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京大漫トロピーのブログです

【12/21】やり過ごして生き延びる

こんばんは。今日は中央食堂でカボチャを食べて、オグリビーくんと東山湯で柚子湯に入りました。その後オグリビーくんはつけめ「ん」を食べました。僕は和え麺にしました。今は干し柿をかじっています。あなた、傘を持ってきとるかいの? アマガミ冬至に放映を終えたらしいですね。

最近は寒いので死にたいなぁと思うことが増えています。「人間仮免中つづき」「その「おこだわり」、俺にもくれよ!!(2)」「動物たち」を続けて読んでいたら、迸る生へのエネルギーと生活での多様な執着と日々のおぼろげな感傷とが渾然一体となり、悪酔いしました。人生の幸福とはなんでしょうか。幸福という字は、幸不幸、不運、という連想を誘いませんか。即ち、幸福であることは運がよかったのだ。人生に不満/不安があることは、不幸なこと、運が悪かったのだ。というような。HappyをLuckyの問題にすり替えるような価値観が日本語には暗に含まれているのかもしれない、と思いました。これは貧困を拡大再生産する社会構造から目を背けた体制側の陰謀です。僕は家が裕福でしたから大学まで行けそれどころか3000万の貯金があるので国会議員にもなれるのですが、それでも朝が来なきゃいいのにと思って眠っていますし、別に果たしたい大志もないです。アンラッキーではありませんしアンハッピーでもありません。わーいわーい楽しいな。楽しいな。夢みたいだなこんな暮らしは。悪い夢だといいのにな。

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( 読みましたか? )

この作品の素晴らしいところは、「大切なものがない」という感傷を漫画に落とし込んでいるところだと思います。田岡さんは、ふと頭によぎった妄想に抗うことが出来ません。それは、妄想に従う快感をかけた天秤の向こうの皿に、何も載っていないからです。食事をひっくり返せば後で片付けなければならない。万引きをすれば逮捕されてしまうかもしれない。ついていけばエッチなことを要求されるかもしれない。こうした可能性は、彼女にとってどうでもいいことであり、眼前の快感の方が優先されてしまいます。ちば先生は、この歪みを「家庭の崩壊」のきっかけによるものだ、と評しておられますが、私は「家庭の崩壊」自体は単に彼女が何も持っていないことを記号的に示すだけの一文だと思っています。

ちば先生の選評
「家庭の崩壊」が少女の人格、物の価値観、人を見る眼、それらの全てを大きく歪ませ、“自暴自棄”になってゆく生き様を淡々と描いている。その言動は、時に唐突で異常だが、抑えが効かない日常は虚しくリアルだ。光る画力、演出力を更に磨いて、希望の持てない現代人の「ビョーキ」を描いてほしい。

田岡さんは何にも執着しません。作ったご飯にも、貞操にも、社会的体面にも、職にも。しかし、それは悟りの境地に至って欲望を捨てきったからではありません。ただ、どれも大切にしたいと思えないからなのです。だから彼女は、なんとなく仕事も辞めるし、なんとなく赤井くんを受け入れます。

僕がとても悲しくなるのはそれからです。
彼の思いつきに流された同棲生活の結果にあるのはなんでしょうか?

幸福です。
あからさまに幸福然として描かれる胡散臭い幸福がそこにはあります。食事、セックス、晴れた日の休日に二人でするバドミントン、一緒に過ごした写真が打ち付けられたコルクボード。彼の帰りを待ちながら見るどうでもいいテレビ番組。

守るべきものがないことは彼女の信念ではありません。
ただ、何もなかったから、思いつきの衝動に抗うだけの理由さえ持っていなかったから、散発的な破滅行動に走っていただけだったんです。彼との生活は、彼女にとって大切なものとなったのです。254pの笑顔。これを見て、彼らの生活が欺瞞だと切り捨てる権利を我々は持っているのでしょうか?

また、彼女との生活は、彼にとっても救いでした。万引き女子高生を脅迫レイプしていた男が、AVを借りることで性欲を処理しようとする。たとえ他者から異常性癖者に見えようとも、彼にとっては現実と折り合いをつける大きな一歩じゃないですか。めっちゃ良いシーンやんけ。これだけでも何度か思い返してしまうわ。

しかし、ストーリーは勧善懲悪の宇宙法則から逃れられず、彼女は再び彼を失い、衝動抑制機構は消失します。子供が作った砂場の城を蹴り飛ばし、包丁を手に取り外を眺めます。蝉が鳴いてます。個人撮影レイプを見ながら彼女の口から滴ったスイカの汁が僕の頭にフラッシュバックして、物語は終わります。

結局元に戻ってるじゃないか、この物語に何の意味もなかったじゃないかと言う向きがあります。僕は違うと思います。無気力や無感動や不感症は、誤魔化して生きていける。他愛もない生活が、それをやり過ごさせてくれる。これはある種の救いだと思います。それを逃避だと言うのなら、生きる理由なんてどこにあるんでしょうか? 生きる理由が具体的な形を取れば、人生の中で失われることだってあるでしょう。でもそれは確かにあったし、無くなってしまったからといってそれが嘘だったなんて思いたくない。

「今はもうない」ことは、「かつて確かにあった」こと、「またいつか手にできるかもしれない」ことの裏返しです。物語世界は続きます。作中で描かれる時間は作者の恣意的な枠組みに過ぎません。僕は田岡さんがその生命や生活を致命的に投げ出してしまわないことを祈ります。それはそのまま自身への期待でもあります。

生活の些細な煩悩が錨となって、人生に縛り付け続けていてほしい。そう思って、ろくに出来もしないのに、干し柿を作ったり、梅酒を漬けたりして、先に希望を作っています。最近、どうして季節ごとのイベントがこんなに多いのか分かってきました。細切れにしなければ人生はあまりに長すぎる。死にたいなんて言わずに明日も頑張って生きていこう! 自分以外の人・ものを大切にしたい。 黒鷺でした。

こんな記事しか書けず、「お前結局自分のことしか好きじゃねぇんだろォ!?」と怒られてしまう。悲しい。