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京大漫トロピーのブログです

新歓毎日投稿企画【4/11】終わりの季節

こんにちは! 4月から4回生になりいよいよあとがなくなっている、沈黙と申します。
今年のアドカはなんでしたっけ、テーマは「春」? 春……春ねぇ、春か~~~~~っ…………(5、6時間ほど長考・勘案するも、一つとして適当な文章を紡いでいる未来を見出せず、入眠)。

(……起きて)正直に言って、僕は春が嫌いです。芽吹きの時季であり、始まりの象徴であり、萌しの息吹を与える、春。そうした理由から好きになる人もいるのかも知れませんが、僕にとってはその始まりの雰囲気がまさに、終わりを予期し促しているかのようで怖いのです(日曜日を予期する土曜日のほうが、月曜日を予期する日曜日よりも好きなのも同じ理由かも?)。

ただ「春」に対する好悪は別として、この・・季節が世界の諸々の始まりを粛々と用意するのと同様に、いやそれがゆえに、避けようもなく絶えず今まさに訪れているこの・・終わりを暗示するのは間違いないように思われます。

ということで、今回はそうした、絶えず始まりながらもとめどもなく終わっていく漫画を紹介したいと思います。

堀辰雄の「燃ゆる頬」を耽美な筆致でコミカライズした本作は、男子校、寄宿舎、美少年、サナトリウム……といったクリシェを忠実に用いていながらも、少年が「少年」でなくなっていくという、ただ一つ本質的なところを――即ち生命としての「滅び」を、見失わずに描いている佳作だと言えます。

蜂の巣のように正確に区切られた寄宿舎との類比で、主人公の少年は自身を蜜蜂に喩えます。花粉を体いっぱいに纏った蜜蜂は、自分が受粉させる花をいずれ必ず選ぶことになる。「世の中ってそういう風に決まっている」と悟ったように言う主人公は冒頭で、円盤投げの選手で体格の良い先輩に、顕微鏡を見せてやろう、と誘われてレンズを覗き込むのですが、股間をまさぐられ、途端に戸惑いながら逃げ出してしまいます。この時点で彼はまだ「少年」であって、おまけに同級生と比べても成長が遅く、小柄でまだ髭も生えそろっていない初心な17歳なワケです。

そこで主人公と同じ部屋に転入してくるのが、儚げな美少年の三枝です(彼は実際病弱で、脊椎カリエスを患っている)。
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同学年ながら一歳上の三枝は主人公をからかい混じりに魅了し、やがて主人公もいつの間にか恋に落ちていることを自覚して、彼らは「友達」の一線を越えた関係へともつれ込んでいきます。

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美少年の「受動態ネガティブ」に抗えなかった彼は当然タチとして振る舞わざるを得ない訳ですが、上の独白にも表れているように、それは同時に、自分が恬淡と生き時には対象化されもする少年=「花」から、欲望に絡めとられ戸惑いながらも本能に奉仕する男=「蜜蜂」への移行を意味するものだった。本作はそうして、主人公の少年から男への文字通りの変貌=羽化(あるいは「脱皮」?)を活写していきます。

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誰?というレベルで「オス」の顔になってる…… ※童貞喪失の翌日

恋人と言ってもおかしくないくらいに親密になった彼らは、夏休みに旅行に出かけ、宿泊先でも互いに情事に溺れ、深みにはまっていきます。しかしそんな蜜月もある日突然終わりを迎えます。主人公は旅先の村で偶然出会った女学生に、一目惚れしてしまうのです。

そこでよりはっきりと彼は身体的な面だけでなく精神的な面でも「男」となってしまう訳です。途方もない生殖の連関の一部へと、彼は繋ぎ止められて、途端に三枝との関係もぎくしゃくしはじめ、口論になり、そして三枝は突然喀血し、入院することになってしまいます。旅行は中途半端な形で終わり、二人は会うこともなくなりますが、しかしその後も主人公の元へと三枝は手紙を送り続けます。

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三枝への思いを失ってしまった主人公はろくに返事を出すこともなく、彼の持病の再発を知ってもそのままに連絡さえとらず、そして冬になってついに、校内の掲示板への貼り出しで、彼にはもう会えないのだということを知るに至ります。

十分に月日が経ち、すっかり「大人」になった主人公は肺結核と診断されて少し痩せこけた姿で入院しています。思うにこの物語はそこまで描かなければ、即ち少年が男になり、壮年と呼べるくらいにまで老いなければ、物語として完成しなかったのではないかと思います。『美少年学入門』の第一章「少年派宣言」で中島梓はこう記しています。

少年をえらぶ、と意志すること――それはひとつの選択である。滅びに与し、「時」に与し、「時よ、おまえは美しい。ここにとどまれ」と告げることを欲さずにその無慈悲な歩みに与し、そしてその滅びのいたみをあえて身に受けることである。

勿論『燃ゆる頬』での主人公はここで言う少年――三枝を選ぶことなく、いや選ぶことができなくなって、そしてそのできないという諦めさえも諦めてしまいます。しかし、

少年がゆるやかに「時」の報復をうけて、この世の生物にすがたをかえてゆくとき、私たちは「滅び」をえらぶ営為の真の意味を知るだろう。それは、二度とくりかえし得ぬ瞬間の、その一度かぎりなることをこそ愛することだ。

三枝を選べなかった彼もまた、「少年」であったし、何よりそれは中島が「少年派宣言」で定義したように、美醜にも年齢にもその本質を置くものではありませんでした。

少年を「少年」たらしめる真の定義――それをひとことで云うならば、それは、次のようなことになるだろう。それは――《世界にとって対象であるもの》だ、と。

もはや、自分はありし日のような「対象」にはなり得ないということを反芻して、主人公は最後に、変わらず繰り返される生命の営みを殊勝にも言祝ぎます。しかし僕個人としては、大いなる生命の連鎖の途方もなさに驚嘆こそすれ、その不用意な遠大さに掬いとられなくともよいと思うのです。療養所で新たな少年に出会った主人公は、同じ脊椎カリエスを患っている彼に、かつての三枝を重ねます。冬に逝った三枝と初めて会ったあの春が、少年との出会いによってリフレインし、春は結局のところ、絶え間なく繰り返されるその一断片として儚くも、そして切なげに、その営為の開始を告げるでしょう。

とめどもなく流れていく「今」に名をつけて、「春」としても、「少年」としても、時間の残酷さのうちに置かれている限りは、それらはみなすべて、暫定的な仮称にしか過ぎないと言えます。ただ――そうだとして他ならぬ私たち自身は今この瞬間にも滅んではいないか? 僕は、いや私たちは、それらが仮称に過ぎないとしても、僭称ではないと知っています。たとえ世界に見向きもされなくなったとしても、滅び朽ち果てて無惨な姿に成り果てたとしても、誰にとっての「対象」でなくなったとしても、自分だけは自分を対象化し得るはずです。そしてそれは、文字通り終わりがなく果てしがないからこそ、「不可能」という名のもとに、私たち自身に絶えざる「春」を、あるいは、永遠の「少年たること」を、可能にするものではないでしょうか。私たちは絶えず滅んでいる。よって――これは全く無垢な逆説ですが――、私たちは絶えず生まれている。

『燃ゆる頬』は一人の「少年」の滅びの物語ですが、しかし私たちの生そのものが滅びであると気づくとき、他でもない私たち自身のこの滅びを、この終わりを、一身に引き受けることができるのだと思います。僕は春が嫌いです。それは、生そのもののうちに死が、始まりそのもののうちに終わりが隠されていることへの嫌悪からだったかも知れません。でも、皮肉にもこうして、その滅びが曝露して前面に出てきた今となっては、春は寧ろ好きな部類に入るのかもしれません。そこでは生の明るみに死の暗がりがぴったりと寸分違わず重ね合わされているのですから。
(でも、こんな徹夜を余儀なくされる日曜日は、やっぱり好きになれないかも知れないなぁ)

というところで(勘弁してほしい)。ではでは。長文失礼いたしました。