいものであると思っています。もしこの記事読んで映画に興味を持ったら映画館にいって見て欲しいです。売り上げがあまり芳しくないらしい…

P.S「こち亀」永遠じゃありませんでしたね。