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京大漫トロピーのブログです

【12/21】本当に面白い会話をしよう<大人数編>

 シチョウです。今年も様々なコンテンツが誕生しました。その中でも特に、今年は「面白いとは」「つまらないとは」を問うコンテンツをよく目にしましたね。


www.youtube.com

これとか。

これとか。
また、近年は配信産業の隆盛により、新たな「面白い」を発掘しようという試みも数多くなされています。


www.youtube.com

これとか。


www.youtube.com

これとかですね。

ですが、これらのコンテンツを知っていればいるほど、「面白い」人、というわけではありません。このままだと、漫画やお笑いが好きなだけの人です。インプットをいくらしても、アウトプットができなければ何の意味もありません。ですが、我々は漫画家や芸人のように、自分の「面白い」を漫画やネタで、つまり彼らと同様の形式で表現することはできません。では、我々は自分の面白さをどこで表現すればよいのでしょうか?我々がこうしてアドカで記事を執筆するように、文章などで面白さを表現するのも一つの手でしょう。しかし、文章は読んでもらえなければ面白さを理解してもらえません。理解させる前に、一つハードルがあるわけです。より手っ取り早く、己の「面白い」を表現する場、それは会話でしょう。我々が生活するうえで、他者と会話することは避けられません。不可避な以上、もし「面白い会話」ができれば、それだけで他のどの分野で「面白い」より容易に「面白い」と認められるでしょう。では、面白いコンテンツを浴びるように摂取した我々は、いかにして面白く会話ができるのか?
考察します。

そもそも「面白い会話」とは?

そもそも「会話」とは?
[名](スル)複数の人が互いに話すこと。また、その話。「会話を交わす」「親しそうに会話する」「英会話」(デジタル大辞泉より)

 この定義に従って、考察する。会話が成立する必要条件、それは「話し相手が存在し、話すターンが両方に回ってくる」ことである。この条件に基づけば、「自分がすべらない話や小噺を披露する」だけの状態を「面白い会話」とは呼べない。加えて「会話」を考察するにあたって考慮すべき要素といえば、その即興性であろう。例えば漫才やコントの台本の暗記・再現で面白い会話ができる、というわけでもあるまい。では?「面白い会話」のロールモデルとは何だろうか。一つ考えられるのは、「マルコポロリ!」「向上委員会」辺りの、芸人だけで構成される平場バラエティ番組だろう。『水曜日のダウンタウン』のように、企画で面白さが担保される番組とは違い、「マルコポロリ!」「向上委員会」ではそういった企画や括り(「○○SP」的な括りが一応毎回あるが、ほとんど機能していない)は到底番組の軸には成りえず、従って、平場でいかに「会話」が展開されるかが番組の面白さに直結する。これらの番組は純度が高いぶん、「会話」を分解して、「今どういう流れで、何でどう言えばウケるか」を明示的に提示するし、自分が話す際にも大いに参考になる。
 ただ、あれだけの速度や純度で会話が成立するのは出演者がバラエティの手練れだからであり、我々が想定する会話の相手はバラエティの手練れではない以上、これをそのまま活用できる場面はそう多くはあるまい。「平場」を展開せず、議論などの際に少し場を和ませるくらいで十分な場合も多々あるだろう。そういった場面で活用できるのは、「クレイジージャーニー」『マツコの知らない世界』辺りの、タレントではない人物を主軸としたバラエティ番組の、VTRの合間のスタジオトークであろう。松本人志マツコ・デラックスが、ゲストやカメラに向かって気の利いた一言を放ち、一旦オチがついて、次のVTRに進む。初対面の相手やフォーマルな場、本音で会話する合間に笑いを交えたい場面など、使える幅が広いのはむしろこちらの方だろう。ただし、こちらはあくまで相手待ちの手法であり、自分から積極的に会話を展開したい際には頼れまい。

つまり、「会話が面白い」人には、いずれの能力も必要である。以下では、「面白い会話」について、この2種類について独立に考察したい。

本当に面白い会話をしよう<大人数編>

 まず、平場バラエティ的能力が活きる場面を考えよう。考察にあたって彼らがバラエティの「手練れ」たる所以を考えたい。彼らは一体何が上手いのか?端的に言えば、「空気を読む能力」が高い。より具体的には、「適切なタイミングを見計らって、あるいは自分から場を展開して、適切なコメントを放り込む能力」が高い。これが活きる場面はどこか?1on1なら、ボールは交互に持てばいい。逆に言えば、大人数でボールを回す場なら、この能力は大いに威力を発揮する。そして、この能力が我々の活動に活きる最大の場面、それは総合座談会だろう。最低限話す内容は持っていくが、それを言い終わったら仕事が終わるわけではない。さらに、持ってきたネタを話すタイミングも見計らう必要がある。ただ、それと同等に、あるいはそれ以上に、ここで問題にしたいのは、いかに円滑に場を繋ぎ、周りが話しやすい状況を作るか。全員が持ってきたことを披露するだけの場は座談会とは言えまい。そういった意味で、面白く会話ができることと、その場を面白い空間にできることは、いわば同値なのだ。以下では、「自分を面白く見せる」だけでなく、「周りも面白く見せる」という観点も入れて、何をすれば、面白い会話にできるのかを、特にテクニカルな側面から考察したい。なお、ここでは主に総合座談会でいかに立ち回るかについて主に想定するが、これからの考察は「大人数で喋る場」に対してなら容易に応用可能にも思う。上手く活用してくだされば。

キャラを付ける

「その場における己のポジションを明確にする」と言い換えてもよいだろう。最も強力な手法。バラエティタレントが場を円滑に進めるのは、彼らがキャラを有しているからだ。キャラを有してさえいれば、キャラ通りのことを言えばウケるし、キャラと逆の行動をしてもそれはそれでウケる。さらに言えば、周りも「○○すぎんだろ…」あるいは「お前本当に○○か?」など、ツッコミを入れやすい。つまり、「キャラを付ける」ことは、自分の話す言葉をその言葉が本来持つ力以上に面白く見せつつ、周囲も面白い空間に巻き込めるという点で、「面白い会話をする」ための非常に有効な手段だと言えよう。「キャラ付け」の制限の緩さもこの手法の魅力の一つ。理想は「普段の言動がそのままキャラになる」ことだが、その場だけのキャラを演じてもよいだろう。それはそれでその場のポジションが明確になり、周囲も処理しやすい。逆にNGキャラを考えたい。いくつか挙げられようが、最大のNGポイントは、「周りがそこから拡げづらい」ことだろう。例えば、同じ言葉を連呼する系などは、周囲も毎回同じような処理をせざるを得なくなり、面白味に欠ける。もちろん、別のキャラを用意して、その上で乗っけるなら別に構わないし、似たニュアンスの別の言葉で言い換えれば、その微妙な意味の違いとかで「面白い」空気を醸成できそうだが。あとは、何らかのモノをゴリ押す行為自体をキャラにする、みたいなのもキツいかな。否定以外の選択肢が取れなくなる上に、否定して場の空気がよくなることってまずないからね。下を否定したらパワハラみたいな構図になるし、逆に上を否定するのって、変な勇気いるしね。僕も初めて1353をいじった時は、実は恐る恐るだったんですよ。

話の起点になる

これに関しては、わざわざ書かなくても皆、無意識のうちに行っていることではあろう。場が膠着したタイミングで、別の切り口の話を始める。せっかく話題を持ってきているわけで、できればそれを最適なタイミングで差し込みたい、というのは皆思ってはいるはずで、「場が膠着」=「最適」というのも、ここで陽に示すことでもあるまい。ここで問題にしたいのは、起点とする話について。後に続く人がいる以上、あまり長い、周囲が介入しづらい話は望ましくないだろう。制限時間が近づいているなら、長話を挿入しても特に問題はないとは思うが。

ボールを持ちすぎない

「話の起点になる」「キャラを付ける」と少し被るが、会話は共同作業。最大多数が面白い会話に参加できることが重要だろう。特に目上の場合、自分でなくても言えそうなことは若手に喋らせて、自分でなければ言えない(例えば、キャラの乗った)ことを言ったほうが良いのだろうなと思う。若手であればあるほど必然的にキャラは薄くなってしまうからね。

関わった人間が損しないように処理する

誰かが変なことや場違いなことを言った際のリカバリーも、こういった場では重要だろう。一つ考えられる処理方法は、「当人を、それを言いそうな狂人キャラに持っていく」ことだろうか。ただ、「狂人」をどう設定するかが難しい。ゴールは「損させない」、つまり「誰も嫌な思いをしないこと」であるが、誰がどう言われれば嫌な思いをするかは結局当人次第なので……。

内輪ネタを入れる

個人的には敬遠していたが、今はどちらかといえば、「面白そうな雰囲気になれば/伝わればいいや」というスタンス。そもそもバラエティも広義ではタレントの内輪ノリであるし、その「内輪」がどこまでの範囲か、の違いでしかない。そもそも我々の周囲は、多かれ少なかれ、「自分たちだけが知っている」、つまり「内輪の中にいる」ことに喜びを覚える人間ばかりである。特に我々は、漫画という「内輪」の中におり、この「内輪」は当該漫画を読むだけで誰でも入門できるので、むしろ積極的に内輪ネタを挿入したほうがいいだろう。やる夫スレ読んだら、元ネタの漫画を遡りたくなるやん?真空ジェシカの漫才も、内輪の最大人数を追求してるから、あんなに面白いわけやん?内輪ネタは、使い道次第では、外側の人間を内輪に引きずり込むことができるのだ。

オチをつける

これまでにでてきた言葉からまとめる。意外と難易度が低いわりに、これをやると話が上手い扱いされがちで、コスパがいい。


こんなところでしょうか。最初は『彼女のエレジー』の派生として、分析の体をとったおふざけ記事にするつもりだったのですが、だんだん「いかに面白い会話をするか分析する」ことに意義を見出し、こんな真面目な記事になりました。現状は思いついたことを書き連ねただけに近いですし、書き溜めずに書いた分、詰め切れていない部分も多いので、そう遠くない将来、いくらか改訂を加えると思います。また会話におけるルールの違いに気付き、少人数と大人数の場合で分けて書く必要に迫られました。たぶん少人数編もそのうち出します。気が向いたらまた読みに来てください(←これは、この記事の改訂版と、少人数編の両方についてです)。

【12/20】滅びに向かって進んでいるのに…?――佐久間史幸『赤い鳥』評

佐久間史幸『赤い鳥』(月刊アフタヌーン2000年4月号掲載)

誕生。

それは喜ばしいことなんでしょうか。

年々歳を重ねることが辛く感じることが増えてきました。

誕生日を祝われても、これからいいことなんてありはしないのに、と思ってしまいます。

僕が最も信奉するクリエイター麻枝准のテキストを引用すればこう言うこともできるでしょう。

滅びに向かって進んでいるのに…?

『ONE~輝く季節へ~』より

主人公・浩平の「そしてぼくは、幸せだったんだ。」という語りに対する少女の問いかけがこのセリフです。

(滅びに向かって進んでいるのに…?)

いや、だからこそなんだよ。

それを、知っていたからぼくはこんなにも悲しいんだよ。

滅びに向かうからこそ、すべてはかけがえのない瞬間だってことを。

と続いていきます。

大学生活、僕は本当に楽しかった。でも僕は今年、大学を出ます。人よりちょっと長くいたけど、もういよいよ来年から労働者になるみたいです。

僕は多分、仕事はできません。できるようになるには相当な苦労が必要でしょう。そのことを考えるとうんざりします。自分の命すら投げたくなるときもあります。でも、僕はこの世界に留まるのでしょう。自分にはわかります。

さて、この世に生まれてしまったからにはどう生きればいいのでしょうか。未来に希望のない世界でどうこれから生きていくのがよいのでしょうか。

どう生きればいいかに答えはありません。でも、人生に意味を見いだせない、あるいは人生を投げ出そうとしている人々を真剣に描こうとした一人の漫画家がいます。

佐久間史幸です。

1999年冬の四季大賞を『赤い鳥』で受賞し、その後もアフタヌーン2000年12月号には『眠り姫』*1という短編を掲載しています。その後は目立った活動はみられず、今に至ります。

僕はどうにもこの漫画家が気に入っているのですが、今回は『赤い鳥』をレビューしてみようと思います。

主人公の福井は、定職に就かずフラフラとしてヤクザの世界に流れ着いた若者です。福井はある日、組長から殺し屋の飯田に跡継ぎとして弟子入りするよう言い渡されます。

常に不気味な笑みをたたえる飯田は殺し屋の職業を「幸せの青い鳥」の童話にあやかって「赤い鳥」にたとえます。

どうして自分だったのかと問う福井に対して、「一番臆病な人」だからと飯田は言う。飯田の考える殺し屋に必要な資質は「臆病さ」なのです。

ではなぜ、殺し屋には臆病さが大事なんでしょうか? いや、こう問い直した方がいいかもしれません。なぜ殺し屋には「臆病さ」が大事だと飯田は語るのでしょうか?

そして臆病な殺し屋はなぜ「赤い鳥」なんでしょうか?

飯田は福井に「無職の人間は怪しまれるから」と9時5時の仕事に就くよう指示します。

そして働きながら殺しの現場に連れていき仕事を覚えさせていきます。

そんな中、やがて福井は、飯田の過去を知ることになります。かつて飯田は平凡な人生を送っていました。自分にとって何よりも大事な妻子を殺したひき逃げ犯を罰するために殺しの世界に入ったのです。

ある日、飯田は福井に二人の子供を殺すよう指示を出します。できないという福井。

飯田は福井に諭します。

自分の命とこの子たちの命を天秤にかけるだけでいいのだと。

臆病な人間は自分の命を取るはずだと。

この作品では自分の命と相手の命どちらを取る"べき"かなどという倫理の話は出てきません。

「臆病者」が二者択一の状況で自分の命を取る。ただそのことを記述するだけです。

そして普通の社会から弾き出された「臆病者」がどのような顛末を辿るかを淡々と説明していきます。


そして「臆病者」は命をかければこの世の中で生きていける。福井の首を絞めながらそう飯田は慈しむような優しい表情で語りかけます。

これまで怯えたり慌てたりの表情しか見せてこなかった福井は、ここで初めてそれ以外の表情を見せます。「殺し屋」としての心得を体得したのです。

実はこの仕事が「最終テスト」でした。その後、福井に仕事を引き継ぎ、旅に出た飯田は殺しとは関係のない飛行機事故でこの世を去ります。

そこで福井は気づきます。

「赤い鳥」とは常に死を怖れ緊張の中生きる生活の中で仕事をやり遂げていく「殺し屋」が、まったく思いもよらなかったところで死んでいくという意味だったのです。

中空へ引いた視点から下に映る悲しいようで悟ったような表情をした主人公。怯えたり慌てたりしてばかりだった主人公がこれまであまり見せなかった表情ですね。飯田の死を悲しむと同時に「赤い鳥」に象徴される自分の未来を想います。闇が将来を象徴しています。

さて、飯田が語るように、仕事が勤まらずにヤクザの世界に流れ着いた福井は気づかぬうちに普通の仕事ができるようになっていました。飯田は「臆病者」をこう分析しています。

「臆病者」は失敗が怖いから何事にも本気になれず、低いところ低いところへ流れていってそこで不本意な一生を終えることになる。しかし、殺し屋という職業はそうした人間だからこそ勤まるのだ。殺し屋になると挑戦しない選択肢を奪われる。そして失敗は自分の死を意味する。成功させる以外に命を永らえる選択肢はない。そのときになって初めて本気で成功を目指せるのだ。命がかかって初めて本気になれる。本気になってようやく自分の人生が送れる、と。

しかし、僕は、飯田の語る「臆病者」が殺し屋に向いているという理屈にはいささか疑問です。僕自身、まさに「臆病者」ですが、殺し屋なんて始めたらプレッシャーと罪悪感とに耐えられず死を選んでしまうような気がします。飯田の語りは結局殺し屋をやり遂げた者の視点でしかないと感じてしまいました。

ですが、「臆病者」をめぐる飯田の思想は、実はこの作品の伝えたかったことではありません。それよりも、そう語る飯田を福井がどうとらえたかが重要なのだと僕は思います。

殺し屋としての心得を体得するまでの福井は、慌てるか、怯えるか、それとも呆けているか、ほとんどその三通りの表情しか見せていません。ただただ「臆病者」としてのみ描かれているのです。ところが、自分が「臆病者」と語る飯田の表情は、いついかなるときも、たとえ殺しの現場でも、涼しい表情ばかりです。

自分が「臆病者」であるという飯田と、福井には、どんな差があるのでしょうか。その差は飯田が殺し屋の仕事を長年継続する中で得た変化を表しているのではないでしょうか。

その変化を飯田が語る場面があります。

かつて今よりも「臆病者」”だった”飯田は、組の裏切りを怖れ、記録を貸金庫に入れるなど対策していました。でもそのうちにそれもやめたと語ります。「臆病者」の福井は「それじゃ危ないじゃないスか!! 」と声を荒らげます。

ここまでやはり慌てたり不安がってばかりだった福井が人を思いやっているような表情になります。飯田の顔にトーンで影をつけ、吹き出しで目を隠すことで、よりその表情が強調されています。

ああそうか――
この人もそうやって心のバランスを取ってきたんだ

飯田の人生は全く思うようにはいきませんでした。妻子を殺されるという破滅的な不幸がその後の人生を決定づけてしまいました。破滅的な不幸を前に、殺し屋という苦しい仕事を前に、飯田はどう自分の人生を意味付けたのか、それを福井が認めた瞬間がこのセリフです。

福井の人生もうまくはいきませんでした。まともに働くことから逃げて下へ下へと落ちてたどり着いた殺しの世界で、命を長らえるという目的を得てようやくまともに働くことができるようなったのです。最初からまともに働けばよかったじゃないかなどと言う人もあるかもしれません。でも、福井が人と出会って悩んでたどり着いたのがここで、彼だからこそ歩めた人生がそこにあるなら、彼だからこそたどり着けたものがそこにあるなら、それはかけがえのないものだと僕は思うのです。

最初の問いに戻りましょう。

これからいいことなんてありはしないのに、生きていく意味はあるんでしょうか。

最初に引用した『ONE~輝く季節へ~』の主人公は、子供のころの妹の死という破滅的な不幸を受け入れられず、永遠に子供のころでいられる「永遠の世界」を作り出してしまいました。僕にとってこの大学時代は将来、「永遠の世界」のようなものになっていくでしょう。

浩平は「永遠の世界」に徐々に浸食され、現実での「幸せな四か月」を過ごしてもなお、最後は現実世界を離れて「永遠の世界」にいってしまいます。

たしかに、生きることは滅びに向かっているのかもしれません。

家族の有無を聞かれて「いる」と答えた福井に対し、飯田は、「それは不幸かもしれませんね」と語ります。未来に破滅的な不幸なことが待っているなら、もう生きていたくないかもしれない。失ったものを想い焦がれるだけの人生なら、今すぐ終わらせたいかもしれない。ときどき僕もそう思うのです。

でも、それでも生きていてもいいかもしれない。仮にこの先不幸でもどこかにたどり着けるのなら、もう少し生きてみてもいいのかもしれない。『赤い鳥』は、そう思わせてくれました。

飯田は殺しの仕事とは何の関係もない飛行機事故で死にました。人はつねに、思いもかけないところで死ぬ可能性を秘めています。僕だって明日死ぬかもしれません。ただ、これは「明日死ぬと思って懸命に生きろ」といった教訓話でもありません。「今死ぬのだとしてもその人生には意味がある」という話をしたいわけでもないのだと思います。「人死ぬのに罪のあるなしは関係ありませんよ」と飯田自身語りましたが、罪深い人生だったとしても飯田の生がそこにあり、そこから何かを受け取った人がいた。それだけで十分なのです。

人の人生に対する価値判断を慎重に避ける佐久間史幸の態度が\僕は好きです。どんな人間でも平等に評価しようとする姿勢に惹かれているのでしょう。僕もまた『赤い鳥』で描かれているような「臆病者」です。なるべく楽をしたい。苦しいことはしたくない。そんなことばかり考えて生きています。でも「臆病者」だからこそ、これでいいのかといつも不安で、そんな自分を責める内なる声にいつも苦しめられています。

でも、佐久間史幸の人間の描き方は、そんな自分でも存在していいんだと思わせてくれる。それだけじゃなくて、頑張ろうという気にさせてくれる。怠け者の僕に「頑張ろう」という気を起こさせてくれる作品は本当に少ないのです。

さて、僕にとってこれが最後の漫トロのアドベントカレンダーです。名残惜しいけれどこの辺で、おさらばします。来年も、再来年も、きっとどこかで生きていることでしょう。いえ、もしかしたら思いもかけぬことでこの世を去っているかもしれませんね。「赤い鳥」はどこに潜んでいるか、わかりませんから。

また、どこかでお会いできるのを楽しみにしています。

(ちろきしん)

*1:『眠り姫』については僕のブログでレビューを書いています。 nakanoazusa.hatenablog.com

【12/19】緊急代原24時(間以内に上げてるので許してもらえないだろうか)

今日は19日,ばいたるとです。12/19分の漫トロアドベントカレンダー記事です。 なぜこんな時間に投稿を? なにも連絡せずにアドカを踏み倒すモンスターが”誕生”してしまったので……。 題目は 1億年惑星がWEEKLY快楽天でたまに描いてるやつ より。

てなわけで代原なので昨年末に原稿だけ書いたカスみたいな記事があるので供養させていただこうかと。ちなみに今年予定していた記事の下書きが途中まであったのでそいつもおまけに供養させていただきます。駄文×駄文なので読まなくていいです。

はてなブログで記事内のリンクを新規タブで開くように設定する

2022アドベントカレンダーのまとめ記事の作成を仰せつかったので,リンクの貼り付けをシコシコやっていました。
ふと「記事内のリンクを踏んだら新しいタブが開くように設定してやった方UXがアガるよな」と思った。それらしき方法はネットで見つからずに思いのほか苦労したが,なんか上手くいったんでまとめただけです。

Markdown記法でのリンクの埋め込みについて

はてなブログで利用できる記法には,「はてな記法」と「Markdown記法」があります。俺はMarkdownで書いているのだが,Markdownでのリンクの埋め込みは標準的にはこんなのらしい。

[hogehoge](https://example.com)


hogehoge

Markdown記法で「リンクを新規タブで開く」ように設定するには,htmlよろしくtarget属性を追加してやればいいらしいのだが……

[hogehoge](https://example.com){:target="_blank}


hogehoge{:target="_blank}

つまりtarget属性がちゃんと付与されていないことが分かる。複数のサイトでこのやり方しか出てこなかったので,俺は諦めた。どうなってるんだ侍エンジニア!

はてブ内でのリンクの埋め込み(貼り付け)について

はてなブログの編集ページでは,過去記事,AmazonYouTubeなどについて,カード型の小奇麗なリンクを貼ることができる(インラインフレームというらしい)。今回はアドベントカレンダーのまとめ記事なので,過去記事の貼り付けを行うと……

[https://mantropy.hatenablog.com/entry/2022/12/23/145213:embed:cite]


mantropy.hatenablog.com

見慣れたブログカードが作成される。この張り付け方は,どの記法でブログを書いても関係ない。どうせhtmlにビルドされるから一緒なんだろうな。
:embetは,埋め込み型のブログカードを作成する,:citeはブログカードの下のリンク"mantropy.hatenablog.com"を表示する宣言(?)のようだ。ここをいじって「リンクを新規タブで開く」設定をいじって加えられないだろうか,と苦戦していると……

ブログカードを踏んだら新規タブが開くじゃないか。

今までの苦労はなんだったのか。というわけで編集ページでリンクをシコシコ貼り付けることで事なきを得ました。

過去記事以外のリンクでも新規タブで開きたい

大抵の場合,漫画のリンクを貼る場合はAmazonのリンクカードを作成することが多い。 とはいえ, 俺が『アカデミックSOS』を紹介した ように,Amazonページがないリンクを貼りたい場合,あるいは 1353のように全国旅行支援のページを貼りたい 場合もあるだろう。 それらのリンクを踏んだら毎回ページが変わるようでは読み手にとって不便だと思うし,俺は不便だ。
何かいい方法はないかと,適当にYouTubeリンクを編集ページで貼ってみると……

<iframe src="https://www.youtube.com/embed/TQTaWUIlKT8?enablejsapi=1" width="560" height="315" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br><a href="https://www.youtube.com/watch?v=TQTaWUIlKT8">www.youtube.com</a>


www.youtube.com

MarkdownとかいいながらTDNHTMLじゃないか,たまげたなあ。

つまり,「Markdown記法」だの「はてな記法」だの騒いでいたが,結局htmlベタ打ちでちゃんと反映されるのだ。
これは考えてみれば何のことはない。いずれの記法で書いた記事にせよ,最終的にはhtmlでビルドしているのだから,最初からhtmlで書いてやればその通りの表示が得られる。コンパイラにはただの文章に見えるが,htmlでページを表示するときにはじめて効果を発動する。

普段から鎖を出しておけば操作系だと思い込んでしまうが,戦うとそれが特殊能力を有する鎖であり,実は相手が具現化系であったと気づく。

というわけで,リンクを新規タブを開くよう設定したいなら,htmlの文法でリンクを埋め込んで,target属性を付与してやればいいのだ。役に立たなかった侍エンジニアの記事と,2022アドベントカレンダーまとめのリンクを貼って締めとしよう。新規タブで読んでね!

<a href="https://www.sejuku.net/blog/77385" target="_blank">
役に立たなかった侍エンジニアの記事
</a></br>
<a href="https://mantropy.hatenablog.com/entry/2022/12/27/204345" target="_blank">
2022アドベントカレンダーまとめ
</a>


役に立たなかった侍エンジニアの記事
2022アドベントカレンダーまとめ

おまけ 12/24用の23時ごろに投稿しようとしていた記事の下書きだったもの

【12/24】人はセックスしなければならない。

どうもこんばんは,7年目のばいたるとです。

今年の漫トロAdvent Calendarのテーマは"誕生"。こんなオラも誕生うまれて24年……,24歳学生ってマジ? しかし,今日ほど,否,今ほど誕生からかけ離れた時間もそうないと思う。

そう,性の6時間である。

こんな記事を投稿直後に読んでいるお前は負けや!

性の6時間(12/24 21:00 ~ 12/25 03:00)と言えば,世の老若男女が雰囲気に流されて快楽目的でくんずほぐれつする時間である,知らんけど。快楽目的でヤるんだから,ゴムハメなのは当然だ。中には生ハメする好事家もいるかもしれないが,クリスマスに思いつきで中出しするような衝動的で感情的な行為に家族計画もへったくれもあったもんじゃない。キリストの誕生に便乗して子作りするのではなく,本来は生殖行為であったはずのセックスを忘れて快楽に溺れるのは愚かだ。性の6時間にセックスできない我々は敗者かもしれないが,セックスしている奴らもまた何かに負けているのだ。

……そんな風に考えていた時期が俺にもありました。
中学生の時は友達と3人で"リア充反対同盟"なるものを組んでいたし,高校ではオタク友達のグループ名は"虹を眺める会"とかいう名前だった。彼女やセックスはリアルではなかった。高校で野球部の友達と帰ってるときに「セックスってゆっくり動かないと気持ちよくないんだぜ。」って言ってたのはただの笑い話だったはずだ。

だがどうやら違うらしい。どうもセックスってのは日常であるらしいということに薄々気づいてきた。人は愛する相手とセックスするのだ,FuckではなくMake loveをするのだ。
こんなことにようやく気付いた俺はもう24歳,"性の6時間"で笑っていられる年齢ではないのだ。俺もセックスしなければならない。というか愛を育まないといけない。高橋洋子も歌っているではないか, >人は愛をつむぎながら歴史を作る と。なお彼女が出来れば俺も何か変わるかもしれない(理性ではそんなことないとは思いつつとは言いつつ何か期待しているのかもしれない)。たまに躁が入ったときに彼女が欲しいと考えながら,気が狂いそうになる。

なぜこんな風に考えを改めることになったのか,それはセックスが日常と化している漫画を読んで感銘を受けたからだ。その漫画とは……

1巻のリンクがアダルト扱いで弾かれちゃった……青年誌なのに。

~完~


じゃ俺いまからシコるんで……。

【12/18】何のために誕生(う)まれて、何のために呼吸(い)きる

 みかんばこです。早いものでもう6年目。ワイ史上最後の漫トロアドベントカレンダー。普段文字を書かない生活をしているので、アドカや漫トロ会誌は自分の中にあるものを形として吐き出す数少ない機会だったわけです。能動的にこういうことできる性格じゃないので、こういった機会が失われてしまうことは寂しいですね。

 最後なので、俺が漫トロで得た最も大切な財産である、『カードキャプターさくら』と『おジャ魔女どれみ』をはじめとする90~00年代女児向けコンテンツについて、備忘録的に書き散らそうと思う。

カードキャプターさくら

 去年の春頃、清盛(1コ上の先パイ)とシェアハウスで駄弁ってるときに「なんか適当にアニメでも流すか~」って流したのが始まり。例会でレニや146Bが「さくらって実は変身ヒロインやなくて、友達が自作の服をさくらに着せてるだけやねんな~」みたいな会話をしていて、なんかキモそうなアニメやね~と思い興味はあったんだよね。ふたを開けてみると実際えっちアニメだった。日常描写で丁寧に動かされる生活の細やかな所作、格好いいアクションシーンに挟まれる少女らしい仕草は小学生女児の実在のエロスを掻き立てる。大道寺知世が仕立てるコスチュームの数々はあからさまに彼女の、ひいては彼女を通してさくらにまなざされる製作陣のキモチワルイ性欲フェチが伝わってきた。丹下桜の甘ったるいロリボは脳に効いた。丹下桜の声、本当にリラクゼーション効果が高いんだよなー。最近はずっと丹下桜の曲を聴いてる。
*1

 そんな感じで、「肩肘張らず観れる良質な萌えアニメ」としてさくらは俺たちの生活にいろどりを齎してくれた。一日3~4話くらいのペースでちまちま観るんだけど、なんか、16話くらいまで見たとき、「あれ?このアニメ、実はめっちゃすごい……?」

 正直少女漫画って完全にnot for meだと思ってたし、善人しかいない優しい世界観も女児にショックを与えないための虚構だと舐め腐っていた。けど、『カードキャプターさくら』の、特に木之本桜の発揮する優しさというのは、子供だましの域を完全に超えていた。

 これはCLAMPのうまさでもあるんだけど、さくらの優しさって自然なんだよね。作者に言わされてる感のない、彼女自身の人格から漏れ出た優しさ。これは、規範ではなく共感ベースの優しさだからなんだ。人の哀しみや寂しさを敏感に感じ取り、自分にできる方法で寄り添おうとする。ミソなのは、彼女は人の感情そのものに共感はできるが、感情を「理解」しようとはしない。その人の感情の発露プロセスを理解しないままに、自分なりのやり方で相手が幸福な気持ちになってもらえるよう努力する。この塩梅は正しい。人の感情を完全に理解することなんてできなくて、相手の感情を理解した"気になって"寄り添おうとするとメサコンに近づくし、理解できないのだから触れぬが仏という態度はあまりにも冷めている。

 ここまで「人間が本来持つべき優しさ」みたいなものの解像度が高いキャラなかなかいないんですよ。いても、「優しさ」がある種キャラクター性として記号になりがち。さくらは違う。割と中盤まで「フツーの子ども」って印象なんだよね。明るくて無邪気、友達想いで優しい、けれど利他的な精神かといわれるとそうでもなくて、自分を蔑ろにされたらきちんと怒るし、所々で芯の強さも見せる。とはいえ勉強が苦手だったりピーマンが嫌いだったり年相応な部分もちゃんとあって、別にその辺の公園で遊んでても何の違和感もないコモンっぽさが、むしろ彼女に神秘性を与えているんだな。なんてことない顔してるけど、あーた実はUR(ウルトラ・レア)級の人間じゃない?

 回が進むにつれさくらは「フツーの子ども」から「なんだこの聖人!?」と評価が改められていく。それに伴い、さくらたちが住む友枝町も「おハイソな高級住宅街」から「なんだこの楽園!?」と認識が改まる。クロウカード編終盤くらいになると、さくらが優しさを発揮する対象(すなわち、彼女が「愛」する対象)は何も身近な人だけでなく、世界全体であることに気付くんだよね。木之本桜の愛情は、身内にも、友人にも、その辺で出会ったオッサンにも、自らを敵視してくるライバルにだって、等しく降り注がれる。その中には当然、さくら自身も入っている。帰納的に木之本桜の愛情は実存する世界のすべてに適応されることになり、俺たちはただ存在しているだけで木之本桜の愛情を受け取ることができるってワケ。だから俺にとってクロウカード編のさくらは「神」なんだな。

 一方、このさくらの博愛精神が何に支えられているかというと、それは間違いなく「友枝町」という管理された箱庭にある。父親はある程度放任しつつ継続的にめいっぱいの愛情を注いでいて、兄や友人等周囲は当たり前にさくらを愛してくれる人に溢れている。何より友枝町はどう見ても所得の水準が高く、気品と余裕のあるお嬢様・お坊ちゃましかおらん。するとどうなるかというと、「差別」や「悪意」といったものをうまく隠せるわけ。だからさくらには「愛する」「愛される」というだけのシンプルな世界を見せることが出来て、結果彼女の生来の気質である博愛精神を存分に育むことができた。清盛はさくらを理想の「娘」としていたが、恐らくこれは「友枝町」という理想的な子どもの育成基盤への憧憬という面もあるのだろう。

 さて。本題に入る。
 
 「クロウカード編」終盤から「さくらカード編」、及び「クリアカード編」の物語というのは、すべての存在の魂の救済者であるさくらが、成長と供にその神格を剥奪され凡人へと堕していく話なのだ。

 というのは大袈裟なんだけども、肝要なのは『カードキャプターさくら』のテーマって、さくらが今まで当たり前に与えて、当たり前に貰ってた「愛」ってものの存在を、カードの試練(「クロウカード編」クライマックスで最後の試練としてさくらは「誰も木之本桜を愛していない世界」に飛ばされる)や小狼との出会いと雪兎への失恋、小学生4年生から6年生という時間の中で得る様々な経験を通して、「これってすごく尊くて、かけがえのないものだったんだ……」とさくら自身が自覚的になる、という話なんですよね、ということなんですよね。これに自覚的になった途端、今まで世界に開かれていたさくらの内面世界は、閉じていってしまうんだよな。いや、俺が一方的にそう感じるだけなんだけども。

 なまじ雪兎への恋心が「特別な愛情」というよりさくらの恋に恋するおしゃまさにフォーカスされていたのもあって、安心して信仰できていたんだけど、小狼はねぇ……。ゲボ吐きそうになりながら見てたねぇ。「さくらはオメーだけのモンじゃねーヨ!」でも小狼小狼でかわいいんだよなあ。

 上記テーマのキーワードは、さくらを支える魔法の言葉「絶対、大丈夫だよ」。大川七瀬はこの言葉を「さくらを読む子どもたちに、こういった根拠のない自信を持ってほしい」という意図で用いたと発言していた。ここでいう「根拠のない自信」とは、「周囲から与えられる愛を無批判に受け入れること」。自らを取り巻く外部への絶対的な信頼が、精神を安定させるんだと言ってるんですね。この「根拠のない自信」が、自らを鼓舞するものとして機能することを知った瞬間というのが、さくらが「愛」の存在を知ったときと言える。実際、「クロウカード編」以降さくらは要所でこの言葉を使い自らを鼓舞しているし、「クリアカード編」に至ってはこの言葉(の類似品)をエールとして秋穂に送っている。

 なんか話が逸れたな。カードキャプターさくら』が描いてるのは成長に伴って、「ああ、ワイって愛されてるんやなあ」ってことを自覚する物語なんだよね、ってのが俺のある意味さくらに対する結論。で、俺はこういうテーマがめっちゃ好き。で、これは少女漫画で死ぬほど擦られてるテーマでもある。それは当然な話で、愛こそが子を育むという言説が(少なくとも90年代では)支配的だったから。俺自身そうあって欲しいと思うし、というか、

あー。

 俺はマジで大学3年生くらいまで誰からも愛されてなくて寂しいなあとか思ってたんだけど、というかみんな俺んことなんてどうでもいいんだろうなーとか思ってたんだけど、その頃留年を巡って親と顔突き合わせて話し合う機会があって、意外と親って俺自身の幸せ、みたいなの考えてくれてんだなってわかって、そこで俺の

 なんていうんだろう 他人に求める「『俺のこと気にかけてほしい』度」みたいなのがグッと下がって 今まで微小量だからって無視してた対人コミュニケーションで生まれる俺への興味のベクトル みたいなもんが 価値を帯び始めてきて あいや 俺って自分が思ってるほどどうでもいい奴じゃないな ってなって なんか自信持てるようになったっつーか

 そう言う経緯があるので、俺にとって「愛に気付く」というテーマはとても大事で、だからさくらやどれみに、こんなにもハマれたんだと思うんですよね。

おジャ魔女どれみ

 そんなこんなで『カードキャプターさくら』はすごいアニメだったので一時期シェアハウスのトレンドと化した。傷心のちろきしんに無理やりさくらを見せたら思いのほかハマり「俺はさくらや!……いや、さくらにならないとアカン!」とか言い出したのだった。ホリィ・センはなんとCCさくらリアルタイム世代で、「ゼロ年代として……」とか語り始めた。

 「CCさくら」がこんなにすごいのだからCLAMPはさぞかし素晴らしい作家なのだろうと思いありったけ金出し合って著作を揃えた。結果クロス「CLAMP班」が爆誕した。実際CLAMPはすごかった。『XXXHOLiC』>『カードキャプターさくら』>『東京BABYLON』『ちょびっツ』『こばと』>『20面相におねがい!!』『聖伝』『Wish』>「ツバサ」『X』>「探偵団」「春香伝」『ANGELIC LAYER』「デュカリオン」「レイアース

 で、そんな感じで俺たちがCLAMPに熱狂してると、ホリィ・センが「さくらが好きならおジャ魔女も見るべき」と言い始めたのだ。俺は「え~でもおジャ魔女じゃブヒれないしなあ」なんてことを思った。でも世代ど真ん中の年季入ったオタクの言は信頼がおけるものがある。曰く、2期(『おジャ魔女どれみ#』)が神懸ってるらしい。まあ2期までは見るか~。

 1期6話あたりですげーアニメかもしれんと思い始めた。『カードキャプターさくら』に比べ、各話が寓話としてわかりやすく纏まっており、得られる教訓も実践的で明快である。子どもが抱きがちな等身大の悩みを真っ向から丁寧に描こうとしてくるのが伝わってくる。クラスメイト回は当たり外れこそあれキャラクター一人一人にきちんと向き合っており(モンゴル?知らない子ですね……)、単体のドラマとして非常に出来が良い。4期17話は電車の中で見ながらガチ泣きした。

 でもやっぱり、本筋のMAHO堂回こそ『おジャ魔女どれみ』の真骨頂だよね。

 「さくら」では友枝町という街全体が、さくらに与えられる愛を担保するものとして機能していた。ではMAHO堂メンバーは……先も述べたように、観念的な「さくら」と違い『おジャ魔女どれみ』は実践的な作品。「家族」「大親友」「教師(及び公共物)」「魔法界」「ハナちゃん」と、それぞれの機能の違いを明確にしながら、彼女たちがいかに愛を交換しあい、それを自覚するかという話を丁寧に紡ぐ。

 2期はMAHO堂メンバーが赤ん坊を育てる話で、育児体験を通じて自らが母親から受けた愛を知るというあまりにも「これよほど自信ないと作れないプロットだな……」と思わされる内容で、実際本当に素晴らしかった。ホリィ・センはいつだって正しいことしか言わないな!あいこ編は両親の離婚という辛い現実に対峙するあいこと大親友としてあいこを支えるMAHO堂という居場所のバランスが完璧で、特に1期34話で、あいこのお母ちゃんが再婚していた(誤報)ことを知りショックを受けるあいこに構いなしに、あいこの辛さに共感して号泣してしまうどれみとはづきに、あいこの心がちょっぴり救われるという一幕があるのだが、これもまた交流によって他者からの愛の眼差しを自覚するという話で、なるほどだから俺はこの話めっちゃ好きなんやね~となる。

 俺は『おジャ魔女どれみ』ではダントツでどれみ好きなんですよ。なぜなら、どれみはさくらと似通った博愛精神を持っているから。どれみの優しさも共感ベースで、「構ってあげないと気が済まない!」ってタチなおかげでナチュラルなんだよねー。惜しむらくは、俺がどれみのこの博愛精神に気付いたのはもう2期の後半で、その時点でどれみにはハナちゃんという「特別」が出来てしまっていたから、俺の神にはなれなかった。それはそれとして、どれみのような子が愛されているのを見るのはとても気持ちがいいから、どれおん二次小説とかどれあい二次小説とか一時期めちゃくちゃ漁っていた。あの頃は精神が高校生に還っていた。

 ワイの好きなどれおん二次小説
「どれみとおんぷ ♪ 春夏秋冬」
https://syosetu.org/novel/63025/

 ついでにワイの好きなおジャ魔女二次小説
ルピナスの子守唄 上 | ゆめはな* #pixiv https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=9397170

 ああ、あとおジャ魔女は演出も凄かった。山内重保っていう演出家の担当回は毎話異常で、だけど演出の意図はきちんと計算されていて……この辺の話はおジャ魔女座談会で語ったからいいか。

こどものおもちゃ

 「どれみ」を見終わり、「魔女さが」を見、吉田寮おジャ魔女同好会の人たちとATEKKOで遊び、清盛は卒業していった。次の「どれみ」を探して「ナージャ」観たり、「少女コゼット」観たり、あと普通に「プリキュア」観たり。就活もひと段落した夏休み、じゃあ古い少女漫画でも読んでみようかしらと手を出したのが『こどものおもちゃ』。

 いやー。痺れたね。この漫画は、「さくら」や「どれみ」で描いていたテーマを踏襲しつつ、二作品で描けないところを補完している。「さくら」や「どれみ」より1世代くらい前の作品だから、踏襲したというのは実はヘンなのだけれども。読んだ順番が順番なので仕方ない。

 この作品は、「優しさ」が微塵もないんだよな。

 主人公・紗南ちゃんにはマネージャー兼ヒモである玲くんという恋人がいるのだが、実態は玲くんが紗南ちゃんの恋人ごっこに付き合っているだけだという、(少し違うが)さくらと雪兎みたいな関係性がある。
 紗南母が紗南→玲への気持ちは実のところ恋でもなんでもないのよ、という指摘をするシーンと、雪兎がさくらの告白を丁寧に、さくらをなるべく傷つけないように断るシーンを見比べるのが一番わかりやすいだろう。
 「こどちゃ」の該当シーンで母は紗南に「あんたはおもちゃを1人じめしたがってるただの子供よ 恋する女にはほど遠いわね」「そーよ!恥ずかしい!あんたは子供なのよ!お子様ランチだ!」とまあ煽る。煽りまくる。そして紗南を泣かせた挙句、これが紗南の恋愛に対するトラウマを植え付ける結果になる。

 ……とまあ。この母は、藤隆さんやはるかママを見習え!と言いたくなるほどよくやらかす。普段は紗南と一緒にいる時間をきちんと取って、愛情自体は注いでいるからいいものの。
 
 でもこの「優しくない」というのは、あえて厳しくしているわけじゃなくて、ただこういう接し方しかできないんだろうなと感じさせるところがリアル。作中でも母親の行動は肯定的に演出されつつ、否定的なツッコミも入りつつ、後にいい結果を齎すこともあれば悪い結果を齎すこともある、と描写が非常に中立的。少なくとも作者は自覚的にやっているのだろう。

 この作品は「さくら」や「どれみ」よりよほど現実志向だ。ストーリーの展開はたいぶファンタジーだけど。この作品に木之本桜春風どれみみたいな聖人君子はいない。紗南は家・学校・芸能活動の3足の草鞋を履き、3つの居場所を転々とする。ここで、芸能活動はいわずもがな、学校ではコミュニケーションを少し間違えるとギスりだすし、家はたまに母親が問題を起こす……そう、友枝町、MAHO堂といった「安定した居場所」というものが存在しない。

 だから、この作品の登場人物はみんなとても不安定。不安定ながらどうにかバランスを取ろうと頑張って立っているから、どのキャラクターにも張り詰めたような強さがある。だけどそれは一見強く見えているだけで、事実紗南は終盤プッツンして表情筋が全く動かなくなる「人形病」という精神疾患に悩まされることになる。

 安定したければ依存先を増やしましょう、というのが「こどちゃ」の結論な気がする。

「生きていれば明日が来る 苦しみにのたうち回って 喜び見つけたら大笑いして 強くなって生きて行く」
「私達は… 強さと弱さを両方抱えて支え合っている… 私にはたくさんのすてきな「支え」がある」

 かなり違う作品のようでいて、結論として得られたこの辺の解が、「さくら」や「どれみ」とそう相違ないというのが面白いと思う。

 「愛に気付く」というテーマに加え、「そもそも絶対的に信頼できる愛情が、子どもの頃に受け取れなかったら……」という問題提起も立てているあたり本当に容赦がない(とはいえこういう見方でキャラクターを読み解いていくのはナンセンスだと作中で批判されているが)。とはいえ、結局、「さくら」も「どれみ」も「こどちゃ」も、そして俺も、子どもたちに賭ける願いってのは一緒なんだろうな。だから、この3作品は深いところで共鳴しているんだと思うよ。

 生まれたんだから、生きてくれ。

 以上。

 

 

*1:丹下桜「Bright Shine on Time」が使われているkey作品MAD。なぜか途中で木之本桜が出てくる。

【12/17】真心をきみに

ナヤです。テーマが“誕生“らしいので、自分のオタク人格の誕生について書く。

時代は遡り2014年。私は2ちゃんねるVIP板のアニメスレにいた。学校をサボり、布団の中でスマホのブラウザから開いていたのを、今でも思い出せる。
スレでは様々な話題が話されていたが、スレッドをリロードし最新レスを見ると、どうやらハルヒについて話しているということがわかった。
私はハルヒについて何も知らなかった。知らないのだから何も話さなければ良いものを、クソガキだった私は、ハルヒ語りをしていたニートにレスをつけてしまった。

ハルヒ見た事ない。面白いの?」

話の輪に入りたい一心だった。

ハルヒも見た事がないクソガキは死ね」

いくつか私にレスが付いたが、概ねこのような意のレスだった。

衝撃を受けた。

死ねって。死ねって!!!半年ROMるだけじゃ済まねえのかよ!!
本当にショックを受けて傷つきはしたが、それと同時に、大きな学びも得られたと、その時は思えた。
最近のオタクは違うようだが、古いオタク達は基礎知識と文脈を重視する。
まあ、ある程度の有名どころくらいはチェックして、アニメ歴史の大まかな流れくらい掴んでから口を開けということだ。
上記のようなことを、古いオタク達は言う。いったい彼らはどこでそのような思想を持つに至るのだろうか。私には判然としない。
しかし、私の場合は明確だった。
この、死ね、とレスをつけられた時だった。
一発で感染した。
オタクとして覚醒した私は狂ったようにanit⚪︎beでアニメを見ることになる。
片っ端からアニメスレに出没しては古いオタク達に低姿勢でアニメをおすすめしてもらい、それを見る日々。それと同時に毎期のアニメチェックも欠かさない。ニコ動に投稿されたアニメはコメントありきで見ると本当に面白かったので、当時はつまらない日なんて1日もなかったものだ。あゝ、黄金の日々。

時は流れ現在。

気づけば同世代で自分よりアニメを見ている人と出会ったことがない、出会うだろうという希望すら持てないような化け物になっていた。(単に出会いや友達が少ない可能性については考慮しない)

…………。


数日前、親しい先輩に泣きそうになりながら吐露した。私はここまでアニメを見てきたのは、将来できるであろうアニメオタクの友人に、負けない為だった。がっかりされない為だった。感動してもらいたかった。こんなにアニメの話が通じるのはお前だけだよ!って、通じ合いたかった。
それなのに、俺の人生って、なんなんだろうな………。
先輩は、友達作る為にアニメを見てきたのに強化しすぎて友達ができないなんて、と笑っていた。

アニメにリソースを使いすぎたせいで、自分の人生は限界だ。
おかしいだろ、2ちゃんに使っていた時間があれば、アニメを見ていた時間があれば、アニオタとは言わないまでも、素晴らしい友人との出会いの機会は増えていたかもしれないし、恋愛の機会だってもっとあったかもしれない。
偶然性は何倍にも拡張され、自分の人生は何倍にも面白くなっていたのかもしれないのだ。
人生の選択を、きっとどこかで間違えた。
取り返しは、もうつかない。

これからの方針として、しばらく孤独に徹しようと思う。もう張り合う友人もいないのにオタクをするのは疲れたし、かといって恋愛や大学生っぽい遊びにも興味を持てない。
今しばらく自分を見つめ直し、自分を立て直す時間が必要なんだと思う。
先輩はこう言った。
自分が何を好きだと思い生きてきたか、もう一度見つめ直すと良いよ、と。
きっと、その通りなんだと思う。

最後に漫トロについて話すが、漫トロに入った理由は自分のオタク的視野を拡張する為だった。オタクとして生きて行く為には、アニメだけではいけない。ゲーム、漫画、批評、哲学、様々な視座を内面化することが必要だと思ったのだ。
漫トロの皆さんは、自分なんかから見ると、過去数十年に渡って漫画を読み、漫画世界の歴史を大まかに把握して喋る、立派なオタクに見えた。切磋琢磨しているようにも見えるし、好感が持てる。この先どのくらい所属する事になるかわからないが、その姿勢と膨大な知識は学ばせていただきたいと思う。

【12/16】お子様ランチ

へっどです。今年のテーマは『誕生』。誕生とは子どもが生まれることですね。そして子どもといえば……?

そう、お子様ランチですね!

ということで今回はお子様ランチを作っていこうと思います。とはいえ、実はお子様ランチって食べたことないんですよね。なのでお子様が好きそうなメニューを想像で適当に作っていきます。

お子様ランチのメニュー

まずデザートのプリンから作ります。プリンが嫌いな子どもなんて存在しないはずです。最初にプリンを作る理由は冷やすのに時間がかかるからですね。作るメニューが複数あるのでしっかり段取りを組んでいかないと破綻しそうです。

プリンのレシピ
  • 牛乳 80ml
  • 砂糖 20g
  • 卵 1個
  1. 牛乳と砂糖を鍋に入れて沸騰寸前まで温める。
  2. プリンを作る容器に溶いた卵と1で作ったものを投入する。
  3. 30分程度蒸す。
  4. 冷蔵庫で1時間程度冷やす。

プリンといえばカラメルソースは普通欠かせませんが、子どもはカラメルなんてどうせ苦くて食べられないので省略します。より高級感を求めるならバニラエッセンスがあった方がいいんですが、高いので使いません。

作っている最中に自宅に蒸し器がないことに気が付いたので、揚げ物用の網の上にマグカップを乗せて、全体をアルミホイルで包んで簡易蒸し器を作りました。


火の通りが多少甘くても、まあプリンなので大丈夫でしょう。家庭料理ではこういった創意工夫が求められます。

蒸し時間は30分もあるので、その間に付け合わせの料理を作っていきましょう。

ブロッコリーのピュレのレシピ
  1. ニンニクを半分に切り、包丁の腹で潰す。ブロッコリーを蕾と茎を切り分ける。
  2. 鍋にたっぷりの水を入れ沸騰したら1で切った食材を入れ8分茹でる。
  3. 食材をザルにあげて、水気をよく切る。
  4. 上の食材とアンチョビをミキサーで撹拌し、ペースト状にする。
材料

またしても作ってる最中に自宅にミキサーが無いことに気が付きました。仕方がないので包丁でひたすらチタタプしていきます。
>

つーか これが限界

料理は根気なのでひたすら心を無にして食材を細かくしていきます。……10分くらい刻みましたがどう頑張ってもペースト状にはならなさそうです。こればっかりは仕方がないので諦めてこのまま頂くことにしましょう。ペーストかどうかなんてガキは気にしないので大丈夫です。所詮お子様ランチなんで。

そんなこんなで色々頑張っている内にプリンが固まったので冷蔵庫で冷やします。

次はメインのオムライスとエビフライを同時進行で作ります。どちらも出来立てが食べたいのでテキパキとやっていきます。

オムライスのレシピ
  • 卵 2個
  • 炊いた米 200g
  • 鶏もも肉 1/2枚
  • ケチャップ 大さじ1
  • マッシュルーム 3個
  • 玉ねぎ 1/4個
  • バター 20g
  • オリーブオイル 大さじ1
  1. 鶏もも肉を1cm角に刻む。玉ねぎはみじん切り、マッシュルームは2,3mmにスライスする。
  2. フライパンにオリーブオイルとバターを入れ、鶏肉を炒める。火が通ったら玉ねぎ、マッシュルームを入れ、水分が飛んだらケチャップを入れる。
  3. フライパンに米を入れ、塩胡椒で味を調えつつ炒める。全体が馴染んだらボウルにあげる。
  4. フライパンにオリーブオイルを敷き、解いた卵を入れる。全体に火が通ったらチキンライスを卵の上に乗せ、包む。
エビフライ+タルタルソースのレシピ
  • エビ 2尾
  • 小麦粉 適量
  • 卵 1個
  • パン粉 適量
  • マヨネーズ 大さじ3
  • ゆで卵 1個
  • 酢 大さじ1
  • 砂糖、塩 適量
  • 紅生姜 小さじ1
  1. エビの殻を剥き、ケン先(尻尾の根本あたりにある尖った部位)を外す。尻尾の尾先を切り落とし、尾の中の水分をしごき出す。背ワタを取る。
  2. 塩と片栗粉でエビを軽く揉み、汚れを落とした後、水で洗う。
  3. エビの腹と背に1cm間隔で切れ込みをいれ、筋を切る。
  4. 小麦粉、溶き卵、パン粉の順番でエビに衣をつける。
  5. 180度の油で40秒程度揚げる。
  6. 潰した茹で卵と酢、砂糖、塩、紅生姜、マヨネーズを混ぜてタルタルソースを作る。

エビの下処理は面倒ですが、ガキランチには見栄えのいいエビフライが欠かせないのでチマチマとやっていきます。あとタルタルソースは普通、刻んだ玉ねぎとかピクルスを入れるらしいですが、面倒なので冷蔵庫にあった紅生姜で代用しました。

オムライスを作ったことがないのでチキンライスに卵の衣を乗せるのにかなり苦労しました。初めてにしては上手くできた方でしょう。

作った料理をいい感じに皿に配置し、彩りのためにプチトマトを添えて、ガキランチには欠かせない"アレ"をオムライスに刺して……。

完成です!

今日はまだ何も食べてないので腹ペコです。さっそく頂きましょう。

オムライスの味付けはほぼケチャップのみですが、鶏モモ・玉ねぎ・マッシュルームという旨味の強い食材を使っているので十分食べ応えがあります。タルタルソースは紅生姜で成立するのか不安でしたが、全然問題なかったですね。エビフライの揚げ具合も丁度よく、サクサクに仕上がっています。ブロッコリーのピュレはほのかに香るニンニクとアンチョビの塩味が食欲をそそります。

食後のプリンを食べようと思ってマグカップからプリンを取り出そうとしたら崩れてしまったので画像は省略します。味はまあまあでした。

お子様ランチってなんで小学生以下しか食べられないんだろうと思って検索したら、「多種類の料理を盛り付ける手間が掛かり、多くの場合採算割れするためである」(by Wikipedia)だそう。実際品数が多くて面倒だったんで納得ですね。

【12/15】神様助けてくれ~


脳が溶けてて日常生活すら危ういやまぴです。脳が溶けてるからアドカも落としちゃったっピ……。今日(昨日)も朝までハースストーンやって、お昼まで寝て、起きてちょっと伸びして、もう一回寝るか―と思って起きたら4限の授業30分前。ひえー。このままで大丈夫なんでしょうか(大丈夫じゃない)。とりあえずなんか書くぞ。前日担当の夕陽chanが漫画じゃない話してるし、逆に(?)漫画の話してもいい気がしてきた。

 

かんなぎの話します。

 

最近読んで、はえ~神漫画や……ってなったんですよね。やっぱ1353さん*1って正しかったんだなぁ。簡単に(アドカのテーマに寄せて)言うと神様から人間が誕生するお話。一番好きなキャラは、うーん、ざんげちゃん(鈴城白亜の姿)かな。

 

清楚で一途な白亜ちゃんはもちろんかわいいし、そんな白亜ちゃんが身体を好き勝手使われてるのいいよね。

 

 

てか、なんかアニメ*2のざんげちゃんがcv花澤香菜って見てお、ええやんと思ってYouTube検索してみたらこれ。

 

ざんげちゃんが乗っ取られちゃった……。検索汚染勘弁しちくりー。

 

こっちが本物や!

まあ、それはいいや。ざんげちゃんに限らずなんかこの漫画エロいよね。ナギ様非処女論争とかはよくわからないんですが。なんか、そういうキモいオタクスピリッツ(?)みたいなのが自分にはないんだよな。そういうのガンガン発露してる人ちょっとうらやましいや。

 

てか、「motto☆派手にね!」ってかんなぎの曲だったんだ。改めて最近聞いてるけどこれめっちゃいい歌やね。「派手にね!」って曲名なのにアニメverのサビが「地・味・だ・NE!」なのいいねとか、ナギ様のダンスなーんか変だけど癖になるわねとか思ってたら、元ネタあるんすね。中山美穂の「派手!!!」。

 

↓比較動画

sp.nicovideo.jp

 

歌詞見てみると「派手!!!だね 派手もいいけど 愛した時はもっと地味にね」とか、バブリーな時代のキザなで派手なイケ男に対してもっと落ち着きなすって!自分を見て!って歌やったんやね。

 

それが時代は進んで2008年、一単語ひっくり返すと、奥手で恋に不器用なオタク君に向けた歌になるんだから面白い。時代の"変化"を巧みに切り取った"返歌"(=アンサーソング)ってこと……!?

 

ちなみに元ネタの「派手!!!」はドラマ「ママはアイドル!」の主題歌。確かにナギ様もみんなのママだもんね。

 

そもそもかんなぎって原作もゆるふわ日常系に見せかけて(いやまあ、実際そうだしそこが好きなんだけど)、割と筋もしっかり通ってるよね。日本神話を下敷きにした背景設定とか、現代と過去のリンクとか、ラブコメ特有のお約束にナギ様がもたらす"縁”っていう理由付けをするところとか。

 

ただ、筋を通しつつも、"縁”によってオタク空間に変わっていく神薙町に対するスタンスに関しては序盤と終盤比べたら時代感覚もちょっと出てるのかもなーって思ったり。つまり秋葉君っていいキャラだよねって話なんですが。

 

ナギ様の力でオタク空間に変化していく神薙町に対する秋葉君の終盤での戸惑いとか葛藤みたいなのって、テン年代にどんどん萌え絵とかが町中に溢れ出していくのに対する自分の気持ちと近くて、勝手に親近感覚えちゃうのよね。

 


★★★


なんでまだ書いてるんだ?まあいいか。最近の漫画で自分の心をつかんで離さない神漫画があるんすよね。

 

いや、まあ、『冥冥冥色聖域』*3の話なんですが。

 

 

うーん、いくらこの作品に「入れる」自分でも、さすがに迫真すぎて何回見ても笑ってしまう。

 

 

ただ、ひとしきり笑った後真顔に戻ってやっぱりええなぁとなる。確かに帰りたいよなぁ。わかるよぉ~。

 

「帰りたい」っていっても家に帰りたいわけじゃないんだよな。この男も家にいるのに帰りたいって言ってるし。

 

いや、厳密にいうと、家に帰りたいのはそうなんだけど、それでも今の家じゃ帰りきれないというか。自分も小学生の時は部活*4が嫌すぎて帰りたい帰りたい言ってたけど、いつの間にか口癖になって、家にいてぼーっとしてても気づいたら帰りたいって言うようになっちゃったからさ。

 

つまり、何にも囚われていなかった、あの頃に「帰りたい」んだよな。なんなら誕生以前の土に「還りたい」という説もある。いやー、人間の感情の機微を切り取った神漫画ですね。

 

 

しかし、この後ペロちゃんも帰りたくなって泣きだすのはマジで何なんだ。

男の方も若干とまどってるぞ

マジで意味わからんし、なんなら泣いてるペロちゃん自身もあんま分かってないと思う。

 

ただ、人のために訳もわからずとも涙を流せるペロちゃんは女神さまで、これが"やさしいせかい"なんだろうなってことは直感した。

 

 

ありがとうペロちゃん。やっぱりこの世界には君が必要や。

 

 

 

 

*1:去年卒業した会員。かんなぎを入トロ1年目の個人ランキング1位にしていた。

*2:監督はヤマカン。WUGはいつか見ないとなーと思ってる。昨日久しぶりにヤマカンのアメブロ見に行ったら暇空茜界隈と戦ってた。この人いつも戦ってるなぁ……。

*3:アフタヌーンで現在連載中。総合ランキング全体4位(!?)。メイドのペロちゃんが主人公のハンドリフレを舞台にした作品。

*4:サッカー部に入っていた。だってDSのソフト(確かポケモンブラック)を買ってくれるっていうから……。