【12/15】パーティは終わる ー『ぷりぞな6』についてー
セイ。
性。
世。
精。
成。
聖。
誓。
制。
昨日に引き続きちろきしんです。今日は、原作・金月龍之介の漫画『ぷりぞな6』の話。
金月龍之介は、美少女ゲームライターやアニメ脚本家として名を馳せた作家である。『ジサツのための101の方法』(2001)『フタコイオルタナティブG』(2005)においては、抑圧された性欲、妄想と現実の境界、希死念慮をテーマに、読者の現実世界の実在性の確信を揺るがし、精神的な主体の確立を描こうとした。Ufotable二作品『フタコイオルタナティブ』(2005)『まなびストレート!』(2007)においては、人との繋がりの尊さとは何か、成長(主体の確立)とは何かを繊細に解きほぐそうとする。金月龍之介を語る上では「まなスト」では「約束の地」と呼ばれる「聖なる誓いの場所」の存在の貴重さも重要なキーワードの一つだ。Ufotable二作品では現代資本主義批判も快調。「まなスト」は反体制運動の在り方を問う作品でもある。
『ぷりぞな6』は金月龍之介初の漫画原作作品。プロットは全て金月龍之介の手によるものである。
舞台となっているのは所在地不明、名称不明の「島」。その島には記憶を失った少女たちが運ばれてくる。少女たちには名前の代わりにナンバー1からナンバー7までの数字が与えられる。「島のシステム」が定めたルールに従って生活する少女たち。欲しいものがあれば「リクエスト」をすれば島の外から希望の品が送られてくる。「リクエスト」を送るのはナンバー1の役目だ。ナンバー1を代表とした自治組織が島の前提。少女たちは「相手が言いたくないことは聞かない」などの島のルールを作って自治をして暮らしている。そういえば、「まなスト」も「自治」がテーマの一つだった。島を脱出する方法はただ一つ、全員に毎月支給されるナンバーロックの掛かった「箱」を開けること。
一つ目のテーマは「過去のトラウマ」・「人を信じられなくなること」
主人公、むっちん(ナンバー6)は唯一覚えている「先輩」の記憶をよすがに島からの脱出を試みる少女だ。その中で、ただ一人、みんなから離れて一人で暮らしているナンバー4に出会う。ナンバー4はかつてふたゑ(ナンバー2)という少女と恋愛関係にあったが、約束を違えてふたゑは先に脱出してしまう。その「裏切り」をナンバー4はずっと引きずっているのだ。この挿話は「ジサツ101」のカンナの昔話を思い出す。
珊瑚(ナンバー3)には人に夢を見せる超能力がある。珊瑚は精神が不安定になると徘徊する。そして、関わろうとしてきた時に自分が過去に親から受けた虐待の夢を見せる。
珊瑚の過去を知ってもなお踏み込もうとするむっちんは珊瑚の作った理想の精神世界に閉じ込められてしまう。そこは、憧れの先輩のいる甘い夢。理想の夢を見せるという行為は、珊瑚の能力を利用して稼ごうとする親に利用された手段だった。それは、親に認められるための行為であり、自分が慣れ親しんできた生存のための手段でもあった。そこには「資本主義」と「疎外」という問題も含まれているだろう。
ここで新たなテーマ「心の深いところに降りる」という新しいテーマが現れてくる。
むっちんは、夢の中で珊瑚の「深いところ」に「降り」ようとする。珊瑚の痛みを受け止めようとする。そして、珊瑚は心を開く。すると、どうなったか。むっちんの「箱」が開いたのである。
島には心にトラウマを負った少女たちが集められる。失った記憶の中にある触れたくない「真実」。トラウマのせいで閉じた心。その誰かの閉じた心を開いてあげれば「箱」は開く。「誰かを求めること」、「誰かに求められること」、そして「微笑むこと」。島の外で生きていくための術だそうだ。その術を身に付けた者が島を脱出し、現実へと帰って行く。
ところが、「島のシステム」には暗い側面があった。現実で生きていく術を身に付けられなかった者は、「追放」され、心を奪われて島のシステムの一部になってしまうのだ。なぜなら、救済すべき「プリズナー」の枠は6人しかない。だから新しいプリズナーのために見込みのない者を切り捨てる必要があった。効率を名目に切り捨てを行う現代資本主義社会のメタファーだろう。夢の世界といい「島のシステム」といい「ジサツ101」の金月らしい舞台設定である。
「島のシステム」の支配を担うナンバー7の一人ナナコの力を借り、「島のシステム」に反抗し全員で脱出を目指す『ぷりぞな6』の後編において大事なテーマになるのが「意味」である。彼女たちは自らのトラウマに向き合うことを避けるために自分の人生は「無意味」だったと思い込もうとする。自分の傷が痛かったことを認めまいとしてニヒリズムに落ち込もうとする。そんな彼女たちが「島のシステム」と戦う中で意味を見つけていく。それは、彼女たちがシステムの管理によらずに現実で生きていく術を見つけたことを意味する。そして最後には全員で島から脱出の成功するのである。
この過程で注目したいのは金月龍之介の繊細さだ。「フタコイオルタ」では、白鐘姉妹の失踪の理由をあえて聞かないまま彼女らを受け入れる恋太郎の姿を描いた。「まなスト」では主人公たちが率いる生徒会活動や学生運動を描く際にひたすらリアリズムに徹した。生徒会中心の学生運動について内輪ノリが出ているから上手く言っていないのではないかと指摘する箇所には驚かされたものだ。その繊細さはここでも発揮される。
代表的なのは「心の深いところに降りていくこと」というテーマについて。これは誰かの心をとにかくこじ開けてトラウマを語らせ承認を与えるという意味ではない。主人公むっちんは自らの傷を隠し甘んじて「追放」に応じようとする二胡に対してこう呼びかける。
「私たちは仲間じゃなかった!私たちは他人だった!だから二胡さんの深いところにあるいろんなこと、話してくれなくても構いません!でも!いつか!いつの日か!私たちは「仲間」になれる!そんな日が来るんじゃないかって—私は思うんです!それじゃダメですか!二胡さんを助ける理由、それじゃ足りないですか…!?」
心を今すぐ開かなくてもいい。困っていること、辛いことを今すぐ話さなくてもいい。それでもいつか心を開いて欲しい。傷ついている誰かの助けになるために必要な繊細さである。傷ついている僕たちが必要としている繊細さである。
もう一つ必要なものがある。「約束の場所」である。彼女たちは「島」を脱出し、現実世界に帰る。そしてみんなが一様に決心してある無人島に向かう。そこはあの「島」によく似た商店街、そして、溜まり場になっていた「喫茶五百蔵」……。全員が記憶の無いまま懐かしさと確信の中で集結した。そして物語は終わるのである。
金月は最後に「島」を再現した場所に終結させて何がしたかったのだろうか? その謎の答えは「まなびストレート!」を象徴する挿入歌「桜舞うこの約束の地で」の歌詞を引くことで代わりとしたい。
パーティは終わる
季節は流れて いつか 違う空の下だけど
足がすくんだら 名前 呼んでよね そして
桜 舞う この場所で また会おう
【12/14】昨日は双子の日だったらしい
ちろきしんです。セイといえば二卵性(セイ)双生(セイ)児。つまり双子だ。
双子(三つ子でも五つ子でもない)が同じ人を好きになるという物語類型はゼロ年代によく見られた。
互いの同一性と差異の狭間で悩みながら、互いに転移や競争を繰り返して三角関係を築き上げる。
ゼロ年代の精神分析的な想像力の最も代表的な物語類型だと思う。
『あきそら』では、双子の妹、ナミが兄のソラに想い人である可奈を取られてしまい、自分が男性であったらとの思いから兄の陰茎を切り落とそうとする。
『恋愛ディストーション』では、双子の妹の彼氏が好きになってしまったまほという女性の苦しみが過去の回想という形で描かれている。
「どうして姿かたちは同じなのに」
「隣にいるのが私ではダメなのだろうかと」
そんな想いを紙に綴った過去が描かれる。
まほは物語時空上の現在、故郷を離れて東京でかつての想い人に似たメガネの彼氏、江戸川くんと暮らしている。そこには想い人に対する投影もあったのかもしれない。未練も完全には抜けきっていない。それでも時間の経過の効果と現在の人間関係に支えられながら傷は少しずつ癒えていく。
美少女ゲームにもおそらくたくさんの例があるだろうが、ここではkey作品に登場する双子に注目したい。『CLANNAD』の藤林姉妹と『リトルバスターズ!』の葉留佳と佳奈多だ。
藤林姉妹のルートでも葉留佳・佳奈多のルートでも、あえて自分ではない方の格好を装って愛を確認するという内容の話が展開される。双子という設定を使ってライターが表現したいのは、自分が置き換え可能なのではないかという自己の唯一性の不安である。
藤林杏ルートでは杏は先に椋の朋也への気持ちを知ってしまったばかりに二人の恋を応援せざるを得なくなってしまう。抑圧を続けた想いは暴発し、朋也は杏の想いを知る。そして、朋也は椋と別れる決心をする。
椋(実は中身は杏)に朋也は画像のように訴える。双子をヒロインに配置した時、男側から見ると、一方と話している時は同時にもう片方を連想し、他方を連想している時はもう片方を連想する。そんな心の動きが描きやすくなる。
これは先程「恋ディス」の際のかつての想い人を今の彼氏に投影するまほの心の動きに似ている。これは双子じゃないとできない。五つ子のヒロインが登場する恋愛作品があったとしよう。ヒロインの誰か一人と話す時、一体他の誰を連想するというのか。
何が五等分の花嫁だ。あんなのは双子作品の皮を被った偽物だ。
以上に述べたように、双子という設定には豊かな可能性がある。
ある時から、清盛という漫トロ会員が突然『双恋』に狂ってしまった。かのufotable制作の名作「フタコイオルタ」ではなく、『双恋』である。彼は「『双恋』の"可能性"」などという訳の分からないことをことあるごとに語る。「フタコイオルタ」は偽物なのだそうだ。
そこまで言うからにはと思ってアニメ版を視聴してみることにした。『双恋』は、双子の美少女たちと恋愛をするという内容雑誌『電撃G's magazine』発のメディアミックス作品だ。
ちょっとスケベな主人公・望くんとメインで恋に落ちるのは一条姉妹と桜月姉妹である。
一条姉妹は幼時主人公と結婚の約束をした幼馴染だ。
なんとも都合のいい設定である。少年誌のラブコメなら、誰かと結婚の約束をしたという記憶だけ覚えている主人公が、誰が約束の女の子なのかわからずに思い悩むという展開になっているだろう。そこにドラマがあるはずだ。
桜月姉妹は世間知らずの箱入り娘姉妹だ。ちょっと主人公が財布を拾っただけで、その出会いを運命だと勘違いしてしまうキュートな二人だ。まだ1話である。
その後はダラダラとモテモテの主人公とそれを羨む親友キャラみたいな構図の話が続いていく。だが、話が進むうちに主人公に必ずしも好意を示さないキャラが二人出てくる。
一人は白鐘沙羅。妹の双樹は病気がちで不登校。双樹は、例のごとく男性慣れしていないので、偶然出会った主人公にすぐに惹かれてしまう。妹思いの沙羅は、主人公の優柔不断さを見抜き、「双樹を泣かせたら私が許さない。その女の子ときっぱり別れて、双樹と付き合え!」と要求する。
ところが、である。この沙羅、なんと登場から次の回には、主人公に向かって「双樹がなぜお前に惹かれたか、わかった気がする。」と驚愕の一言を発する。主人公からなんかすごいフェロモンが出てるんだろうか。
もう一人は桧山優也。一条姉妹の姉・薫子のことが好きなイケメンである。航空物理学の研究を志し、将来はロケットを作るのが夢だそうだ。『ふたつのスピカ』の世界から飛び出してきたような人間である。わふー!
勉学も優秀な好青年の彼は、高校に受かったら薫子に告白すると主人公に告げる。主人公は別に女に困っているわけでもないし、そんなに薫子に特別に入れ上げていたわけではなかったはずなのだが、俺の縄張りに入ってくるなとばかりに不快になる。家父長制を内面化している彼は一条姉妹や桜月姉妹は自分の所有物だとでも思っているのだろう。最低だ。
優也の告白とその顛末はアニメの終盤に描かれる。薫子は優也の告白と妹の菫子の主人公への気持ちを知ったことを機に主人公に対する恋心に気づいてしまう。そして一条姉妹は二人揃って主人公に告白する。なんともお気楽なアニメだ。クライマックスの桜月姉妹の転校話はもういいだろう。特に語るべきことではない。
先程述べたように、双子という設定にはゆたかな可能性がある。たくさんの双子と恋愛するという素晴らしい設定を持っておきながら大して姉妹たちの心情が掘り下げられることもなく終わったのは残念だった。クリスマスプレゼントには、『双恋』リメイクを切に願う。
【12/13】セイヤだなんだと
短日の候、暮れなずむ街はクリスマスの飾りつけ一色となってまいりましたが、いかがお過ごしでしょうか。入会1年目にして今年度卒業予定、5回生の星野です。このような形式でブログを執筆する機会は初めてですが、精いっぱい書いて行きたいと思います。
さて、アドベントカレンダー企画に際して「セイ。」というテーマを伺ったときやはり浮かんだのは「聖夜」という単語でした。この時期にこの単語を無視しては片手落ちというものでしょう。キリスト教のうんちくでも語るか、海外でのクリスマスについて語るか、イベントについて所感を述べるか、いやいやクリスマスを題材にした作品を紹介するか……「聖夜」について何を執筆したものかと私の思考は巡り……
聖夜……せいや……セイヤ……
君は、小宇宙を感じたことはあるか!?
ジャララララーララージャララララーララー ジャララララーラララーーーッ
セ ンセ ヤーーーッ(セイヤーセイヤー)
※エコー
ジャララララーララージャララララーララー ジャララララーラララダカダカダカダカドゥクドゥクドゥンッ
だーーきしめたーーーー(ビィユリーン) こーころのコスーモォーー
(ペガサス聖衣装着!星矢の両足キィ!腰キュウ!左腕キュイン!右腕クキュ!胸チイュン!左肩キュン!右肩キュゥ!頭部チュイ!*順注意!!)
熱くぅ 燃やせぇ 奇跡ぃーーーをーー起こせぇーーっ!!(バゴオォオン!)
きーずついたーーーー(ドゥッタンドゥドゥタン) まーまじゃいないーとーー ドゥッタンドゥドゥタン)
誓いーーーああーーった はーるーかーなー銀河ーーーー(謎のサイレン音 プアァーーーーーーー)(トートタラテレレレ)
ペーガサスファンタジー!(キシュイイ)そーさゆーめーだーけはーーーーー(ブガアアシ)
だれもーーーう-ば えーーーない こーころの 翼だーーーかーーーーらーーーー!
(ダカダカダカダカドゥン)
センシーヤッ!(ZUBAAA)!しょおーーねーーんはーーーみーーんなーーーー
センシーヤッ!(テュイーーーーー)あしーーたーーの勇者ーーーー オウヘーーーイ
センシーヤッ!(チュプシーー)ぺガァサァースゥのよぉーーーにーーー(ズガゴオオオオオ)
センシーヤッ!(デュ プアーーーーーーー)今こそっ!(プアーーーーー)
はーーばーーたーーけーーー!
(ダー ダラララー ダラララー プアーーーーー ジャッジャッ ジャッーーーーー)
この懐かしいコピペに頭を支配された私はその足で読んでまいりました。
1985年より週刊少年ジャンプで連載されていた伝説の少年マンガ『聖闘士星矢』です。
題して「完全初見で読む聖闘士星矢」
あらすじ
この世に邪悪がはびこるとき、必ずや現れるといわれる希望の闘士聖闘士(セイント)。その拳は空を裂き、蹴りは大地を割るという。 彼らは神話の時代より女神アテナに仕え、武器を嫌うアテナのために素手で敵と戦い、天空に輝く88の星座を守護としてそれを模した聖衣(クロス)と呼ばれる防具を纏う。
そして現代、6年もの厳しい修行を経てアテナの聖闘士となった少年星矢が父に運命を託された実の兄弟たちと共に地上の覇権を争う神々の争いに身を投じることになる…。
聖闘士星矢とは神々の戦いに巻き込まれた少年「星矢」の熱き友情と小宇宙を燃やし、多彩な技で悪を倒す物語なのである。(出典:原作ストーリー|COMICS|聖闘士星矢)
感想1:登場人物が多い!!
・描き分けもへったくれもない80年代の画風
・どいつもこいつも聖衣で似たような見た目
・作中ほとんどバトルシーン
という訳でとにかく見わけが難しい! とりあえず以下の人々を押さえておけばいいと思う。ぶっちゃけこの人たち以外影がうす……
天馬星座の星矢
・小宇宙を燃やしてペガサス流星拳を打ってる人。つまり主人公。
・道中で濃いバトルが続くので読んでる最中は意外と印象が薄い
・追い込まれると小宇宙を燃やして無限コンティニューして粘り勝ち、という本作の基本理論に忠実なやつ
龍星座の紫龍
・あいさつ代わりに廬山昇龍覇をぶち込む人
・ピンチになると上裸になるが多分脱いだ方が強い
・失明しては復活するを3回繰り返す忙しい人。皆耐久力がバグっている作中でもひときわ不死身の男。
・「ひと言いっておきますがあなたの体には半分しか血がない」と診断されても戦いに挑むナイスガイ。いや死ぬやん。
白鳥星座ギグナスの氷河
・とりあえずダイヤモンドダストをぶち込む人
・お母さん大好き師匠大好き兄弟子大好きな情に厚い男。師匠関連のエピソードは実際良く出来ている。
・どうやら読者人気も高かったらしく、一人だけ番外編をもらっている
アンドロメダ星座の瞬
・なよっとした見た目に違わず優しいやつ。一輝の弟
・鎖使いだが自分も鎖とか縄とか触手に巻かれるシーンが多い。当時のお姉さまをさぞ沸かせたことであろう。
・オート索敵&自動防御のチェーンがとにかく便利
鳳凰星座の一輝
・肝心な時に限って助けに来る瞬の兄さん
・ジャンプ名物「打ち切りを想定して設定された序盤のボスキャラ」であり、その後なんやかんやあって追加戦士ポジションに落ち着く
・正統派炎属性に見せかけて得意技は幻術と精神攻撃。汚い。
・聖闘士は死の淵から蘇るたびに強くなる、聖闘士は一度見た技は二度通じない、と言った共通設定をこれでもかと悪用する最強キャラ。やっぱり汚い。でもカッコいい。
城戸沙織(アテナ)
・聖闘士たちを従える女神アテナの生まれ変わり。つまり聖矢たちの元締め。物語を動かすためにさらわれたり瀕死になったりするが、その都度自分でも大立ち回りする気合の入ったお方。
黄金聖闘士のみなさん
星座の代名詞:黄道十二宮の星座を冠した最強の12人。元祖「定員ありの最強キャラ集団」みたいな連中であり、キャラ立ちが半端ないし多分こっちの方が人気が高い。しかし彼らが本気で動くと物語が終わりかねないので、よんどころない事情により待機したり仲間割れしていることが多い。師匠キャラ、強キャラ、ぶっ壊れキャラ、ラスボス、果ては小悪党まで各星座間で扱いの差が激しい。自分の星座の黄金聖闘士を調べてみよう! 個人的1位は乙女座。
感想2:そうは言ってもストーリーは熱い!!
ストーリー展開はザ・少年マンガ。序盤はお約束のトーナメント方式をやるかと思えばこれまたお約束(?)通りトーナメントは放り出して新たな敵登場! 倒した敵が仲間になりまた新たな敵が……という展開をすんごい熱量で繰り返していく。
主人公たち5人は最下級の下っ端であり、相対する敵は毎回格上。なので戦うたびにズタボロになるし、毎回絶対絶命からの逆転劇をかましてくれるので、分かっていても燃えてしまう。>
また、主人公たち以外の強キャラ同士の対決も非常に多く、こっちはこっちで見開き1ページの大技がバンバン飛び交って楽しい。
【12/12】『「晴」明さんはがんばらない』
おそらくこの記事を閲覧しているあなたは、この作品を知らないだろう。
あなた方と寸分違わず、私はすっかり作品の存在を忘れていた。
「セイ。」というテーマを知らされて、ついでに私の締切が今日(:寝て起きたら昨日になった)なのも知らされて、とりあえず本棚を眺めていた所「晴明さんは頑張らない」が目に入り「晴明」かぶりはしないだろうと選定した次第。しかし、「。」を無視しているから厳密にはお題に合致していないのだろう。
御託はともかく、私にはこの作品がいかなるものかあなた方に説明する義務がある。
が、出さない名分よりちゃんと出そうね燃えるゴミ。
下にグダグダ書いているが、気が向けば追記するだろうが、、端的にこの作品が向いているひとは誰なのか?この記事を読んでいる物好きはそれが一番知りたいと言うことにした(定義)。
『軍神ちゃんと呼ばない』でという作品があり、こちらは現行で連載中なので知っている方も多いと思う。ニコニコ漫画にもあるし。
あれ好きな人は合うと思うよ。
先駆的な作品だと思う、おやすみ
あっ(コミュ障)おおあさでーす!
この話を大雑把に説明するならば、帰省中に平安時代へと転移してしまった安倍明子(画像左)が転生時に持ってきたものと知識を活用していくという近年のなろう系ともとれるものだ。なお、右は藤原道長である。
阿倍明子=安倍晴明はひたすら干物女を満喫しようする。言うなれば、「ホタルノヒカリ」の主人工のような存在だ。が、様々な面倒ことに巻き込まれていってしまう。。。厄介事が巻き込まれてくるパターンは『応天の門』や『薬屋のひとりごと』に近いがあんな大立ち回りはしません。基本日常漫画で推移していく。
また、この漫画の特徴としては主人公が男装している点。
「晴明さん~」が連載されていたのは2014年頃と現在よりもなろうテンプレートが確立していなかったのと主人公が男装女性という点で今読んでも損しない作品となっています。
【12/11】盛大な遅刻、深く陳謝します。陳謝ドープネス
連絡不十分かなんかでめちゃくちゃ日をまたぎました。すみません。
お世話になっております。げんしです。漫トロ1年目の1回生が恐れ多くも先輩方を差し置きアドベントカレンダー2回目の登場ということで、しゃしゃり出ることお許しください。
近況報告として、先日、自分への誕生日プレゼントに44,000円の液タブを買いました。バイト代二、三ヶ月分のお値段です。たけー。まぁこれだけ金かければ流石に三日坊主にならずに毎日お絵かきするだろうと思っていたのですが、自分を舐めてましたね。二日坊主でした。タブレットは早くも置物と化しています。情けない……。
ところで、自分は先日の誕生日で二十歳になりました。1回生で二十歳、正常ですね。
そういう訳で、今年のアドベントカレンダーのテーマ「セイ。」に関して、今回は成人の「成」でいきたいと思います。
二十歳ということで、年明けに成人式が待っています。成人式ってどれくらいの人が行くんですかね?
これを読むみなさんは行ったんでしょうか?行く予定なのでしょうか?
少なくとも去年までの自分は、「誰が成人式なんて行くかよ……っ!」と考えていたんですが、最近考えが変わり成人式だけは行くことにしました。
この心変わりには大きく分けて二つの理由があるので、その二つについてグダグダ書こうかな。
一つ目の理由は、今年読んだある二つの漫画の影響です。
『神戸在住』と『束の間の一花』という2作です。どちらも「成人式」が作中に登場します。
『神戸在住』に関して。
主人公の辰木桂とその周囲の人間たちの神戸での暮らしを丁寧に描いた作品。自分が今年ドハマりした漫画の一つです。
本作の第四十話で、辰木桂は友達の金城和歌子と成人式に出席します。
この話を読んだことで、自分の成人式に対する考えが変わり始めました。
自分はそれ以前まで成人式というとウェイウェイした感じの雰囲気で、みんなあっちこっちで固まって談笑して、とてもじゃないけど静かにはしていられないようなイベントだと思ってました。完全にテレビの影響です。
でも、辰木桂たちが出席した成人式は、上記のような派手さは持たず、しんみりした感じをしているのです。まぁこれに関しては、『神戸在住』全体の雰囲気、第四十話の内容、辰木桂が地元の人間ではないことなど様々な条件があってのことだとは思いますけど。
実際の成人式も静かなものなんですかね。
なんにせよ、友達と二人で厳かに晴れの舞台に臨む辰木桂に憧れて、こういう成人式なら行ってみたいかも!と思い始めました。チョロい。
また、この話の中で辰木桂は高野悦子の『二十歳の原点』という本を読んでいます。辰木桂の読んだ本マニアの自分としては、この本はまだじっくり読めていないので成人式までにはなんとか読んでみたいものです。
高野悦子というと、自分もあまり詳しくありませんが、学生運動が盛んだった時期の京都で活動されていた方らしいですね。昔『二十歳の原点』をさらっと読んだときに、なかなかかっこいいなと思った部分が、なんとなく最近の京大を思わせるので、その部分を少し抜粋します。
「もろもろの怒りをこめて、私は『機動隊帰れ!』のシュプレヒコールを青ヘルにジェラルミン盾の機動隊にブチまけ、政府に、国家権力に、また自らのブルジョア性にむけて叫んだのである」
二十歳になってもまだまだ精神的にガキな自分は、幼さを残す辰木桂には親近感を持って憧れ、自らのブルジョア性を自覚しながら活動し、最後には自殺した高野悦子には畏怖の念を抱いて憧れます。
『束の間の一花』に関して。
高2の春に、残り2年の命だと余命宣告された主人公・一花の暮らしを描いた作品。一花はなんとか大学生にもなり、自分の生きる希望ともいえる萬木(ゆるぎ)先生と出会います。しかし、この萬木先生も余命宣告されてしまいます。束の間の余生を送る二人の淡い恋の関係と、一花と家族の強く温かい関係が心に迫る儚い物語です。
本作の第27話で、一花は成人式に向かいます。
16歳の時にあと2年のだと言われたのに、成人式まで生きた一花、すごい。
この作品は全編通して、人生や運命のままならなさを描いているのですが、この話の中でもそれを反映したセリフが出てきて、それが自分は好きです。
「なんのために生きるんだろう?」「どうしてこうなっちゃったんだろう」
セリフの汎用性が高すぎるんですよね。別に一花みたいな激しい人生送ってるわけでもないのに、文脈無視して刺さってくる。
この話の中で、自分が特に影響を受けたのは、一花の母のセリフです。
「これから大人になりに行くんだもんね」
一花をずっと見てきた人が言う言葉には、字面以上の重みがあります。
成人式って本人だけでなく、その親にとっても特別なものなんでしょうね。
出席するのが親孝行、なんて言われたりもしますし。
そういうわけで自分も親孝行がてら成人式行ってみるか~と、この話を読んで思いました。
以上で、自分が成人式に行こうと思った理由その一、漫画の影響編が終わったんですけど、これだけで結構字数も稼げましたし、その二についてはお蔵入りにします。作品紹介とか絡められない、すごい個人的な理由ですし。まぁ自分が成人式に行くと決めた決定的な理由はその二の方なんですけど。
なんだかんだ成人式楽しみです。みんな友達で集まって式場に向かったり、式後は同窓会なんか開いちゃったりするんだろうな。自分はひとりで行って同窓会にも行かずひとりで帰ってくる予定です。どうしてこうなっちゃったんだろう。
それでは、クリスマスまであと二週間くらい? お元気で。
【12/10】生きねばねばぎぶあぷ。
皆様ご無沙汰しております。
今年漫トロに入部した新入部員兼幽霊部員のやまぴです。
例会等に顔を出してはいませんが、大学とは適切な距離を保ちつつ、心身共に健康的に生活を送っているのでどうか御心配なさらず。
年の瀬も迫り寒さも日に日に厳しくはなっていますが、皆様も体調の方お気を付けて、新しい年をつつがなく迎えられることを心より願っております。
敬具
……。
あれ、これで終わりではダメ?でも漫トロに一応所属してるけど漫画とかこの一ヶ月何も読んでなくて……。
……え?漫画に関係することでなくてもいい?なんでもいいから締切があるから早く書け?
なるほど、分かりました急いで書きます。長々と茶番失礼しました。
えー、今年のアドベントカレンダーのテーマは「セイ。」ということで、色々な受け取り方ができるテーマではあります。
自分はシンプルに「セイ=生」として、「生きねば。」のキャッチフレーズ?でも有名な宮崎駿監督の映画作品『風立ちぬ』について少し書いてみようと思います。
(注意!この文章は映画『風立ちぬ』の大いなるネタバレを含むので、未視聴の方は是非とも作品に目を通していただきたし。その後この文章を……うん、まあ、見る必要ないです。)
この作品の主人公は零式艦上戦闘機の生みの親である実在の人物、堀越二郎と、小説家堀辰雄が実体験を元に執筆した『風立ちぬ』のの主人公「私」がミックスされた架空の人物、堀越二郎です。
ややこしい設定ですが、個人的には実在した人物を小説の人物と混ぜて、しかもそれをかのジブリの、しかも自分の引退作(詐欺)の主人公に据えるというのが中々すごいなぁと思います。
そして作品の構造も少し複雑です。基本的には史実に基づき堀越二郎の半生を描いていくのですが、最初と最後、そして途中の要所要所では夢のシーンが描かれています。
その夢のシーンでの二郎とともに登場するのが、イタリアの設計士であるジョヴァンニ・バティスタ・カプローニ、通称カプローニ伯爵です。
カプローニ伯爵は自分の夢の中に入ってきた二郎に対して「飛行機は美しい夢だ」と語り、二郎を飛行機の設計へと導いていく役割を果たしています。
しかしながら、この時代の飛行機とは戦争の道具となる運命は避けられず、実際二郎が美しい夢として追いかけ生み出した零戦は敵味方含め多くの人を死へと追いやります。
夢の中で甘い言葉で二郎を戦争の道具である飛行機設計の道へと誘い、国を滅ぼし人を殺める道へと引きずり込む、そんなカプローニの役割はある意味で悪魔メフィストフェレス的とも言えます。宮崎駿自身もカプローニ役の野村萬斎に対してその事は伝えていたようですが。
そもそもこの作品自体が、「戦争は嫌いだが兵器は好き」という宮崎駿のある種矛盾を孕んだ思いを何とかして形にしたい、という意図を持って作られた側面もあるそうで、そういう意味では二郎とカプローニはどちらも宮崎駿の写しで、夢の中での二人の会話は宮崎駿の自己対話のようなものなのかもしれません。
このように、『風立ちぬ』という作品は設定や作品構造1つをとっても中々に複雑で色々と考察しがいがある作品です。
ここからはアドベントカレンダーのテーマ、「セイ。」に沿って、作品のもうひとりの主人公とも言える、二郎の妻であり、結核を抱えながら賢明に生きようとする菜穂子の「生」と、そこに関わる二郎との関係について少し考えてみようと思います。
そもそも二郎と菜穂子の出会いは、まだ菜穂子があどけない少女の頃、汽車の中で飛んでしまった二郎の帽子を菜穂子がキャッチするところから始まります。
二郎の帽子をキャッチした彼女は二郎に対し「「Le vent se lève(風が立つ)」と声をかけ、それに対し二郎は「lève, il faut tenter de vivre(生きようと試みなければならない)」と返答します。これは小説版『風立ちぬ』の冒頭にも引用されるポール・ヴァレリー詩『海辺の墓地』の一節であり、その後映画内でも何度も登場する重要なキーワードとなります。こんなオシャンティーな会話憧れちゃう。
この後汽車が地震で立ち往生し、二郎は怪我をした女中共々菜穂子たちを助けるのですが、この時点で菜穂子と女中は「白馬の王子様(菜穂子談)」の二郎に心底惚れてしまっています。
対する二郎と言えば「美しいもの以外興味がない」といった感じで、まだあどけない少女である菜穂子の事は後に再会して指摘されるまですっかり忘れ、美しい女中の方しか頭にありません。
別にそれは構わないんですが、何年も先、菜穂子に対して二郎は「君が帽子を受け取ってくれたときから惚れていた(意訳)」のような歯の浮くような戯言を抜かしており、当該シーンでは何いってんだこいつはと真顔になること請け負いです。
そもそも二郎君に関しては少々気になる部分があり、菜穂子が「大好きよ、二郎さん。」と言っても返す言葉は殆どが「綺麗だよ。」の一点張です。(例外のシーンもありますが)。
先程も説明したように、二郎は美しくなる以前の菜穂子には一切興味がなかったのに対し、成長して美しくなった途端にそちらに惹かれるようになります。
もちろん同じ男としてそういった気持ちは理解はできるのですが、それにしたって露骨すぎないかしら。勿論こういったシーンを敢えて宮崎駿は書いているのだと思います。
美至上主義とも言える価値観を持つ二郎が菜穂子の他に作品内で綺麗と称すものは飛行機や、その飛行機の骨組みの元となるサバの骨等ですが、一体菜穂子とサバの骨の間にどれ程の違いがあるものか……。
最終的に、菜穂子が結核の病が酷くなる前に二郎の元を、「美しい所だけ好きな人に見てもらって」サナトリウムへ去っていく感動のシーンがあるのですが、よくよく考えてみれば、本当に愛し合う二人ならどんな状況でも最後まで支え合うのが筋のような気もします。
このシーンも穿った見方をすれば、菜穂子は二郎が求めているのは「美しい自分」であることを自覚しており、二郎の気持ちが冷めてしまう事を恐れ去っていった、とも言えるでしょう。
そもそも二郎は時代柄仕方ないとはいえ、仕事、そして自分の夢を追うことを前提として、それに病弱の無理矢理菜穂子を付き合わせる形になっています。
そして、更に問題なのはそれを上司に「エゴイズムではないのか?」と指摘されたときに真正面から答えず「僕達は一日一日を一生懸命生きている」というある種逃げのような返答をしています。どうも二郎は相手の質問に真正面から答えることが苦手なようで、同僚に自分達の飛行機設計の費用と子供の貧困について問われた時も(無自覚に)逃げの返答をしています。はぁーーーーーー(クソデカため息)
あら……。菜穂子について書くつもりが気づいたら二郎への文句でいっぱいに……?
あー、えー、なんだか色々ぶつぶつ書いてしまいましたが、これはあくまで露悪的に二郎について書いただけであり、映画内で天才として描かれる二郎は基本的にとても魅力的です。
悪口も色々言いましたが、そんな部分も含めて自分もとても好きなキャラクターです。
そして、重要なのは、二郎の存在こそが菜穂子の生きる意味となっていたということです。(ここに来て無理矢理ようやく本題)
二郎と結婚の約束をした菜穂子は父親に「病気を治したい。私二郎さんと一緒に生きたい。」と、山奥のサナトリウムへ一人で治療へ向かうことを決意します。
これは、裏を返せばこれまでは寂しい山のサナトリウムに行ってまで治療を無理に受けようとは思わない、そこまでして生きる意味は見出だせていなかったと言えます。
どれだけ二郎が少しニブチンな仕事人間で夢追い人だったとしても、その二郎と一緒に生きること、それこそが菜穂子の生きる意味であり希望だったのです。
そして、最後の夢のシーンで風と共に消えていく菜穂子が二郎にかける言葉も「生きて。」でした。菜穂子は自分に生きる意味を与えてくれた二郎に対して、感謝と共にこのメッセージを伝えたのです。自分はこの世を去るけれどあなたには生きていってほしい、と。
ところで、「風が立つ、生きようと試みなければならぬ」の「風」とは、世の中における困難や人に降りかかる災難であるという解釈もあるようです。
震災や、結核に苦しめられた菜穂子や、戦争の影に付きまとわれる二郎やその他の人々、沢山の「風」が吹くけれど生きようと試みることを止めてはいけない。菜穂子の二郎に対する呼びかけは、視聴者への呼びかけでもあり、とにかく「生きねば。」というメッセージこそ、宮崎駿が伝えたかったものなのでしょう。
自分も大学という「風」に負けないように精一杯生きねば。なぁ……。
【12/9】他力本願
今年漫トロピーに入会したへっどです。
今年のアドカレのテーマは「セイ。」ということで、主人公・富士動機子の体が急「成」長し巨大化してしまうフェチ系漫画『ジャイアントお嬢様』について語りたいと思います。
この作品では巨大化するお嬢様という要素のみに焦点が当たっています。なのでお嬢様とそれを補佐するセバスチャン以外の登場人物の顔は一切描かれていません(一巻時点では)。また、ストーリーや設定なども必要最小限のものしか提示されません。これによって巨大化するお嬢様という要素だけを堪能できるように作られています。といっても私が語る必要ってあまりないんですよね。と、いいますのも、
www.sunday-webry.com
と、原作者本人が巨人化の魅力について長々と文章で語っています。実際のところ、私がここで何か付け足したところで蛇足にしかならないと思うんですよ。
ということで本記事はこれにて完結です!
……というわけにもいかないので、少しだけ続けます。
正直なところ、私は『ジャイアントお嬢様』をあまり楽しめませんでした。初めの数話はその題材の物珍しさと「巨人化の何が魅力なんだろう?」という疑問から興味を持って読み進められました。しかし私はそもそも巨人化それ自体にはあまり関心がないことと、それ以降の展開が同じ事の繰り返しのように感じられて飽きてしまったことが原因で楽しめませんでした。もちろんそれだけフェチに特化しているということで、巨人化フェチの人ならこの漫画の良さを存分に読み取り、高い評価を付けるかもしれません。
それではこの作品は巨人化フェチではない人間には無意味な漫画なのでしょうか? 私はこういった「自分には良さが理解できない」作品にこそ、読むことの意義があると考えています。
一人で面白そうな作品を探したり、鑑賞することには限界があります。自分の好みの作品だけを読んでいても、自分の感性を肯定するだけで、その繰り返しに人はいつか飽きてしまうものだと思うんです。
かといって、自分の感性からかけ離れた作品を受け入れるのは一般にはそう簡単ではありません。そういった作品を目の前にすると、驚き、拒絶してしまうのが普通だと思います。しかし、その驚きにこそ読むことの意義が秘められていると思っています。自分の価値観の外側にあるもの、一見して理解しがたいもの、そういったものの存在を認識し、理解しようとする。その行為の繰り返しこそが私たちが様々な作品を読み続けることの意義なのではないでしょうか。
何かを好きになること自体を本人が自由に選ぶことはできません。例えば好きな性別も、どんな年齢の人を好きになるかも、そもそも誰を好きになるかだって私たちは気付いたらそうなっているだけです。そんななかで好きになれなかったもの、魅力がわからないものを理解不能なままにしておくということは、それだけ自らの「読み」の可能性を狭めていることに他なりません。わからないからこそ、読むのです。
自分の感性の外側にある作品を理解するために、自分一人で考え抜くという方法があります。一つの作品をその作品だけで読み取り、その解釈を自分の中で完結させることにも意義があるとは思います。ですが私は、作品を他人と語り合うことや、他人の批評に頼ることにこそ生まれる可能性があると思います。自分が作品を読んで受け取ったことや、作者が伝えたかったこと、それだけではなく、それらを超えるものを発見する契機が他者との語らいのなかにこそあると私は思っています。
とはいうものの、自分自身は普段、漫画を真面目に読んで感想を言ったり考察をしたりはしていません(大変なので)。どちらかというと批評を楽しんでいる人たちを眺めて楽しんでいる気がします。他人任せですね。