シチョウです。今年も様々なコンテンツが誕生しました。その中でも特に、今年は「面白いとは」「つまらないとは」を問うコンテンツをよく目にしましたね。
これとか。
これとか。
また、近年は配信産業の隆盛により、新たな「面白い」を発掘しようという試みも数多くなされています。
これとか。
これとかですね。
ですが、これらのコンテンツを知っていればいるほど、「面白い」人、というわけではありません。このままだと、漫画やお笑いが好きなだけの人です。インプットをいくらしても、アウトプットができなければ何の意味もありません。ですが、我々は漫画家や芸人のように、自分の「面白い」を漫画やネタで、つまり彼らと同様の形式で表現することはできません。では、我々は自分の面白さをどこで表現すればよいのでしょうか?我々がこうしてアドカで記事を執筆するように、文章などで面白さを表現するのも一つの手でしょう。しかし、文章は読んでもらえなければ面白さを理解してもらえません。理解させる前に、一つハードルがあるわけです。より手っ取り早く、己の「面白い」を表現する場、それは会話でしょう。我々が生活するうえで、他者と会話することは避けられません。不可避な以上、もし「面白い会話」ができれば、それだけで他のどの分野で「面白い」より容易に「面白い」と認められるでしょう。では、面白いコンテンツを浴びるように摂取した我々は、いかにして面白く会話ができるのか?
考察します。
そもそも「面白い会話」とは?
そもそも「会話」とは?
[名](スル)複数の人が互いに話すこと。また、その話。「会話を交わす」「親しそうに会話する」「英会話」(デジタル大辞泉より)
この定義に従って、考察する。会話が成立する必要条件、それは「話し相手が存在し、話すターンが両方に回ってくる」ことである。この条件に基づけば、「自分がすべらない話や小噺を披露する」だけの状態を「面白い会話」とは呼べない。加えて「会話」を考察するにあたって考慮すべき要素といえば、その即興性であろう。例えば漫才やコントの台本の暗記・再現で面白い会話ができる、というわけでもあるまい。では?「面白い会話」のロールモデルとは何だろうか。一つ考えられるのは、「マルコポロリ!」「向上委員会」辺りの、芸人だけで構成される平場バラエティ番組だろう。『水曜日のダウンタウン』のように、企画で面白さが担保される番組とは違い、「マルコポロリ!」「向上委員会」ではそういった企画や括り(「○○SP」的な括りが一応毎回あるが、ほとんど機能していない)は到底番組の軸には成りえず、従って、平場でいかに「会話」が展開されるかが番組の面白さに直結する。これらの番組は純度が高いぶん、「会話」を分解して、「今どういう流れで、何でどう言えばウケるか」を明示的に提示するし、自分が話す際にも大いに参考になる。
ただ、あれだけの速度や純度で会話が成立するのは出演者がバラエティの手練れだからであり、我々が想定する会話の相手はバラエティの手練れではない以上、これをそのまま活用できる場面はそう多くはあるまい。「平場」を展開せず、議論などの際に少し場を和ませるくらいで十分な場合も多々あるだろう。そういった場面で活用できるのは、「クレイジージャーニー」『マツコの知らない世界』辺りの、タレントではない人物を主軸としたバラエティ番組の、VTRの合間のスタジオトークであろう。松本人志やマツコ・デラックスが、ゲストやカメラに向かって気の利いた一言を放ち、一旦オチがついて、次のVTRに進む。初対面の相手やフォーマルな場、本音で会話する合間に笑いを交えたい場面など、使える幅が広いのはむしろこちらの方だろう。ただし、こちらはあくまで相手待ちの手法であり、自分から積極的に会話を展開したい際には頼れまい。
つまり、「会話が面白い」人には、いずれの能力も必要である。以下では、「面白い会話」について、この2種類について独立に考察したい。
本当に面白い会話をしよう<大人数編>
まず、平場バラエティ的能力が活きる場面を考えよう。考察にあたって彼らがバラエティの「手練れ」たる所以を考えたい。彼らは一体何が上手いのか?端的に言えば、「空気を読む能力」が高い。より具体的には、「適切なタイミングを見計らって、あるいは自分から場を展開して、適切なコメントを放り込む能力」が高い。これが活きる場面はどこか?1on1なら、ボールは交互に持てばいい。逆に言えば、大人数でボールを回す場なら、この能力は大いに威力を発揮する。そして、この能力が我々の活動に活きる最大の場面、それは総合座談会だろう。最低限話す内容は持っていくが、それを言い終わったら仕事が終わるわけではない。さらに、持ってきたネタを話すタイミングも見計らう必要がある。ただ、それと同等に、あるいはそれ以上に、ここで問題にしたいのは、いかに円滑に場を繋ぎ、周りが話しやすい状況を作るか。全員が持ってきたことを披露するだけの場は座談会とは言えまい。そういった意味で、面白く会話ができることと、その場を面白い空間にできることは、いわば同値なのだ。以下では、「自分を面白く見せる」だけでなく、「周りも面白く見せる」という観点も入れて、何をすれば、面白い会話にできるのかを、特にテクニカルな側面から考察したい。なお、ここでは主に総合座談会でいかに立ち回るかについて主に想定するが、これからの考察は「大人数で喋る場」に対してなら容易に応用可能にも思う。上手く活用してくだされば。
キャラを付ける
「その場における己のポジションを明確にする」と言い換えてもよいだろう。最も強力な手法。バラエティタレントが場を円滑に進めるのは、彼らがキャラを有しているからだ。キャラを有してさえいれば、キャラ通りのことを言えばウケるし、キャラと逆の行動をしてもそれはそれでウケる。さらに言えば、周りも「○○すぎんだろ…」あるいは「お前本当に○○か?」など、ツッコミを入れやすい。つまり、「キャラを付ける」ことは、自分の話す言葉をその言葉が本来持つ力以上に面白く見せつつ、周囲も面白い空間に巻き込めるという点で、「面白い会話をする」ための非常に有効な手段だと言えよう。「キャラ付け」の制限の緩さもこの手法の魅力の一つ。理想は「普段の言動がそのままキャラになる」ことだが、その場だけのキャラを演じてもよいだろう。それはそれでその場のポジションが明確になり、周囲も処理しやすい。逆にNGキャラを考えたい。いくつか挙げられようが、最大のNGポイントは、「周りがそこから拡げづらい」ことだろう。例えば、同じ言葉を連呼する系などは、周囲も毎回同じような処理をせざるを得なくなり、面白味に欠ける。もちろん、別のキャラを用意して、その上で乗っけるなら別に構わないし、似たニュアンスの別の言葉で言い換えれば、その微妙な意味の違いとかで「面白い」空気を醸成できそうだが。あとは、何らかのモノをゴリ押す行為自体をキャラにする、みたいなのもキツいかな。否定以外の選択肢が取れなくなる上に、否定して場の空気がよくなることってまずないからね。下を否定したらパワハラみたいな構図になるし、逆に上を否定するのって、変な勇気いるしね。僕も初めて1353をいじった時は、実は恐る恐るだったんですよ。
話の起点になる
これに関しては、わざわざ書かなくても皆、無意識のうちに行っていることではあろう。場が膠着したタイミングで、別の切り口の話を始める。せっかく話題を持ってきているわけで、できればそれを最適なタイミングで差し込みたい、というのは皆思ってはいるはずで、「場が膠着」=「最適」というのも、ここで陽に示すことでもあるまい。ここで問題にしたいのは、起点とする話について。後に続く人がいる以上、あまり長い、周囲が介入しづらい話は望ましくないだろう。制限時間が近づいているなら、長話を挿入しても特に問題はないとは思うが。
ボールを持ちすぎない
「話の起点になる」「キャラを付ける」と少し被るが、会話は共同作業。最大多数が面白い会話に参加できることが重要だろう。特に目上の場合、自分でなくても言えそうなことは若手に喋らせて、自分でなければ言えない(例えば、キャラの乗った)ことを言ったほうが良いのだろうなと思う。若手であればあるほど必然的にキャラは薄くなってしまうからね。
関わった人間が損しないように処理する
誰かが変なことや場違いなことを言った際のリカバリーも、こういった場では重要だろう。一つ考えられる処理方法は、「当人を、それを言いそうな狂人キャラに持っていく」ことだろうか。ただ、「狂人」をどう設定するかが難しい。ゴールは「損させない」、つまり「誰も嫌な思いをしないこと」であるが、誰がどう言われれば嫌な思いをするかは結局当人次第なので……。
内輪ネタを入れる
個人的には敬遠していたが、今はどちらかといえば、「面白そうな雰囲気になれば/伝わればいいや」というスタンス。そもそもバラエティも広義ではタレントの内輪ノリであるし、その「内輪」がどこまでの範囲か、の違いでしかない。そもそも我々の周囲は、多かれ少なかれ、「自分たちだけが知っている」、つまり「内輪の中にいる」ことに喜びを覚える人間ばかりである。特に我々は、漫画という「内輪」の中におり、この「内輪」は当該漫画を読むだけで誰でも入門できるので、むしろ積極的に内輪ネタを挿入したほうがいいだろう。やる夫スレ読んだら、元ネタの漫画を遡りたくなるやん?真空ジェシカの漫才も、内輪の最大人数を追求してるから、あんなに面白いわけやん?内輪ネタは、使い道次第では、外側の人間を内輪に引きずり込むことができるのだ。
オチをつける
これまでにでてきた言葉からまとめる。意外と難易度が低いわりに、これをやると話が上手い扱いされがちで、コスパがいい。
こんなところでしょうか。最初は『彼女のエレジー』の派生として、分析の体をとったおふざけ記事にするつもりだったのですが、だんだん「いかに面白い会話をするか分析する」ことに意義を見出し、こんな真面目な記事になりました。現状は思いついたことを書き連ねただけに近いですし、書き溜めずに書いた分、詰め切れていない部分も多いので、そう遠くない将来、いくらか改訂を加えると思います。また会話におけるルールの違いに気付き、少人数と大人数の場合で分けて書く必要に迫られました。たぶん少人数編もそのうち出します。気が向いたらまた読みに来てください(←これは、この記事の改訂版と、少人数編の両方についてです)。