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京大漫トロピーのブログです

【12/7】もうすぐMOVIX京都で『涼宮ハルヒの消失』が上映されるのでみんな観に行ってほしい

はじめに


 僕は今から楽しみで仕方がない。いよいよ『涼宮ハルヒの消失』がMOVIX京都で上映されるのだ。

 8月から始まった京都アニメーション映画作品特集上映。京アニの作品を映画館で見られるとても貴重な機会だ。一番最初の『映画けいおん!』の上映の時に思ったのだが、映画館で見るというのは、家で見るのとは全く別の体験である。感動の質が全く違うのだ。現に僕は映画の冒頭、放課後ティータイムのみんなが動いているのを見ただけで泣き出してしまった。最初に見たときでさえ、一回も泣かなかった映画だったのにだ。そのくらいのなんだか訳のわからないすごい力が映画館にはあるのである。

 『涼宮ハルヒの消失』(以下「消失」、本稿ではアニメ映画版のことを指す)は僕が本当に好きな作品で、今回はこの大傑作の魅力を伝えたい気持ちを抑えきれず筆を執った。漫画評論サークルのブログでわざわざアニメの話をするのを容赦願いたい。

 「消失」のネタバレが怖い人は先を読むことはおすすめしない。ただし、MOVIX京都で12月13日から一週間の間上映されるので絶対に見に行くこと。TVシリーズは見なくてもいいから。

 なお、この記事では、主に「消失」の話をする。漫画評論サークルのブログなので、漫画を絡めて話を展開することにした。ちなみに「消失」は、ハルヒSOS団クリスマスパーティ開催を宣言するところから物語が動き出す。そういえば、今年のテーマは「パーティー」だったようだ。テーマ回収成功!

キョンの体験はどのような意味を持つのか


 「消失」は一種の思考実験だ。ある日、キョンは突如として自分以外の全てが改変された世界にいることに気づく。自分以外の他者は、元の世界とは違った記憶を与えられ、違った関係性を持っている。全てつじつまが合うように改変されているので、彼らは異変に気づかない。違和感を感じているのはキョンと我々視聴者だけである。

 いつもならハルヒがいるはずの席にこの場にいるはずのない朝倉が座っている。ハルヒと古泉は学校のどこにもいない。あるべき世界からの乖離。この違和をはっきりと意識したとき、キョンの動揺は決定的になった。自分と世界観を共有する人間を求めてキョンは異常ともいえる行動を取っていく。


 ところで、石黒正数の漫画、『それでも町は廻っている』(以下「それ町」)でも、似た話がある。

それでも町は廻っている 14巻 (ヤングキングコミックス)

それでも町は廻っている 14巻 (ヤングキングコミックス)


 主人公の歩鳥は、ある日突然謎の存在に遭遇し、翌日関東一円を巨大台風が直撃し、何千人もの死者を含む未曾有の被害が出るということを告げられる。謎の存在は、台風を消すスイッチを提示、スイッチを押せば台風は消えるが、それを選択した歩鳥自身も消えると教え、自分が消える代わりに台風を消すか、それとも何もしないかという選択を迫った。歩鳥は悩んだ末にスイッチを押す(16巻128話)。今回取り上げたいのはその続編となる14巻の111話のエピソードだ。

 歩鳥は目覚めると、誰も自分のことを知らない世界に存在していた。自宅にたどり着くと家がリフォームされ、自分の名前は妹に与えられていた。人も、町も、自分の知っているものとは違う。この居心地の悪い世界で、歩鳥には誰も自分を必要としてくれる人がいないのである。歩鳥は、この体験を自分の根源的な恐怖と総括した。


 歩鳥はここで、恐怖する原因に、「住む場所がないこと」、「誰も自分を知らないこと」と「誰も自分が必要ではないこと」を挙げている。では、「消失」のキョンの場合はどうだったか。


 キョンの住む世界に与えられた変更は、次のようなものだ。

SOS団メンバーと朝倉の記憶が大きく書き換えられ、キョンのことを知らないか、もしくは全く別の関係性を持っている。
⑵ 他の登場人物もキョンとの大きな関係性の変化はないものの、多少記憶と関係性、健康状態が改変されている。SOS団以外の友人や家族との関係は改変前と同じである。


 つまり、キョンには、住む場所はあり、自分を知っていて必要としてくれる人がいるのだ。歩鳥の体験とは似ているようで根本から違う。だがキョンは、その体験を“恐怖という名の奈落”と表現した。少なくともキョンにとっては、自分を知る人、必要としてくれる人の有無は本質的な問題ではない。*1では、どこに問題があったのだろうか。

 キョンが世界の異変に気づいたとき、真っ先に試みたのは、ハルヒの存在を確認することだった。キョンにとってハルヒはクラスにいなければならない人物だったからである。

 人は自らの経験につねに一貫性を求める。目に見えるもの全てにそこに存在している理由を求めるのだ。朝倉がいるのにも、ハルヒ・古泉の不在にも理由が必要だ。人の世界は全てその存在・不在が納得のいく一貫したものでないといけない。その存在・不在に納得がいかない時に感じるのが違和感だ。我々が多くの時間、違和感なく生活できているのは、世界がすべて納得のいくように構成されているからである。

 さて、キョンの体験した世界について、ここまで述べたことを反復しつつ今一度整理しよう。そこには、時間的に見ても空間的に見ても以前の世界との切断がある。


 時間的な切断

⑴ 記憶の書き換え(=記憶の共有の喪失)
⑵ 体験における時間的な連続性の喪失(ハルヒ・古泉の不在、長門の性格の変化、挙げればキリがない)

 空間的な切断

⑶ 人・物の空間的な移動(ハルヒが持ってきたパソコンがない)
⑷ 関係性の変化


 上の記述のうち、⑴⑶は一次的な変化、⑵⑷はそこから生じた二次的な変化だ。
まず記憶の書き換えと空間的な移動によって、キョンにとっての元の世界秩序が根本から変化する。その変わってしまった世界に慣らされたキャラたちは、キョンの知る世界とは別の秩序の元で動いているので、キョンにとって元の世界に存在した因果関係では説明のつかない行動に出る。キョンから見たら、これは時間的な連続性が喪失していることに他ならない。

 ここから、さらに関係性の変化にまで発展する。人と人との関係性の基礎は、同じ連続した時間を共有していることにある。共有した時間を積み重ねることにより関係は深まるものなのだ。現に、キョンが改変後の世界で人に聞いて回ったことは、自分がその人と共有しているはずの記憶があるかどうかだった。記憶の改変は、否応もなくこれまで積み上げてきた関係性の変化ないしは消滅を意味する。記憶の改変は過去の改変という意味で時間的な変化にほかならない。時間的な変化が、関係性という空間的なものを同時に変化させるのだ。

 さて、ここまでの変化は何を意味するか。

 「それ町」で、謎の存在は、台風を消すスイッチを押した結果、歩鳥に起きる事態を、歩鳥が消えると表現した。実際には歩鳥は消えなかったにもかかわらず、だ。個人とは、人と人との関係の網の結び目のような点に存在する。他者が自分であることを示してくれることによって個人は存在できるのだ。先に述べたようにその基礎は記憶の共有にある。その記憶を始め歩鳥の存在を示す証拠が一切消去された世界では、そこにいる歩鳥はもはや元の世界の歩鳥とは違う別の存在なのである。

 キョンの体験においても、同様のことはいえる。元のキョンが存在したことを示す証拠は、あらゆる記憶・事物が改変されている以上、存在しないといってよい。その世界の人物が元々関係していたキョンは全く別の人物なのだ。だからこそキョンは今の自分の存在を示すものを必死で探していくことになる。

「消失」はどんな作品なのか


 ここからは、ストーリーの本筋の話に入ろう。

 キョンはいろいろ苦労したあげく、文芸部の部室から、この事態の打開策が書かれたメモを発見する。キョンは自分と同じ世界の長門が残したメモだと確信し、喜びに打ち震える。キョンは、自分が元いた世界での経験と連続したものにここで初めて出会えたのだ。

 次の重要な物語の転換点は、キョンハルヒと古泉にようやく出会ったシーンだ。話しかけてもまともに取り合ってくれない中、事態を変えたのは、3年前の七夕の日の二人の記憶だった。ハルヒは、この世界で唯一のキョンと共有している記憶を持った人間だったのである。この世界で、ハルヒは、キョンにとって、唯一の自分の存在を示す存在だったのだ。

 共有した記憶の喪失は関係性の喪失を意味する。逆に言えば、共有する記憶があれば、新たな関係性が生まれるということだ。ハルヒは記憶を共有しているキョンに興味を持ち、元の世界の勢いそのままに、文芸部の部室にSOS団全員を集めてしまう。

 実は、これが長門の提示した元の世界に戻る条件だった。パソコンに映し出された元の世界の長門のメッセージは、はキョンに元の世界に戻るかどうか選択を迫る。キョンの答えはYESだ。ハルヒとの記憶の共有が事態打開のキーポイントだったわけである。

 3年前の過去に戻ったキョンは元の世界の長門と合流、世界改変を引き起こしたのは、長門自身だったことを伝えられる。改変を修復するためのプログラムを組み込んだ銃を渡されたキョンは、再び時間を移動、改変直後の長門に銃を向ける。

 そこでキョンは自問自答する。なぜ、自分が元の世界に戻ることを選択したのか、についてだ。

 キョンは、ハルヒのせいで面倒ごとに巻き込まれる一般人と、自らのアイデンティティを定義していた。だからといって、SOS団での日々が本当に楽しくなかったのか?そう自分に問いかける。

 キョンが受動的な主体であるのと同様、我々もまた、受動的な面を持つ主体である。「ハルヒ」シリーズでは、ハルヒは何でも思い通りに出来る完全に能動的な主体として位置づけられている。つまりは神や運命の象徴だ。それに振り回されるキョンは、運命に振り回される我々のような存在として描かれている。彼が考えているのは、自分の能動性が十分に発揮できない生であっても、今の生を肯定できるかという問題だ。

 キョン長門に向かってこう言う。

「やっぱりあっちの方がいい。この世界はしっくり来ねえな。すまねえ、長門。俺は今のお前じゃなくて、今までの長門が好きなんだ。」
「こんな要らない力を使って無理矢理変わらなくてもいい。そのままでよかったんだよ。」

 キョンにとって、ハルヒのいる世界が自然で、それ以外の世界は“しっくりこない”ものになっていた。キョンが自ら述べているように、その元の世界の自然さを支えているのは、ハルヒに振り回される生が楽しかったという自らの感覚だ。肯定的な経験を積み重ねることによって、世界の自然さは成立していたのである。*2

 キョンにとって改変後の世界の長門は“しっくりこない”存在だった。元の世界の長門キョンにとってそのままでなければいけない、かけがえのない存在だったのだ。
自己は、他者と自分との同一性と異質性の組み合わせによって構成されている。自己のかけがえのなさは、同じようにかけがえのない他者との関係においてでしか確認できない。なぜなら、他者をかけがえがないと思う気持ちがあってこそ、自分自身もかけがえのない存在だと思うことができるからである。それは、今の自分の生の肯定に直接繋がってくる。

 そして、自分の今の生をはっきりと肯定することによって、キョンの中に生まれたのは、自分は傍観者ではなく当事者なのだという意識だった。そこから、主体的に今の日常世界を守っていく責任も生じてくる。自らの生を生きることは、つまり、人生から与えられた責任を引き受け、それに応答しようとすることなのである。ここに至って、キョンは世界の受容に至り、世界との間の能動-受動の関係は克服されたのだった。

おわりに~『それでも町は廻っている』について~


 漫画評論サークルのブログであることを忘れて、長々とアニメの話をしてしまった。「消失」を中心に書いたので、本文では「それ町」のエピソードが周縁的な扱いになってしまったのは反省している。だからこそ、「それ町」のすごさについて語って終わりにしたい。

 本文でも触れた「それ町」の歩鳥が消えた世界の話について語れば十分だろう。

 このエピソードのテーマは二つ。

 個人の世界に与える影響の明示と、自分を誰も必要としてくれないことの恐怖だ。

 「それ町」の改変世界では、「消失」と違い、歩鳥の存在自体がはじめからなかった世界が想定されている。そのことは、「消失」で描かれた問題を一部覆い隠すことにもなっているわけだが、同時に「消失」とは違う問題を提示している。

 まずは、個人が世界に与える影響はどれほど大きいものなのか、という問いだ。

 歩鳥が存在しないことによって、タッツンと真田が付き合っていたり、静がまだ作家デビューをしていなかったりと、あらゆる属性や関係性に変化が生じている。

 特に石黒正数が強調するのは名前の変化だ。

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 自らが名前を付けた犬の名前が変わっていたことに驚いた歩鳥。たたみかけるようにそこに現れた妹のユキコが、自分が歩鳥だと名乗る。

 もし、別の世界でよく見知った人が別の名前で呼ばれているのを聞いたとしたら、たとえその人の自分に対する態度に違和感がなくても、その瞬間に別人であることが意識化されるはずだ。そして、本来両親が自分に与えていた名前を妹が名乗っているのを見た時、歩鳥は自分の立場をユキコに奪われたように感じたのではないだろうか。
名前は、個人のアイデンティティの感覚と深く結びついている。ユキコが歩鳥という名をもって生きてきたと言うことは、歩鳥の家族との関係性がすべてユキコに奪われてしまったように歩鳥には思えたのではないだろうか。

 変化するのは生き物だけではない。

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 上の画像に描かれているように事物に対しても人が存在した証は残される。人が世界の中で関わるのは人に対してだけではない。事物との関係が案外重要だったりするのだ。「消失」では、事物に残された証の消失が明示的な形では描かれていない。石黒正数があえてこれを描いたセンスはすごいと思う。

 歩鳥は、自分が不在の世界で、自分がこれまで深く関わってきた人々が別の関係の秩序の中で何の不足感もなく生きていることを思い知らされる。まさに『それでも町は廻っている』のだ。しかし、だからこそ、今ある関係は自分にとってかけがえのないものといえるのではないだろうか。自分がいなくても成り立つ世界がありえたはずなのである。「それ町」のこのエピソードを読むと、僕は現在の周囲との関係がそのままの形で存在していることが、奇跡のようなとてもありがたいことのように感じられるのだ。

(文:ちろきしん)

*1:歩鳥のケースは、その設定上、孤独感が前景化したのであろう

*2:長門が世界を改変したのはなぜか?僕はこのキョンの「楽しかった」という宣言に関係があると思っている。キョンは肯定的な経験の積み重ねによって改変前の世界をあるべき姿として認識していた。それなら、長門が同じ世界をそう認識できなかったのは、否定的な経験の積み重ねによると考えられないだろうか。だとすると、唯一キョンだけを元のままにしたのは、キョンだけが長門にとって肯定できる存在だったからだろう。長門キョンに対する依存がいかに偏ったものだったかが窺える。また、長門が世界改変を行った原因は、エンドレスエイトで、1万数千回も同じ時間をループしたことが大きかったのかもしれないというのが僕の意見だ。同じ時間を何度も何度も繰り返すことは、時間的連続性の喪失を繰り返し体験することを意味している。本文で述べたように、時間的連続性の喪失は、関係性の喪失にもつながる。時間的・空間的に自らの世界との調和感が失われてしまうのだ。