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京大漫トロピーのブログです

【12/8】未知の世界を覗きたい

こんばんは。はたはたです。
パーティー、というと僕の場合は誕生日に家族でやったり、クリスマスに家族でやったりと、食卓にケーキがあればパーティーみたいな感覚しかありません。大きいパーティに参加してみたいものです。合コンでも可ですよ!コンパってcompanyからきてて、和製英語だそうですね。英語ではpartyを使うんだとか。今、コンパをウィキで調べて知りました。
さて、漫画の紹介です。12/1にだちさんが酒に関する漫画を紹介していましたが、やはり大きなパーティーといえばアルコールなイメージがあるので僕からも一つビールに関する漫画を。

ばっかつ!~麦酒喝采~1 (電撃コミックスNEXT)

ばっかつ!~麦酒喝采~1 (電撃コミックスNEXT)

「ばっかつ!~麦酒喝采~」という漫画です。題名もうまいですね。ビール好きな女子大生たちによる日常系漫画です。当然キャラクターたちはかわいいです。それはさておき、僕の思うこの漫画の大きなの見どころは、ビールに関する知識の深さと、登場人物たちの飲み(?)レポです。ビールってとりあえず生、だけではないいろいろな楽しみ方があり、いろいろな種類に、いろいろな味があるのだ、と感じ入るばかりです。まだ未成年ですのでビールなどは飲んだことはないのですが、味、飲みごたえを詳細に述べられた飲みレポを前にしては唾を飲み込まざるを得ません。そして、そこにビールの歴史、作り方などの知識が紹介されることで興味深さが増しています。よくあるグルメ漫画といわれればそれまでではあるのですが、豊富な知識と体験に基づく漫画は、どんなにありふれた装いでも飽きが来ないし長く心の中に残るものです。今でも小学生の時に夢中になって読んだ「まんが世界ふしぎ物語シリーズ」や「まんが世界のなぞのなぞシリーズ」をよく覚えています。せっかくですので、このシリーズについても紹介しておきましょう。

ジャングルにきえたマヤ (まんが世界ふしぎ物語)

ジャングルにきえたマヤ (まんが世界ふしぎ物語)

消えたムー大陸のなぞ (まんが世界なぞのなぞ)

消えたムー大陸のなぞ (まんが世界なぞのなぞ)

この二つのシリーズ(「まんが世界の不思議シリーズ」は新シリーズも出ているので実際は三つのシリーズ)は児童向けの考古学漫画で、古代に起こった出来事についてを大人役が子供役に実体験を交えつつ教えるという形のものだったと思います(なにせ読んだのが小学生の頃でしたのでストーリーの細かい部分はかなり忘れてしまいました)。コメディ調ながらもしっかりとした知識にもとづく説明、面白いトリビアがあり、没頭した記憶があります。やはり、歴史関係のものを題材にすると、歴史自体創作以上に面白い物語という側面がありますので、面白くなります。しかしそこに、子供の視点のものと大人の視点のものがいることで身近に歴史のロマンを体感できます。またそういった、現代人側の登場人物の掛け合いなどでコメディ調となり、より面白くなっています。シリーズの中のものとしては「まんが世界なぞのなぞシリーズ」のムー大陸の話は当時非常に感動した記憶があります。確かこのシリーズは本に書いてある事柄をマシンでバーチャルリアル化して見るというものだったと思うのですが、この回ではムー大陸説を唱えた人の本が題材となります。そこで、現在の視点からの様々な反論が出てくるのですが、ラストの作家とムーの王とのやり取りが心に来るものでした(多分)。このように、知識が背景にある漫画というものは、普遍的な面白さを内包しているのです。
上では歴史を知識の魅力としてあげましたが、それだけではなく、別世界への興味という面でも魅力があると思います。つまり、今いる世界と似ているようで違う世界で最もリアリティーのある興味がわく世界というものを歴史は提示してくれるのだと考えます。昔の人が、旅の話を聞いてみたところのない場所を想像したように、我々は歴史を通じてみたことのない世界を思い浮かべるのでしょう。さて、このような別世界の日常を取り扱った面白い作品があります。「セントールの悩み」です。

セントールの悩み(1)【特典ペーパー付き】 (RYU COMICS)

セントールの悩み(1)【特典ペーパー付き】 (RYU COMICS)

残念ながら、僕はまだアニメしか見ていないのですが(漫トロ民のくせに)、この作品にある世界を眺めるのが面白いと感じています。主人公たちやその周りの人々の日常がメインで描かれているのですが、そこに少しづつ見えるディストピア的な世界やちょっとした歴史、世界の関係といったものが非常に興味深いです。少しリアル、しかし違うという付かず離れずな世界観は、それを眺めるだけでも楽しいものですし、考察してもいいものでしょう。アニメのワンフレーズですが気に入っているものがあります。「英雄は故郷に帰ると憲法を制定し、元お姫様と獣たちと末永く民主的に暮らしました。おしまい」というものです。読み聞かせの最後の部分ですね。こういうちらっと出てくるディストピアな世界を見て、少し背筋を凍らせながらも面白く感じるところがいいものです。「1984年」をイデオロギー的背景を考えずに楽しむようなものでしょうか。そういえば1984年にはビッグ・ブラザー率いる政党の存在が書かれていましたね。つまり、パーティーが存在するということです。おあとがよろしいようで(強引)。

p.s. どこかにありそうな別世界の描写をうまくしてくれる作家さんとして僕は三崎亜紀を非常に推しています。彼の作品群の中でも「失われた町」をはじめとする、緩く世界観を共有した物語群が特におもしろい。彼の本領は短編といわれますが、この長編の物語群は長編であるがゆえに世界についての描写が多く、どこかファンタジックかつミステリアスながらも実際にありそうな世界を何作もの物語にかけて堪能することができるので本当にマジでおすすめです!!(小説の話なので追伸としました)

失われた町 (集英社文庫)

失われた町 (集英社文庫)

【12/7】もうすぐMOVIX京都で『涼宮ハルヒの消失』が上映されるのでみんな観に行ってほしい

はじめに


 僕は今から楽しみで仕方がない。いよいよ『涼宮ハルヒの消失』がMOVIX京都で上映されるのだ。

 8月から始まった京都アニメーション映画作品特集上映。京アニの作品を映画館で見られるとても貴重な機会だ。一番最初の『映画けいおん!』の上映の時に思ったのだが、映画館で見るというのは、家で見るのとは全く別の体験である。感動の質が全く違うのだ。現に僕は映画の冒頭、放課後ティータイムのみんなが動いているのを見ただけで泣き出してしまった。最初に見たときでさえ、一回も泣かなかった映画だったのにだ。そのくらいのなんだか訳のわからないすごい力が映画館にはあるのである。

 『涼宮ハルヒの消失』(以下「消失」、本稿ではアニメ映画版のことを指す)は僕が本当に好きな作品で、今回はこの大傑作の魅力を伝えたい気持ちを抑えきれず筆を執った。漫画評論サークルのブログでわざわざアニメの話をするのを容赦願いたい。

 「消失」のネタバレが怖い人は先を読むことはおすすめしない。ただし、MOVIX京都で12月13日から一週間の間上映されるので絶対に見に行くこと。TVシリーズは見なくてもいいから。

 なお、この記事では、主に「消失」の話をする。漫画評論サークルのブログなので、漫画を絡めて話を展開することにした。ちなみに「消失」は、ハルヒSOS団クリスマスパーティ開催を宣言するところから物語が動き出す。そういえば、今年のテーマは「パーティー」だったようだ。テーマ回収成功!

キョンの体験はどのような意味を持つのか


 「消失」は一種の思考実験だ。ある日、キョンは突如として自分以外の全てが改変された世界にいることに気づく。自分以外の他者は、元の世界とは違った記憶を与えられ、違った関係性を持っている。全てつじつまが合うように改変されているので、彼らは異変に気づかない。違和感を感じているのはキョンと我々視聴者だけである。

 いつもならハルヒがいるはずの席にこの場にいるはずのない朝倉が座っている。ハルヒと古泉は学校のどこにもいない。あるべき世界からの乖離。この違和をはっきりと意識したとき、キョンの動揺は決定的になった。自分と世界観を共有する人間を求めてキョンは異常ともいえる行動を取っていく。


 ところで、石黒正数の漫画、『それでも町は廻っている』(以下「それ町」)でも、似た話がある。

それでも町は廻っている 14巻 (ヤングキングコミックス)

それでも町は廻っている 14巻 (ヤングキングコミックス)


 主人公の歩鳥は、ある日突然謎の存在に遭遇し、翌日関東一円を巨大台風が直撃し、何千人もの死者を含む未曾有の被害が出るということを告げられる。謎の存在は、台風を消すスイッチを提示、スイッチを押せば台風は消えるが、それを選択した歩鳥自身も消えると教え、自分が消える代わりに台風を消すか、それとも何もしないかという選択を迫った。歩鳥は悩んだ末にスイッチを押す(16巻128話)。今回取り上げたいのはその続編となる14巻の111話のエピソードだ。

 歩鳥は目覚めると、誰も自分のことを知らない世界に存在していた。自宅にたどり着くと家がリフォームされ、自分の名前は妹に与えられていた。人も、町も、自分の知っているものとは違う。この居心地の悪い世界で、歩鳥には誰も自分を必要としてくれる人がいないのである。歩鳥は、この体験を自分の根源的な恐怖と総括した。


 歩鳥はここで、恐怖する原因に、「住む場所がないこと」、「誰も自分を知らないこと」と「誰も自分が必要ではないこと」を挙げている。では、「消失」のキョンの場合はどうだったか。


 キョンの住む世界に与えられた変更は、次のようなものだ。

SOS団メンバーと朝倉の記憶が大きく書き換えられ、キョンのことを知らないか、もしくは全く別の関係性を持っている。
⑵ 他の登場人物もキョンとの大きな関係性の変化はないものの、多少記憶と関係性、健康状態が改変されている。SOS団以外の友人や家族との関係は改変前と同じである。


 つまり、キョンには、住む場所はあり、自分を知っていて必要としてくれる人がいるのだ。歩鳥の体験とは似ているようで根本から違う。だがキョンは、その体験を“恐怖という名の奈落”と表現した。少なくともキョンにとっては、自分を知る人、必要としてくれる人の有無は本質的な問題ではない。*1では、どこに問題があったのだろうか。

 キョンが世界の異変に気づいたとき、真っ先に試みたのは、ハルヒの存在を確認することだった。キョンにとってハルヒはクラスにいなければならない人物だったからである。

 人は自らの経験につねに一貫性を求める。目に見えるもの全てにそこに存在している理由を求めるのだ。朝倉がいるのにも、ハルヒ・古泉の不在にも理由が必要だ。人の世界は全てその存在・不在が納得のいく一貫したものでないといけない。その存在・不在に納得がいかない時に感じるのが違和感だ。我々が多くの時間、違和感なく生活できているのは、世界がすべて納得のいくように構成されているからである。

 さて、キョンの体験した世界について、ここまで述べたことを反復しつつ今一度整理しよう。そこには、時間的に見ても空間的に見ても以前の世界との切断がある。


 時間的な切断

⑴ 記憶の書き換え(=記憶の共有の喪失)
⑵ 体験における時間的な連続性の喪失(ハルヒ・古泉の不在、長門の性格の変化、挙げればキリがない)

 空間的な切断

⑶ 人・物の空間的な移動(ハルヒが持ってきたパソコンがない)
⑷ 関係性の変化


 上の記述のうち、⑴⑶は一次的な変化、⑵⑷はそこから生じた二次的な変化だ。
まず記憶の書き換えと空間的な移動によって、キョンにとっての元の世界秩序が根本から変化する。その変わってしまった世界に慣らされたキャラたちは、キョンの知る世界とは別の秩序の元で動いているので、キョンにとって元の世界に存在した因果関係では説明のつかない行動に出る。キョンから見たら、これは時間的な連続性が喪失していることに他ならない。

 ここから、さらに関係性の変化にまで発展する。人と人との関係性の基礎は、同じ連続した時間を共有していることにある。共有した時間を積み重ねることにより関係は深まるものなのだ。現に、キョンが改変後の世界で人に聞いて回ったことは、自分がその人と共有しているはずの記憶があるかどうかだった。記憶の改変は、否応もなくこれまで積み上げてきた関係性の変化ないしは消滅を意味する。記憶の改変は過去の改変という意味で時間的な変化にほかならない。時間的な変化が、関係性という空間的なものを同時に変化させるのだ。

 さて、ここまでの変化は何を意味するか。

 「それ町」で、謎の存在は、台風を消すスイッチを押した結果、歩鳥に起きる事態を、歩鳥が消えると表現した。実際には歩鳥は消えなかったにもかかわらず、だ。個人とは、人と人との関係の網の結び目のような点に存在する。他者が自分であることを示してくれることによって個人は存在できるのだ。先に述べたようにその基礎は記憶の共有にある。その記憶を始め歩鳥の存在を示す証拠が一切消去された世界では、そこにいる歩鳥はもはや元の世界の歩鳥とは違う別の存在なのである。

 キョンの体験においても、同様のことはいえる。元のキョンが存在したことを示す証拠は、あらゆる記憶・事物が改変されている以上、存在しないといってよい。その世界の人物が元々関係していたキョンは全く別の人物なのだ。だからこそキョンは今の自分の存在を示すものを必死で探していくことになる。

「消失」はどんな作品なのか


 ここからは、ストーリーの本筋の話に入ろう。

 キョンはいろいろ苦労したあげく、文芸部の部室から、この事態の打開策が書かれたメモを発見する。キョンは自分と同じ世界の長門が残したメモだと確信し、喜びに打ち震える。キョンは、自分が元いた世界での経験と連続したものにここで初めて出会えたのだ。

 次の重要な物語の転換点は、キョンハルヒと古泉にようやく出会ったシーンだ。話しかけてもまともに取り合ってくれない中、事態を変えたのは、3年前の七夕の日の二人の記憶だった。ハルヒは、この世界で唯一のキョンと共有している記憶を持った人間だったのである。この世界で、ハルヒは、キョンにとって、唯一の自分の存在を示す存在だったのだ。

 共有した記憶の喪失は関係性の喪失を意味する。逆に言えば、共有する記憶があれば、新たな関係性が生まれるということだ。ハルヒは記憶を共有しているキョンに興味を持ち、元の世界の勢いそのままに、文芸部の部室にSOS団全員を集めてしまう。

 実は、これが長門の提示した元の世界に戻る条件だった。パソコンに映し出された元の世界の長門のメッセージは、はキョンに元の世界に戻るかどうか選択を迫る。キョンの答えはYESだ。ハルヒとの記憶の共有が事態打開のキーポイントだったわけである。

 3年前の過去に戻ったキョンは元の世界の長門と合流、世界改変を引き起こしたのは、長門自身だったことを伝えられる。改変を修復するためのプログラムを組み込んだ銃を渡されたキョンは、再び時間を移動、改変直後の長門に銃を向ける。

 そこでキョンは自問自答する。なぜ、自分が元の世界に戻ることを選択したのか、についてだ。

 キョンは、ハルヒのせいで面倒ごとに巻き込まれる一般人と、自らのアイデンティティを定義していた。だからといって、SOS団での日々が本当に楽しくなかったのか?そう自分に問いかける。

 キョンが受動的な主体であるのと同様、我々もまた、受動的な面を持つ主体である。「ハルヒ」シリーズでは、ハルヒは何でも思い通りに出来る完全に能動的な主体として位置づけられている。つまりは神や運命の象徴だ。それに振り回されるキョンは、運命に振り回される我々のような存在として描かれている。彼が考えているのは、自分の能動性が十分に発揮できない生であっても、今の生を肯定できるかという問題だ。

 キョン長門に向かってこう言う。

「やっぱりあっちの方がいい。この世界はしっくり来ねえな。すまねえ、長門。俺は今のお前じゃなくて、今までの長門が好きなんだ。」
「こんな要らない力を使って無理矢理変わらなくてもいい。そのままでよかったんだよ。」

 キョンにとって、ハルヒのいる世界が自然で、それ以外の世界は“しっくりこない”ものになっていた。キョンが自ら述べているように、その元の世界の自然さを支えているのは、ハルヒに振り回される生が楽しかったという自らの感覚だ。肯定的な経験を積み重ねることによって、世界の自然さは成立していたのである。*2

 キョンにとって改変後の世界の長門は“しっくりこない”存在だった。元の世界の長門キョンにとってそのままでなければいけない、かけがえのない存在だったのだ。
自己は、他者と自分との同一性と異質性の組み合わせによって構成されている。自己のかけがえのなさは、同じようにかけがえのない他者との関係においてでしか確認できない。なぜなら、他者をかけがえがないと思う気持ちがあってこそ、自分自身もかけがえのない存在だと思うことができるからである。それは、今の自分の生の肯定に直接繋がってくる。

 そして、自分の今の生をはっきりと肯定することによって、キョンの中に生まれたのは、自分は傍観者ではなく当事者なのだという意識だった。そこから、主体的に今の日常世界を守っていく責任も生じてくる。自らの生を生きることは、つまり、人生から与えられた責任を引き受け、それに応答しようとすることなのである。ここに至って、キョンは世界の受容に至り、世界との間の能動-受動の関係は克服されたのだった。

おわりに~『それでも町は廻っている』について~


 漫画評論サークルのブログであることを忘れて、長々とアニメの話をしてしまった。「消失」を中心に書いたので、本文では「それ町」のエピソードが周縁的な扱いになってしまったのは反省している。だからこそ、「それ町」のすごさについて語って終わりにしたい。

 本文でも触れた「それ町」の歩鳥が消えた世界の話について語れば十分だろう。

 このエピソードのテーマは二つ。

 個人の世界に与える影響の明示と、自分を誰も必要としてくれないことの恐怖だ。

 「それ町」の改変世界では、「消失」と違い、歩鳥の存在自体がはじめからなかった世界が想定されている。そのことは、「消失」で描かれた問題を一部覆い隠すことにもなっているわけだが、同時に「消失」とは違う問題を提示している。

 まずは、個人が世界に与える影響はどれほど大きいものなのか、という問いだ。

 歩鳥が存在しないことによって、タッツンと真田が付き合っていたり、静がまだ作家デビューをしていなかったりと、あらゆる属性や関係性に変化が生じている。

 特に石黒正数が強調するのは名前の変化だ。

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 自らが名前を付けた犬の名前が変わっていたことに驚いた歩鳥。たたみかけるようにそこに現れた妹のユキコが、自分が歩鳥だと名乗る。

 もし、別の世界でよく見知った人が別の名前で呼ばれているのを聞いたとしたら、たとえその人の自分に対する態度に違和感がなくても、その瞬間に別人であることが意識化されるはずだ。そして、本来両親が自分に与えていた名前を妹が名乗っているのを見た時、歩鳥は自分の立場をユキコに奪われたように感じたのではないだろうか。
名前は、個人のアイデンティティの感覚と深く結びついている。ユキコが歩鳥という名をもって生きてきたと言うことは、歩鳥の家族との関係性がすべてユキコに奪われてしまったように歩鳥には思えたのではないだろうか。

 変化するのは生き物だけではない。

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 上の画像に描かれているように事物に対しても人が存在した証は残される。人が世界の中で関わるのは人に対してだけではない。事物との関係が案外重要だったりするのだ。「消失」では、事物に残された証の消失が明示的な形では描かれていない。石黒正数があえてこれを描いたセンスはすごいと思う。

 歩鳥は、自分が不在の世界で、自分がこれまで深く関わってきた人々が別の関係の秩序の中で何の不足感もなく生きていることを思い知らされる。まさに『それでも町は廻っている』のだ。しかし、だからこそ、今ある関係は自分にとってかけがえのないものといえるのではないだろうか。自分がいなくても成り立つ世界がありえたはずなのである。「それ町」のこのエピソードを読むと、僕は現在の周囲との関係がそのままの形で存在していることが、奇跡のようなとてもありがたいことのように感じられるのだ。

(文:ちろきしん)

*1:歩鳥のケースは、その設定上、孤独感が前景化したのであろう

*2:長門が世界を改変したのはなぜか?僕はこのキョンの「楽しかった」という宣言に関係があると思っている。キョンは肯定的な経験の積み重ねによって改変前の世界をあるべき姿として認識していた。それなら、長門が同じ世界をそう認識できなかったのは、否定的な経験の積み重ねによると考えられないだろうか。だとすると、唯一キョンだけを元のままにしたのは、キョンだけが長門にとって肯定できる存在だったからだろう。長門キョンに対する依存がいかに偏ったものだったかが窺える。また、長門が世界改変を行った原因は、エンドレスエイトで、1万数千回も同じ時間をループしたことが大きかったのかもしれないというのが僕の意見だ。同じ時間を何度も何度も繰り返すことは、時間的連続性の喪失を繰り返し体験することを意味している。本文で述べたように、時間的連続性の喪失は、関係性の喪失にもつながる。時間的・空間的に自らの世界との調和感が失われてしまうのだ。

【12/6】ひとつ大人になりました

こんばんは。ころもです。
今年のテーマはパーティーですが、コンパもパーティーに入るでしょう。
コンパといえば、やっぱり合コン!!

漫画のなかの合コンあるあるはたくさんありますね。王様ゲームからのサービスシーン、いい感じになった二人がそのまま夜の街に消えていく、お酒を飲みすぎて帰れないからのお泊りなどなど、たくさん思い浮かびます。
あと最近聞いたのですが、合コン女子の間では「合コンさしすせそ」なるものが広く知られているようです。みなさんは何だと思いますか?

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さあ、乾杯です!!

正解は……

さ:さすがですね! し:知らなかった! す:すごいですね! せ:センスいい! そ:そうなんですか!

こちらが「合コンさしすせそ」です。すべての語尾に!マークがついているのがポイントですね。強調してます。
確かにこれを言われたら、悪い気はしませんね。

さて、なぜ私が合コンの話をしているのかといたしますと、先日わたくし、ころもは人生で初めて合コンに参加しました!!!!
パチパチパチ!!すごい!!感動!!!合コンなんて都市伝説だと思っていた私ですから、「漫画でよく登場する合コンは果たしてどんなものなのか!?」確かめる機会を得たので、ウキウキです。

さて、合コンはどんなものだったか……。率直な感想としては……




ただの楽しい飲み会やん!!!!!!私の知ってる合コンじゃない!!!!!!!!!!!



って感じでした。それもそのはず、頑張ってコミュ力をあげたところで、集まった奴は結局のところ陰キャであるからです。私が集めたメンバーだもん、パリピであるはずがないんですね……。世の中の合コンとはどんなものなのか、何もつかむことはできませんでした。でも、「合コンさしすせそ」の″そ”は使ったのでほめてください。
しかし、ひとつ学びました。合コンはただの出会いの場に過ぎないということを。そこで出会った人とどうなるかは、自分次第なんですね。
ひとつ、私も大人になれました。




さて、まだ漫画を紹介してないですね。合コンの話をしてきたので、飛鳥時代の合コンが描かれている漫画を紹介します。

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とっても重い空気の合コンですね…。
ちなみに1カップル誕生します!

そうこれは『天智と天武』です。天智と天武といえば、みなさん!歴史の授業で習いましたね!?
そう、大化の改新白村江の戦壬申の乱!!!!!!!!

最高のイベント、3連荘ですね~。
まずは大化の改新蘇我入鹿の首を切ったことによって、天智天皇の歯車は狂い始めるんです。
イベントの発生によって、天智天皇大海人皇子はいびつな兄弟愛を燃え上がらせます。
中臣鎌足額田王重祚した斉明天皇そして大友皇子などの重要人物を巻き込んだ愛憎劇がここにあるのです!!!!!!!
不倫に寝取られ、殺しもあるよ。
拗らせた狂人でありながらも、心のどこかで愛を求めている天智天皇と、彼を憎みながらもなぜか憎み切れず、言葉に表せない愛を抱える大海人皇子。ふたりが白村江の戦いのなか、海の上で互いへの感情をぶつけ合うシーンは脳裏にこびりついて離れません。そして、時は過ぎ、燃え上がる寺を背景に大海人皇子天智天皇をお姫様抱っこするのです!!!!!サイコーだ!!!!

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やっぱり天智天皇は受けだよね~弟がんばれ!!!!

日本史のブロマンスの中でもなかなか凝った作品です。おかげで高校受験の際はこの時代だけよくできました。私のバイブルです。
さあ、みなさん、『天智と天武』を読みましょう。

天智と天武 コミック 1-11巻セット (ビッグ コミックス)

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ころも

【12/5】ハッピーライフ

 

こんばんは。ついに、念願のジムデビューを果たしたのびです。街雄鳴造とともに、日々筋肉強化に努めてます。ジムに通っていて思ったことは、「運動するとポジティブになれる」ということですね。ストレス解消にもなるし、身体も鍛えられるし、何より超楽しい。

私、ジムに通って良かった~!

みんなも爽やかな汗を流して、鬱々とした学生生活から抜け出そうぜ。

 

今回のお題は「パーティー」なので、ポジティブパーティーな映画を紹介しようと思います!

 

私が今回紹介する作品は、『I feel pretty!~人生最高のハプニング~』という映画です。題名からし自己啓発じみてるなぁ。でも、「イエスマン」みたいに面白いんじゃないかな、と思って期待に胸を膨らませて観てみました。結構こういったコメディ映画好きなんだよね…。

 

 

あらすじ
主人公のレネーは、ぽっちゃりした体型とパッとしない顔で、容姿に強いコンプレックスを持っていた。高級コスメ会社のオンライン部門に勤めているが、華々しい本社ではなくチャイナタウンの地下室に追いやられ、日々を悶々と過ごしていた。ある雨の日、レネーは神様にお願いをする。「私を美人にしてください!」と。それから数日たち、一念発起したレネーはジムに通い始めるが、自転車のマシンから横転し頭を強打!目を覚ますと自分がトップモデル並みのの美人になっていたのだ。しかし、それはレネーの思い込みであって、他人から見てもレネーの見た目は何一つ変わっていないのです…。

 

 

結論から言うと、この映画めっちゃ元気が出ます。

この映画の一番良いところって、主人公の見た目が一つも変わらない所なんだよね。人って思い込みだけで、こんなに変われるんだと思ったよ。レネーが魔法にかかって自分を美人だと思ってる時って、今までと表情、言動、服装とかが全然違うんだよね。軽快なBGMに、全身ピンクでミニスカート、高いハイヒールを履いて、右手を突き上げて「Foooo!」って言いながら、レネーが本社を闊歩するシーンとかめっちゃワクワクしたな。それくらいレネーの面白いほど突き抜けたポジティブさに魅了される。この映画を見終えた時、余韻で眠れなかったもん。


他のキャラクターとレネーの対比もうまく描かれているなと思って、美人でコスメ会社の社長のミシェルは一見全てを持っているかと思われるけど、声の高さがコンプレックスで自信をもって話すことができない。レネーのボーイフレンドのイーサンも、俗にいう草食系男子で会社での男社会に馴染めずにいる。みんなそれぞれにコンプレックスを持っているんだけど、レネーの自信満々で前向きな姿勢にみんな魅了されて、変わっていく。

最近また『ご近所物語』を読んで、主人公の実果子も背が小さくて華奢な体型にコンプレックスを持っているけど、それを上手く利用したファッションをしていて、短所を長所に変えて個性を生かすことって大事だと思ったよ。

 

 

ご近所物語 完全版 全4巻 完結セット (愛蔵版コミックス)

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私も自分になかなか自信が持てないまま、先日二十歳になっちまいましたが、ジムに通ったりバイトをしたりして少しでも自分を変えていこうと思ったよ。顔はなかなか変えられないしね、うん。

毎日を楽しく生きていたいね!そんなわけで、のびでした~!

 

【12/4】マンガって超intellectualなpursuitじゃん

どうも、コト。です。今回のテーマはパーティー…っていわれてもこちとら陰キャ大学生、縁がないよ~って思っていたのですが、ありました、パーティー。今年の夏、オーストラリアに一か月ほど留学していたのですがそこで友人にパーティーに誘われたんですね。海外の“パーティー”っていうとドレス着てみんなで踊って…みたいなイメージがあるんですが私が行ったのは全然そういうのではないです。ペルー人の友人の家に行って、メキシコ料理を一緒に作って食べておしゃべりする、っていう所謂ホームパーティー。でもよく考えたら私似たようなことを友達とたくさんしてるなって思ったんです。私は月に一回高校の友人と集まって料理を作ったり踊ったりDVD爆音上映会してるんですが、これって…立派なパーティーじゃない?パーティーって言うと楽しさ倍増する気がする。要は物は言いようなんだなって思いました。

せっかく留学の話をしたし向こうで買った漫画を紹介しようかな、じゃん!

Laura Dean Keeps Breaking Up With Me

Laura Dean Keeps Breaking Up With Me

  • 作者:Mariko Tamaki
  • 出版社/メーカー: First Second
  • 発売日: 2019/05/07
  • メディア: ハードカバー

Amazonにあるんか~い。ま、本屋で選んでいるときのワクワクや店員さんとの会話はプライスレスやもんね。

この漫画、いい意味で海外作品っぽくない絵柄ですよね、すごく綺麗で一目惚れしました。
『Laura Dean Keeps Breaking Up With Me』表紙の2人はメインキャラのLauraとFreddy。もうタイトルでドロドロの恋愛って感じがして面白そうじゃないですか?でもね、さらに面白いことに、表紙のLauraとFreddyは両方女の子なんです!!!!つまりガールズ・ラブです。Foo~~


ざっくり内容を説明しますね。主人公・Freddyは17歳のアジア系の女の子で、レズビアン。ボーイッシュな見た目のLauraは学校でも有名なプレイガール。FreddyはそんなLauraに頭を悩ませつつタイトル通り付き合ったり別れたりの煮え切らない関係を続けています。物語はFreddyのLauraとの何度目かの失恋から始まり、日常生活のなかでのFreddyとLaura、親友のDoodle、友人たちとの交流を描いています。

この漫画、微妙な距離感の変化とか恋に振り回される多感な女の子たちが本当に上手く描かれているんです。Lauraはもう、本当にどうしようもない遊び人なのにFreddyは「恋は盲目」。ずるずるとLauraに入れ込み、親友DoodleのSOSに気が付けない……。読んでいると口出ししたくなります。「なんでLauraと別れないの?あんな子どこがいいのよ!」「FreddyとDoodle最近話してなくない?大丈夫?」ってね。読者はFreddyたちのゴシップを楽しんでおせっかいを言うクラスメイト、みたいな立場で楽しめるのがこの漫画の人物描写の綿密さと人間関係の動かし方の上手さを物語っているのではないでしょうか。


……まぁ確かに英語なのでニュアンスが分からないところ結構あるんですけどね……。I feel like Charlie Brownとか……どういうことだよって思ったよねPeanuts詳しくないもん。でも勉強になるし一石二鳥なのかな。いや~英語力あげたいなってつくづく思いますね。
でもレズビアンである主人公の複雑な感情とか、それゆえの学校での噂話、gayとhomosexualの言い方で揉めるクラスメイトとか興味深いシーンがいくつかあります。ただの女の子同士の恋愛の話ではなく、あくまでこの漫画は私たちと同じように社会の中で日常を送る、17歳の女の子の話なんです。たまたま彼女がレズビアンだっただけ。そういう描き方がされた良い作品だと思います。

心理描写が上手いし絵もきれいなので日本の漫画しか読んだことないよって人にも読みやすい作品だと思います、ぜひ。(私のガバガバ英語力で読めたから気を張らなくてもいけるいける)言ってくれればブンピカ持ってくよ~。


最後にこの作品で好きなやりとりを貼っておきますね。おやすみっ♡
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【12/2】パーティーって言葉に悪い印象があるなら全部パリピのせい

こんにちは。漫トロピー副会長のふれにあです。
若干遅くなりましたが12月2日分のアドベントカレンダーです。
先日のNFは楽しかったです。

やってきましたね、今年もアドベントカレンダーの季節が。
今年のテーマは「パーティー」。パーティーってなんかいいよね、言葉の響きが。大学生になると友達とわいわいやるのって「飲み」とか「コンパ」と呼ぶようになるじゃないですか。それに対してパーティーという言葉の無邪気さよ。誰かの家で壁に折り紙でつくったチェーンみたいなやつ貼り付けてさ、料理囲んでクラッカーとともに始めたいもんだね、ああパーティー
というと凄く懐かしく素敵な感じがしてよいけれど、そう考えると「パーティーピーポー」略して「パリピ」ってほんと頭の悪い品格のない言葉だな。我々の無邪気さを汚さないでくれ。

🌲🌲🌲

さて、漫画の紹介。今回はNFの総合ランキングでは語られなかった新しい作品を探してきて語ろうということで、今回もジャケ買いをしてきました。プレラン(漫トロ内で総合ランキングを考える数か月前に各自良さそうな作品を10作ピックアップして紹介する会)で3作ジャケ買いしたときは正直はずれが多かったけど、懲りずに選んだよ。はいこちら。

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あ!! いま読んでる漫トロ会員の何人かの心の声聞こえたよ!?
「あ~、こいつが好きそうな表紙やな……」って。
それは否定しないけど。ジャケ買いだしね。
この漫画は2019年10月5日付けで発売されたイトイ圭さんによる作品です。僕はこの作者の作品を初めて読みました。「楽園」で連載していたそうです。残念ながら来年のランキングには入れられません。
ところで僕は昨年施川ユウキさんの『ヨルとネル』について書いたので、奇遇にもまた「○○と○○」というタイトルのものを紹介しているんだね。
パーティー? 関係ないっす。

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主人公は女子高生の頬子。父親はロックバンド「花と頬」のリーダーを務めている。ある日委員会の仕事で話すこととなったクラスの男子・八尋に、父親がミュージシャンであることを気づかれてしまう。コアな音楽趣味を持つ八尋は頬子の父の大ファンだったのだ。そこから二人は静かな図書室での筆談を通して、互いの趣味などについて話を深めていく。気づけば頬子は、八尋に紹介された音楽ばかり聴くようになり、八尋に想いを寄せてるようになっていた。しかし、距離を縮められたかと思うと、話の中心は父の音楽のことばかりだった。「好きなミュージシャンの娘だから私と話しているの?」と不安になり始める。未だ垢抜けない不器用な二人と、彼らを取り巻く人々の、ひと夏の物語。
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というお話。1巻完結だよ。
率直な感想は、「淡々とした進行でこちらが行間を読まないといけない部分が多分にあるが、キャラの機微を繊細に描けていて素直に切ない気持ちになれた。面白かった。」といったところでした。
雑に言うと、「田島列島や『違国日記』好きな人は割と好きそう」。
この作品をジャンル分けするなら「恋愛もの」ということになるけど、ドラマチックな事件やボロボロ泣けるシチュエーションはあまり見つけられないかもしれない。しかし、我々の日常も別に「恋愛もの」でも「バトルもの」でもないし、回収されない伏線もあるし、覚えていることしか覚えていないものでしょう?
ジャケ買いが大外れだったら別の漫画で描くことを考えていたので、これで書けることを嬉しく思う。

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視線の移り変わり上手いね

作中の描写はほぼすべてが、「舞台に役を配置し、吹き出しでセリフを言わせる」だけのシンプルな手法で進んでいく。
静かなタッチで描かれていく登場人物は、いつも表情にコンテクストが込められている。特に視線の向け方が毎回毎回上手いなと思った。会話文も不自然さがなく、作り話感を抱かずに読み進められる。それだけ丁寧に作りこまれている。
物語中何度も、頬子と八尋によるルーズリーフ上の筆談が描かれるんだけど、ふたりの文字の癖から明らかに書き手が区別できるところや、一昔前のメールのような、もどかしくもドキドキするやりとりには、つい「いいなぁ」と思わずにはいられなかった。あまずっぱい。

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なんかいいなぁ

音楽、文学、時には漫画が会話の中で数多く紹介され、物語のアクセントになっている。コアな音楽には全く知識がない中で、親しい人から勧められたものをとりあえず見てみるという展開は、多くの人が経験したことがあるのではなかろうか。

主要キャラ二人の関係性が変化していくところが主な話題だが、有名人の娘に生まれた頬子が父のファンである八尋に想いを寄せていくという設定は、他のどこかで似たようなものを見たことがあるような気がしながらも、陳腐さはなかった。
そこでミュージシャンの父親をもつ頬子と医者の父をもつ八尋の、似ても非なる家族観が物語を引き立てている。大きな力を持つ父をずっと見続けてきた二人はその家族観に少し冷めたところがあり、そこが話しやすさにつながっていたのではないかと思う。

一番心にきたのは終盤の展開だが、それをここで語るわけにはいかない。
読み手が意欲的に読もうとすれば深く味わえる作品だから、ここまで読んで「良さそうだな」と感じたら実際に読んでみてほしい。

しかしながら、僕が2回読んだ程度では直接描写されていない設定や出来事を読み取るのは難しかった。ブンピカ持ってくからみんな読んで話聞かせてくれ。
作者はあとがきで「世界で3人ぐらいしかこれを読んでいないんじゃないかと思って描いた。登場人物の背景のストーリーはあるが、それを描くより読み手のなかで余韻に浸ってほしい」というようなことが書かれているが、僕としてはもうちょっと説明が欲しかったなあ。これだけ精神描写上手いんだから。

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ところで、この前みかんばことだちと僕だけがブンピカにいたときに、「読み手である自分が物語の主人公より一回り年上になっちゃうと、もう『浸る作品』としての側面が大きくなりすぎちゃって悲しいね」という話をしたけど、この作品でもかなりそういう要素はあった。くぅー。

俺たちの青春はまだまだこれからだ!


(ふれにあ)