mantrog

京大漫トロピーのブログです

【12/10】んじゃ、またね。

 こんばんは。10年代の終わりに10番目のアドカを担当することに相成りました、沈黙です。まぁぶっちゃけ、10年代とか別にどうでもいいんですけどね。ここから先の余白にも、できれば何も書きつけたくないしこのまま三点リーダを際限なく打ちつらねて文字通り沈黙を貫き通したいところですが……おっと、こんなところに思わぬ導入の足掛かりが――「10」と言えば、皆さんご存知の通り、原作:綾辻行人・漫画:清原紘の漫画版『十角館の殺人』がついに出ましたね。出てしまった。でもこれも割とどうでもいい。……だいたい、『じゅっかくかん』ってのはどういうことだぁ~~~~っ!? 『十』の音読みは『ジュウ』か『ジッ』のはずだし、この場合は『じっかくかん』じゃあねぇのかよォ~~~~ッッ!?????? 原作読んでた時は奥付で確認するたびにムカついてたけど、今回は表紙から『じゅっかく』ってこれみよがしに書いてあるし……舐めやがってこのタイトル、超イラつくぜェ~~~~~~ッ!!
 ……まぁでも正直、あの実質的に映像化不可能な原作がどうミステリ漫画として昇華されるのか気になるところではあるし、縦しんば不可能であるとすればただの「漫画版」ということにはならないと思うんですよね……文字通りただならぬコミカライズになりそう。そういう意味ではめちゃくちゃ期待してます。
 アッ、清原紘さんと言えば、氏が原作のイラストを担当していた『虚構推理』が来年の1月からアニメ化されますね。『屍人荘の殺人』も映画化するし『さよなら神様』も突然漫画化されるしで、最近本格ミステリのメディアミックスが熱い。本当になんなんだいったい。

 とまぁ、御託という名の宣伝はここまでにして……、今年は「パーティー」がテーマということで、とりあえず、パーティーに関する漫画?を挙げていきたいんですけど……、鬼窪浩久『パーティーがはじまる』?――エロ漫画だし。しかもタイトルが内容に全く関係ないタイプのアレですね。あっ、エロ漫画関連だと、あほすたさんによる最高に面白くて時々ためになるコミックエッセイ、『マショウのあほすたさん』に乱交パーティーの話があったような……え、「輪姦パーティー」? 同じようなもんでしょ。乱パと言えば、yoha『さよなら恋人、またきて友だち ~ロスト・チャイルド~』にそんなようなシーンがありましたね。あれはすごかった。あの巻自体の展開も凄まじかったし、やっぱりオメガバースは業も懐も深いなァ、と。そういう意味では僕はあまり好きじゃないんですが(yoha先生の漫画自体はキレッキレなので新刊の『青い春を売る教室』を読んでほしい。限界集落で春をひさぐ生徒たちによる、仄暗い叙述がぬらぬら光って、あなたの心を撫で切ります)。

 ここまで挙げても、なんだか自ずから語りたくなる漫画が一向に出てこない……「あほすたさん」も「さよなら恋人」も面白いけど本質的にはパーティー関係ないし……。

 ここで冒頭に戻って、「パーティー」を「輩」とか「集団」的な意味で解釈してみると、大学のミステリ研という「パーティー」が誂えたように立ち現れますね。でもこれも駄目、読んでないから(この記事の冒頭に引くために筆者は部屋に散在する積読の山から『十角館の殺人』を探していたのだがなかなか見つからず、見つけた時には読む気が失せていた。残念)。何か「十角館」から別の「パーティー」に繋がる手掛かりがあれば(筆者が)気持ちいいんですが……10年代の終わり……十角館……清原紘……、清原――そうかっ、清原なつの

光の回廊 〔文庫〕 (小学館文庫 きF 1)

光の回廊 〔文庫〕 (小学館文庫 きF 1)

 という訳で、いい加減冗漫な前置きにうんざりしているそこのあなた、大変長らくお待たせしました。今回紹介するのは清原なつの「スキヤキ・ジゴロ」です。
 あらすじとしては、やり手実業家のシングルマザーと登校拒否児の娘のもとに、高級肉のスキヤキにつられた新人美容師の青年が一夜のパーティーに招待されてやってくる、と、こういった次第なんですね。よく分からない話ですね。まぁ、そこはそれ、このお話は短編なので、あまり語りすぎると語り尽されてしまうんですが、やはりそれでも語り切れぬ妙味といったものがあるような気がします。

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 僕はこの作品を上にも貼った『光の回廊』で読んだんですが、たぶん、この本が清原なつの作品との初邂逅だったと思います。同文庫本には奈良時代を舞台に光明皇后を主人公に据えた表題作や、たこ焼きを求めて学園を脱出する少年の憧れと恋の物語・「3丁目のサテンドール」など、シリアスだったりシュールだったり随筆風だったりと色んな作風の短編が入っているので、最初にこの本に出逢えて本当によかったなと。清原なつのという人の漫画は、台詞の間とか台詞やモノローグそのもののセンスみたいなものがずば抜けていて、軽妙ながらクリティカルな物語を吐き出している、といった印象があります。それはときにニヒルでもあり、過ぎ去ったものへの感傷でもある、というような……。
「スキヤキ・ジゴロ」に話を戻すと、実はこれ、いなくなったお父さんの帰りを待ちながら、毎年違う男の子を連れ込んで、スキヤキ・パーティーをしている、という母娘の話なんですね。それが当の少女によって明かされるまでは私たち読者は作中の青年と同じくどういう物語なのか分からない状態に宙ぶらりんになっている。実際彼も『注文の多い料理店』のようなことになるのではないかと最初は恐れていた訳です。そのようなふわふわした物語の中で、一人達観したように物語を見下ろしているのが冒頭で『純愛 浩三と力』(何をもじっているかは言わずもがな)を読んだりしている小学5年生の娘です。
 彼女は再三にわたって「母」が「根が陰気で不幸な人」であることを強調し、その「ほほえみー恋ー結婚」という短絡思考によって自身が生まれたとまで言い切ります。少女のその強調は恐らく自分に対する言葉でもあり、だからこそ性的なニュアンスの一歩手前にあるような微妙な空間を形作るそのスキヤキ・パーティーという名のゲームを許容するのでしょう。他ならぬ自身の誕生日に。それは感傷であり、慰労であり、ある種の自省なのだと思います。青年に微笑みかけようとして、自分が上手く笑えなかったことに悲しんで腐ってしまうくらいには。

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そうなんですか

 母親がヒボタンバクトを歌い上げるなか、少女から諸々の事情が青年に向けて明かされます。青年は同情しながらも、父親も来年はきっと帰ってくる、と再婚を促して、その場から立ち去ります。それと入れ替わるようにして現れる、数年越しの極め台詞を熟考している父親の姿。母娘は揃って眠りに就いて。ハッピーエンドは、宴の後に、夢の中で。どうもそういうことらしいです。この文章を書いている自分でも何を書いているのかよく分かっていませんが、彼らの人を恋い焦がれるときの「むねがきゅーん」ってなる痛みは、その夜限りのものになったってことじゃないのかなぁ。うーん、マンダム。

 あっ、去年出た作者のベスト短編集『桜の森の満開の下』を途中まで読んだあと恐らく一年以上積んでいたということに、今、気づきました……ので、今年が終わるまでには読み終えようと思います。申し訳ねぇ、申し訳ねぇ。
 じゃあ、またね。

じゃあまたね (集英社ホームコミックス)

じゃあまたね (集英社ホームコミックス)






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これは蘭子PARTY。